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遅い。遅すぎる。
時計と扉を何度も眺めては部屋をうろうろしていた。気を紛らわすためにシャワーを浴びたり、お湯を沸かして置いてあったティーバッグでお茶を作ったりしていたものの、それでも帰ってこないロロに段々と焦りを感じる。

「……アイツ、」

……断言する。アイツはムカつくヘンタイ野郎だ。でも、今の俺が頼れるのはアイツしかいないことも確か。
もしもここでアイツがいなくなったら俺はこれからどうすればいいのか分からなくなってしまう。旅をしてチャンピオンを目指して、なんて勝手に想像を膨らましてはワクワクしていたけれどそれ以前にまず、俺はポケモンを持っていない。ポケモンがいなければバトルも出来ないし、野生のポケモンを捕まえることすら不可能だっていうのに。そんなんで旅とかどう考えても無理じゃね?あ、詰んだ。これ完全に詰んだわ。

「い、今ならまだ間に合うか……?」

扉の前でふらふらしてから、ようやくドアノブを握った。もしもロロが俺を置いて行ったとしても、今ならまだこの辺りにいるだろう。──……捜しに、行くべきか。い、いや、でも、見つけてもどうせ馬鹿にされて置き去りにされるのがオチなんだ。そもそもこの部屋から出てもいいのかどうかすら分からない。

「ああもう、どうすれば、!」

瞬間、握っていたゆるやかなカーブを描いた細長いドアノブが勢いよく下に降りては俺に向かって開いた。扉に押されるように数歩後ろによろめいていると「うわっ!」なんて驚いた声が降ってくる。

「……びっくりした。まさか扉の前にいるとは思ってなかったよ」
「俺の方がびっくり……ていうかいきなり開けるなよ!」

紫色の髪を揺らして部屋の中に入ってきたロロを見上げて睨むと、ロロが片手を上に持ち上げた。未だバクバクと音を鳴らしている胸元を抑えながら何も考えずにただそれを眺めていれば、俺の頭に手のひらが乗せられる。そこから俺と視線を合わせ、何故か面白そうに笑みを浮かべた。

「ただいま、アヤくん。いい子でお留守番できて偉いね」

……そう、まるで、犬や猫を撫でるかのようにロロは俺の頭を撫でながらそう言ったのだ。俺はまず、言葉そのものが全然頭に入ってこなかったし、撫でられるということ自体に呆気に取られて怒るのも忘れてしまっていたのだ。そのままぽかんとしていると、終わりを告げるように一回二回と頭の上で手が跳ねてからようやくロロが俺の横を通り過ぎる。

「アヤくん、いつまでそこに突っ立ってるつもり?」
「…………お前、マジでなんなんだよ……」
「え?なにが?」

耳に手を添えてはいるものの、荷物を漁る手は止めていないのを見ると聞こえなかった俺の言葉はどうでもいいと思っているんだろう。……ああそうだ、その通りだけど、……もう怒るのすら疲れた。多分、いや、きっとロロはこういう奴で、俺がどれだけ吠えても何ひとつ効かない。なら吠えるだけ無駄だってことだ。
力の入っていた両肩を思い切り下げてから額に手を当てソファに戻る。沈み込むように座る俺の横、ロロもやってきて隣に座って両腕をソファの背もたれに乗せる。やけに距離が近くてすぐさま距離を開けてから座り直すと、ロロが不思議そうに俺を見ていた。うーわコイツ、「どうして?」みたいな顔してる。

「距離近すぎ。お前のパーソナルスペースどうなってんの?ねえの?」
「あるにきまってるじゃん。ただ君に対しては狭いだけさ」
「はあ?なんでだよ」
「そうだねえ……君がひよりちゃんに似ているからつい癖で触りたくなっちゃってるのかも?」
「おええっ!気持ちわるっ!」

真っ青の目を細めてけらけら笑うロロを見ながら、ソファの端まで飛ぶように移動して思わず立った鳥肌を消すように左右の腕を擦りまくる。どれだけ俺と母さんの顔が似ていようが、生憎俺は母さんじゃない。俺と母さんを重ねないで欲しいし、母さんと父さんの子供である俺が居てもなお、母さんにこういう風に接したいと思っているコイツが心底気持ち悪い。
……それよりもそうだ。俺はロロに聞きたいことがあるんだった。俺をからかうのが相当楽しいのか、するりと頬に添えられた手を思い切り叩き落としてからいつでも蹴飛ばせるように折り曲げた足をロロに向けたまま問う。

「ていうかさ、ロロは何で母さんのこと知ってるんだ?お前こっちの世界の人間だろう?」
「ああそれね。昔、ひよりちゃんもアヤトくんと同じくこっちの世界に来ていたことがあってね。その時に出会ったんだよ」
「え……?は、?……マジかよ、……」

平然とそう述べるロロに目を見開いたまま固まる。だって、異世界に来るとか普通ありえないことだろう!?でもそのありえないことが母さんの身にも起きていたんだ。俺を含めて二回も起きているということは、もしかしたら俺が知らないだけで他にもそういう奴がいるのかも知れない。あ……ああ……それだけはやめてくれ。俺だけが特別でいいのに……!

「まあ、残念ながらひよりちゃんには既に相棒くんが居たから俺は手持ちの一体にしかなれなかったけど。でも旅は本当に楽しかったよ。一生の宝物だ」
「へえ……え、……ちょっと待て……?」

旅は楽しい。そうだろうな。そりゃ一生の宝物にもなるだろう。……っていやいや、その前だ。何だって?"俺は手持ちの一体にしかなれなかった"?

「お、お前、一体って、えっ?お前人間じゃん。何言ってんの……、?」
「あれ?まだ言ってなかったんだっけ」

細長い人差し指で頬を軽くひっかきながらそういうと、ロロが足もソファの上に乗せて四つん這いになった。いつの間にか伸びてしまっていた俺の足がロロの太腿に挟まれて動けなくなり、また俺に迫ってくる。コイツと出会ったときのトラウマをぶり返したのか、俺はまた力が入らなくなっている。

「なっ、なにして、……っ!?」

、瞬間。
ボン!と何かが爆発するような音が目の前で鳴り、同時に白い煙みたいなのが視界を曇らせた。既に頭が目の前の状況に追いついてきてなくて、謎の恐怖に襲われたまま「うわあああっ!」なんて俺らしくもなく叫びながら涙目で両腕を使い、煙を必死に追い払う。

「ななななんだよコレ!?」

……その時だ。何かが、……ソファに寝そべる俺の上に、乗っかった。びくりと一度飛び上がってすぐさま声を殺して身体を石のように固まらせる。そうしていれば煙はすぐに淡くなって、紫色の"何か"を浮かび上がらせる。

「……な、なんで、……」

俺の胸元にあるのは、二本の細長いからし色の腕。そこから目線を上に持ち上げれば、長いヒゲがぴくりと動いて紫色の猫耳が俺の方に傾く。少し開いている口から鋭い牙を覗かせているそれは、俺を悠々と見下ろしていた。……背後、長い尻尾がゆらりと動くのを見る。

「れっ、レパルダス、なんで俺の上に、!?」
『あはは、まだ、気付かないの?』
「ッうあああっまたポケモンが喋ったあああっ!!」
『……うるさいなあ。ちょっとは落ち着いてよ』

つま先まで伸ばして両腕で顔を隠していると、「にゃあん……」とレパルダスが呆れたように鳴く声と一緒にロロの声も聞こえてきた。
……そろり。腕を少しだけ動かして覆っていた視界を少しばかり広げると、レパルダスが腕を折り曲げて懐に仕舞っているところだった。俺これ知ってる。猫がよくやる、香箱座りってやつだ……。

「……、……」
『落ち着いた?』
「も、……もう嫌だあ……なんなんだよお……なんでレパルダスとロロの声が一緒なんだよお……」

本当にもう何が何だか訳が分からない。それにいつこのレパルダスに喉元を食い千切られるか気が気じゃなくて、片腕は頑なに喉元に当てたままにしていたのにまたボン!という音と一緒に白い煙が発生したのだ。再び見えにくくなる視界に恐怖しながら狂ったように目の前を掻き分けていると、ふわふわな何かに触れてしまった。身体を硬直させたまま、視界が開けるのを待つ。

「アヤくん、とっても良い反応だったよ」

なんて、ロロの声が下から聞こえる。
俺の胸元、骨ばった色白な手が置かれている。そこから目線をだんだんと上にあげると、瞳を三日月型に描いたムカつく表情をしているロロがいた。そのロロの頭に置いてあるのは俺の手で、そうかさっき触ったふわふわはコイツの髪だったのかと納得、……したかったのだが。

「みみ、……」
「うん、可愛いでしょう。本物だよ」
「……し、しっぽ……」
「そう、可愛いでしょう。これも本物。でも尻尾は触らないで。俺尻尾触られるの嫌いだから」
「……あっ、そう……、」

唖然としながら触れている耳の上、付け根から端まで手を滑らせると、一度横に向いた耳が俺の手が離れた瞬間に再び真っ直ぐ上を向く。……すっげー、いい手触り。
…………で?
で、涙目の俺を楽しむように眺めていたロロがゆっくり口を開く。

「つまり、俺は人間じゃなくてね。"レパルダス"っていう、ポケモンなんだ。この世界ではポケモンは"擬人化"といって、人間の姿になることも出来るんだよ。あ、これ一般常識だから。覚えておいてね」

……いっぱんじょうしきとは。未だ現実に追いついてこない脳みそを置き去りに、俺はとりあえずロロの言葉にゆっくり頷いておく。
ぎじんか。なんかよく分からないけど、猫耳尻尾を生やしたヘンタイ男ことロロは、とりあえず人間ではないということだけは分かってしまった。
分かって、また俺はひっそり身震いをしたのだった。




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