▼ 01:何かが変わる予感
職場近くのラーメン屋。
客がテーブルに置き去りにした新聞を読みながら、男は残り一口分の麺を勢いよく啜った。
「こんな辺鄙なトコで。物騒やのう」
田舎で起きた殺人事件の記事を流し読みしつつ、チャーシューを惜しみなく噛み砕いて飲み込み、口内にねっとり残る脂をコップになみなみと注いだ水で喉の奥へと押しやった。
「ご馳走さん」
「毎度おおきに。真島さん、これからお仕事でっか?」
「せや。気ぃダルいわ」
「夜の帝王がそないなこと言わんでください。この店も真島さんの手腕でどでかくしてもらいたいですわ」
「この狭うて小汚い店やからここのラーメンは美味いんやで。ほな」
店主との会話もそこそこに、真島は会計を済ませて蒼天堀で一際賑わうキャバレー "グランド" の豪華な扉を開けた。
堅苦しい蝶ネクタイを付け、これから始まる支配人としての長い夜に溜め息を吐いた。
「支配人、今お時間よろしいでしょうか?」
事務室に向かう途中、店長の沢辺に声をかけられ足を止めた。要件を聞くとホステスの一人が友達をグランドに紹介したいという。
「わざわざ俺に相談する話ちゃうやろ。ホステス募集の看板出しとるんやから、履歴書持って来たらええだけのことやないか。そんくらいお前で処理せえ」
「もちろんホステスなら私もそうしたんですが……バンドのピアニスト希望だそうで」
「ピアニストぉ? もうおるやろ」
「私からも募集はないと何度も伝えたんですが引かなくて」
これやから女は、と真島は小声で呟き、後頭部を掻いた。
「今日ナツメは?」
「もう来ています」
「わーった、俺から話してみるわ」
「お手数をお掛けしてすみません。失礼します」
ナツメはホステスの中でも聞き分けのいい女だったはずなのに、そこまで引かない理由は何なのか。
重い足取りで控え室へと出向き、ボーイにナツメを連れてくるよう伝えると、ものの数分もしないうちにナツメが小走りにやって来た。
「支配人、お疲れ様です。私を呼んでいただいたのって店長に話してた件ですか?」
「さすがナツメちゃん、話が早ようて助か──」
「お願いします!」
真島が話し終える前に、ナツメの叫びに近い声がホール中に響いた。
「ど、どないしたんや! とりあえず頭上げぇや」
「私の友達を助けてください! 募集してないのはわかってます。でも、ピアニストとして雇ってあげて欲しいんです!」
「詳しい話聞かせてもらわんと何が何やらわからんわ」
深々と頭を下げ続けるナツメの身体を起こしてやり、客席のソファに座らせて、真島も向かい合うように腰かけた。
「随分とワケありな感じやな」
「仕事をクビになったって連絡があったんです」
ナツメの幼馴染みだという友人は、高校を卒業してすぐに祖母の知り合いが経営している店で働く為に北海道へと渡り、ピアニストとして生計を立てていたが、数日前に理由もわからず突然解雇されたらしい。
「そら酷い話やなぁ。せやけどナツメちゃんの友達はなんで蒼天堀に来たんや?」
「……天涯孤独なんです、彼女」
そう伏し目がちに話すナツメを見れば、その友人が複雑な過去を背負っているのだろうとすぐに想像がついた。
物心がつく前に両親は離婚、母親に引き取られたが男ができた途端に育児放棄。父親に連れ戻されたものの、結局一人では育てきれずに祖父母に預けられた。祖父は小学生の時に他界、祖母も彼女が北海道に渡った直後に亡くなったらしい。
「父親は?」
「2か月前に交通事故で……。大切な人も仕事も失って、頼る人が誰もいない彼女に私ができることと言ったら、ここに呼んであげることくらいしかなくて……」
勝手なことをしてごめんなさい、とナツメは再び深々頭を下げた。
信じていた人に裏切られる絶望、大切なものを失う喪失感と虚無感。顔も何も知らない女の話だが、真島は無意識にその壮絶な過去を自分の過去と重ね合わせていた。
「お願いです、支配人! 彼女を雇ってもらえませんか?」
「たしかにバンドはむっさい男ばかりやからなぁ。一人でも女の子がおれば紅一点、華はあるわな。ただ、俺一人では決められん。演奏してるヤツらに聞いてみんと」
明日、その友人を連れて来れるか聞いてみると、ナツメは大きく首を縦に振った。
「バンドマスターに声かけて、ここでやっていけるか見極めてもらうわ」
「支配人〜、ありがとうございます! 明日必ず連れてきます!」
何度目かわからないお辞儀をして、軽やかな足取りで控え室へ戻ろうとするナツメの背中に真島が声をかける。
「その子の名前は?」
「神崎美流です」