▼ 10
季節は秋の終わり頃か。最近は早朝でも肌寒く感じることが多い。
枕元に置いていた時計のアラームを、目を擦りながら止めた。欠伸をしてベッドから這い出て準備をする。まだ外は薄暗い。そっと部屋から出て、静かな廊下に出る。それからまた別の部屋に入って扉をゆっくり閉めた。眠気覚ましに顔を洗って歯を磨き、またひとつ大きく欠伸をしながら扉を開けると祈が壁に寄りかかって俺を見ていた。
「……おはよう、アヤト」
「はよ。悪いな、こんな朝っぱらから付き合わせて」
「ううん、だいじょうぶ。……わたしもがんばらないとだもん」
「ありがとな」
祈を引き連れ自室に戻り、少しの間廊下で待っててもらって身支度を整える。寝ぐせは……、後ででいいや。
傷薬をたっぷり入れたバッグを肩にかけて部屋を出ると、祈の隣に一人増えていた。赤髪を揺らしてニッと笑みを浮かべるトルマリンに、やれやれとポーズを見せるとわざとらしくショックを受けるポーズを返される。
「別にお前まで付き合ってくれなくていいのに」
「何言ってるんスか!オレはアヤト様の護衛なんスよ?一緒に行くのは、当然のことっス」
「でもお前には他にも仕事が、」
「オレを誰だと思ってるんスか。あのイオナさんのスパルタ教育を受けて合格したオレっスよ?これぐらいなんの支障もないっス!」
「す、すごい!トルマリン、すごいね……っ!?」
「へっ?え、えへへー」
祈に尊敬の眼差しを向けられて照れているトルマリンに小さく笑って、改めてお願いをした。これで今日もバトル練習の相手に困らずに済む。
それから、エレベーターを使わずに階段を駆け下りて、まだ人通りの少ない道を走り抜ける。ビルを出る前からすでに特訓は始まっているというわけだ。少し冷たい風を一身に受けながら、スカイアローブリッジを走る。紺色の海の向こう、オレンジ色の日が顔を出し始めるのが見えた。息を切らして立ち止まり、橋に寄りかかってゆっくりと昇る朝日を見る。
──……この向こう、リヒトが俺を待っている。
そう思うと、身体の奧底から熱いものが沸き上がる。拳をぎゅっと握りしめてまた走りだすと、後ろからトルマリンの声がした。走りながら祈と一緒になって歯を見せながら笑って、さらに速度を上げる。へへっ、誰が待ってやるもんかあ!
今日も今日とて、ヤグルマの森で特訓に励む。はやる気持ちを全て特訓にぶつけて、素早く祈に指示をだす。何がなんでもヒウンジムでは勝たなくては。確実に、そして早く……!
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三人揃って汗だくでビルへと向かう。完全に日が昇り、だんだんと働く人間たちで道が見えなくなる時間帯だ。今はとにかくシャワーを浴びたい一心の中。
「アヤト様」
ふと、トルマリンが立ち止まった。タオルで思いっきり顔を拭きながら振り返ると、俺に目配せをする。トルマリンが指し示す先は路地裏。いい思い出がないのと、嫌な予感がして何も見ないようにまた歩きだそうとしたものの祈が俺を引っ張ってきたから見ざるを得なかった。
ピンク色の髪に、やたら露出が多い服。
……ああ、またもや出会ってしまうのか。行きたいが警戒心からかオロオロとその場で足踏みをしている祈の横、俺は片手を両目に当てて一つため息を吐いた。
「アヤト様、やはり彼はあの時の、」
「あれ、ケガしてる……!ねえっ、アヤト、!」
「……っあーもう!」
頭をがりがり掻いてから、トルマリンが持っていた俺の上着をひったくって駆け足で路地裏へ入った。俯いたままふらふらと歩いていたヤツが、俺たちの足音に気付いたのか勢いよく顔を上げると同時に眉間の皺が一瞬で消えて驚きに変わる。まん丸の紫色の目が俺を見つめて、身体をこちらに向けて立ち止まった。
「どう、して、……」
「……そりゃこっちのセリフだし」
ゆっくり近づいていっても、エネは逃げる素振りを見せない。寧ろこちらに向かって前のめりになっているように見えるのはどうか錯覚であってほしい。
遠くからでも小さく見えた赤い点々は、エネの肌が白いから近づくと余計に目立って見える。相手が男か女かどちらかは分からないし知りたくもないが、これほどまで全身に渡って吸い付いていたのは余程エネに執着しているのか。思わずドン引くレベルだ。……もしや祈が怪我をしていると言っていたのはこの跡のことなのでは。
「こんなとこで何してんだよ」
「……、……」
俯いて何も答えないエネ。
偶然にしても何にしてもここまでコイツとこんなクソ広い街中で出会ってしまうということは、つまりそういうことなんだろう。こんな分かりやすいフラグを立てるなんて、俺の物語、クソ単純かよ。
ああ、そうだ。もういい。……こうなりゃイヤでもエネに関わってやろうじゃんか。
エネの手前。丸めていた上着を広げて前から後ろに腕を運んで肩にかけてやると、今度はゆっくりと顔を上げて俺を見る。エネは何か言おうとしたのか小さく口を開いたものの、すぐ結んで唇を噛んだ。
それを見て、咄嗟に手を伸ばしてエネの頬にそっと触れた。赤く腫れている頬はまだ熱を帯びている。ついでに切れている口元と、まだらに赤くなっている首にも気づいてしまって視線を斜めに逸らした。……もしも祈がこっちの傷に気付いていたのなら、もうどんな小さな傷も祈には隠せないだろう。
「ど、どうしたんだよこれ。誰にやられたんだ?」
「……だいじょぶ、だよお」
目を細めてへらり笑うエネに、肩に掛けてた上着を掴んで今度は頭から掛けて。下手すると女子より細いであろう白い手首を掴んで引っ張り歩き出す。後ろ、エネから戸惑う言葉が漏れているが聞こえないふりを決め込む。
「っアヤトくん!ぼく、ほんとにだいじょ、」
「大丈夫じゃないだろ」
「だいじょうぶだもん」
「震えてんじゃん」
「……っ、」
トルマリンに目配せをすると、こくりと頷き無線を繋ぐ。手当の装置も俺たちが着く頃には準備万端ということだ。ついでにトルマリンのことだから豪華な朝食も手配してくれているはずだ。
「……あかくなってる、いたい……?」
ふと、エネに視線を戻すといつのまにかエネの隣に祈がやってきていた。同じぐらいの背丈……いや、まだ若干祈のほうが小さいか。こう並ぶとさらに幼く見える二人だ。まだ若干祈は警戒しているのか、エネに触れようとはしないが顔を覗き込むように見ている。眉がハの字になっていて、本気で心配しているようだ。
それにエネが驚いたように目を丸くしながら祈を見て、一回視線を下げると笑顔を見せた。
「いたくないよ。ぼくは大丈夫だから、心配しないで」
「うん……」
「……ありがとお」
エネの言葉に頷いて一歩下がった祈が、今度は俺の前に来て空いているほうの手を掴む。そして引っ張り、小声で「早く」と俺を急かした。ほらみろ、祈にだって分かるんだ。お前が大丈夫じゃないってことぐらい。
エネの腕を掴んでいた手が、急に空気を掴んだ。直後、ボン!という音と白い煙が生まれて。コンクリートの上に俺の上着が広がっていて、その中心部は膨らんでいる。慌ててしゃがんでめくってみれば、小さなエネコが横たわっていた。
「ほんっと馬鹿ヤローだな!?トルマリン、祈、急いで戻るぞ!」
「はいっス!」
「うん……!」
エネコを上着に丸めるように抱え上げてから腕に抱きしめ、走り出す。それからトルマリンを先頭にして、社会人たちの波を風のようにすり抜けてビルへ入っていった。