10

教室を抜けた先、再び扉の前に立つ。緊張は当たり前のようにしている。が、足は動く。自分で動かせる。ベルトに付いているボールを指先で確認するように触ってから拳をきつく握りしめた。

独特の匂いがする。土と水が混ざった匂い。ホースを手に持ち、フィールドの手入れをしていたミニスカートが俺に気付いて、一度目線を泳がせてからハッと役割を思い出したように手前まで駆け足でやってきた。

「きみ、この前のチャレンジャーね。今日は何しにここへきたの?」
「ジム戦を。……お願いします」
「……、チェレンさんを呼んでくるわ。少し待っていて」
「はい」

バトルフィールドの真ん中を突っ切り奧の部屋へ走っていく彼女の後姿を見てから、一度肩の力を抜く。
広すぎる空間に一人立ち、ジムを見回した。どこまでも高く広がる空。薄っすらと大きく伸びている白い雲。佇んでいる朝礼台。学校の校庭に白線で描かれているバトルフィールド。……以前と何も変わっていないが、どこか違った場所のように思う。
大きく息を吸って、吐き出して。

「お待たせしました。……ようこそ、ヒオウギジムへ」

にこやかに歩いてくるチェレンに、一度喉元がキュッと引き締まる。そこに慌てて空気を通して飲み込んだ唾でこじ開けて、立ち止まった彼の前まで走っていって向かい合う。一度開いた口を閉じ、軽く下唇を噛んでからまた開ける。

「あの、……ぜっ、前回はすみませんでした……っ!その、負けたのが、……ものすごく悔しくて、逃げちゃって、」

泳ぎまくる目に度々チェレンの顔が飛び込んでくる。何だかよく分からん汗がじわりと滲んでくるのが分かる。怖くて様子が伺えないが、チェレンは黙ったままその場にいてくれているから話は聞いてもらえているだろう。今はそれだけでも有難い。やっと丁度良い長さになってきたパーカーの裾を指で思いっきり伸ばしながら、しどろもどろに言葉を繋ぐ。

「俺、あれからまた特訓したんです。今日この時のために。……お願いします。もう一度、俺と戦ってください……!」

頭を下げた。地面が見え、それからチェレンの茶色の革靴の先が見える。それがゆっくりと動き、向きを俺から横に変えた。ゆっくりと腰を元に戻して、視線を上げる。

「ジムリーダーとして、また君の壁として立ちはだかろう。……さあ、位置についてください」
「っありがとうございます……っ!お願いします!!」

ボールを片手に持ちながら俺を見るチェレンに一気に顔が緩んだ。それから頬を思いっきり持ち上げて、転がるように立ち位置まで走って行く。遠く向こう側に立つチェレンと、朝礼台の手前に立っている審判であるミニスカートを見た。後ろ手にベルトからボールを取って中央のボタンを押して元のサイズにする。指でしっかり掴んで見つめ、―……前を向く。

「使用ポケモンは二体、チャレンジャーのみポケモンの交換が許されています。先に二体戦闘不能になった方が負けとなります。──……準備はよろしいですか?」

頷く。ボールを額に当てて目を閉じる。
祈りを捧げるは、信じるべきは、神じゃない。
俺自身と、そして。

「──それでは、バトルはじめっ!」

目を開けて、ボールを空高く投げた。赤い閃光が飛び出して地面に形を生み出し、弾けて消えた。四つの足で地を踏みしめ、前のめりに体制を低く構えている祈を見る。向こう側、一つ目の壁はミネズミだ。前回のことがフラッシュバックしそうになる手前、祈が俺の方へ振り返る。

『……』
「……」

お互い言葉は何もなく、また真っ直ぐに前を見る。大丈夫。今度はちゃんと、見てるから。
茶色の足元がジリ、と少しばかり動いて砂を引きずる。

「祈、でんこうせっか!」
「ミネズミ、ふるいたてる!」

祈が駆け出す。すぐさま地面と垂直にどっしり構えてオーラを放つミネズミに向かって、真っ直ぐに突っ込んでいく。ミネズミの目を見る。未だに祈の姿はしっかり捉えられている。

「砂かけだ!」
「ミネズミ右だ!たいあたり!」
「避けろ!」
「尻尾を掴んで逃がすな!」

直線からミネズミの右側。祈がでんこうせっかを途中でやめ、尻尾で地面をえぐる勢いで掬い上げてミネズミ向かって投げ飛ばす。目を細めながらもミネズミはオーラで幾分か砂を弾いて身体を斜めにひねる。チェレンの指示通り、手が祈に向かって伸びる。尻尾の先、掴まれる寸前。祈が、宙で身体を丸めて尻尾を後ろへひっこめた。次いで、ミネズミの腕を踏み台にしてさらに上へと飛び上がる。──……頭上はがら空きだ。

「いまだ祈!アイアンテールッ!!」
「ミネズミ避けろ!」
「スピードスターで囲め!」

光っていた尻尾が元に戻り、代わりに宙を裂くように尻尾を横に振る。瞬く間にいくつもの星が生まれて、ミネズミを取り囲んだ。尻尾で星を叩き落としているミネズミの頭の上。祈がトン、と乗ったと思えばそこからまた飛び上がり、尻尾を真上に向けて鋼色に光らせる。そのまま真っ直ぐに振り落とさせる鋼色の尾に息を飲む。

直後、ドゴオン!という重く腹に響くような音と一緒にドッと風が押し寄せる。咄嗟に顔前に腕をクロスさせて一緒に運ばれてきた砂に顔をしかめながら耐え。吹き抜けてから素早く顔をあげ、バトルフィールドを見た。

……平らだった地面が、凹んでいる。真ん中、ミネズミが寝そべっていた。その少し距離を開けたところ、イーブイが低く構えたまま立っていた。

「ミネズミ戦闘不能!一試合目はイーブイの勝利です!」
「…………、」

そりゃもう、唖然茫然だ。嬉しいとかそういう喜びの前に、技の威力にただひたすら驚いている。真夜中に見かけていたアイアンテールにはこれほどの威力は無かったはず。なのに、これだ。なんだこれは。

『アヤト、!かった、かった……!』
「お、おおう……!よくやったぞ、祈!」
『うんっ!つぎもがんばるっ!』

撫でる手に擦り寄ってから、満足気にまたバトルフィールドに戻っていく祈を見た。……あの小さい体のどこに先ほどのような力があるというのか。いつの間に怪力幼女に進化していたんだ。というかどういう風に教えたらあんな屈強な少女に育つのか。
──……ぶるりと一度、身体を震わせる。武者震いというやつか。今ほどこんなにも祈が心強く思ったことは無い。

かといって、まだ油断は禁物だ。改めて気を引き締め、フィールドを見る。チェレンが出す次のポケモンは、ヨーテリーだ。ミネズミよりも固く、また危険視している相手である。

「……なるほど。手強い相手だね。だけど次は、先ほどのようにはさせないよ」
「っよろしくお願いします!」

これだよこれこれ!これぞポケモンバトルだ……っ!急に開けた世界に酔いしれる手前、頭を振って祈を見た。まだだろ馬鹿。まだジム戦は終わってない!大体、祈に問題はなくとも俺が危ういだろうが。先ほどのバトルも祈を追うだけで精一杯の今。あんな動きを肉眼できちんと捉えられるか?いや無理だ。だけどやれるだけやるしかない。

「次はこちらから行かせてもらおう!ヨーテリー、ふるいたてる!」
「祈、アイアンテール!」

前のめりにオーラを纏うヨーテリーに、祈が地面をジグザグに走って行って距離を縮める。それでもビクともしないヨーテリーの後ろ。祈が飛び跳ねて銀色の尻尾を振りかざした。直後、ヨーテリーが上を見上げて祈の姿を捉えた。

「吠える!」

バウ!何かが爆発したかのような低爆音。キャンキャン!、とかそういう可愛いもんじゃないのかよっ!?、宙で体制を崩す祈を見ながら焦りひとり言を漏らす。しかし実際はそんなことをしている暇なんてなくて。

「かみついて地面に叩きつけろ!」
「なっ……!」

ヨーテリーが地面を蹴り上げて飛び上がり、そのまま大きく口を開けると思い切り祈の尻尾に噛みつく。ブイ!、痛みの鳴き声を上げる祈にハッとして拳を握る。瞬時にヨーテリーと祈、それから地面までの距離の間を何度も視線を行き来させ。

「祈!スピードスターをクッションにするんだ!」
「ッヨーテリー、イーブイから離れろ!」

チェレンが叫ぶとヨーテリーが口を開けて尻尾を離す。直後、目の前で星がいくつも弾けてヨーテリーと祈を吹き飛ばした。先に地面に落ちたヨーテリーから鈍い音が聞こえ、その次。祈と地面の間にタイミングよく流れてきた星が落下の衝撃と打ち消し合って粉々になった。軽やかに着地する祈の足元がキラキラと輝く。

「驚いた、まさかそんな使い方をするなんて」
「特訓したって言いましたよね!祈、どくどく!」
「走って避けろ!ふるいたててたいあたりだ!」
「地面に向かってアイアンテール!尻尾の先に力を込めろ!」
「なに!?」

技一覧を見て驚いたのはジムに挑むほんの少し前のことだった。イオナに仕込まれたであろう「どくどく」。これを外させるわけにはいかない。
先ほどのアイアンテールの威力を見て確信した。あれは"地面を割れる"と。

祈が尻尾を思い切り地面に向かって振り落とす。直後、地面に亀裂が入った。歪ながらもヨーテリーの足元まで走り、瞬間、毒々しい紫色が亀裂から弾け溢れ出た。ヨーテリーの全身に液体が絡みつき、染み込む。覚束ない足取りに、祈が一気に距離を縮める。

「たいあたりっ!」

俺の声と同時だっただろうか。鈍い音が聞こえ、砂埃が起こる。苦しそうに必死に息を整えている祈の姿の先、ヨーテリーの姿が見えた。身体を起こそうとしている。次はどうしよう。祈には無茶をさせすぎた、あまり反動がない技を──……。
……忙しなく働いていた脳内が、ヨーテリーが横たわるのを確認する。視界の横、旗が上がる。ゆっくりな動きに見えたのは一瞬だけのことだった。

「ヨーテリー、戦闘不能!イーブイの勝利です!よってこの勝負、……チャレンジャーの勝利です!」
「──……へ、」

真っ直ぐ空を穿つように上げられている俺の方の旗。首をのろまに動かして、前を見る。倒れているヨーテリーに手を添えて優しく言葉をかけながらチェレンがボールを当てていた。閃光となって消える姿と、。

『……アヤトっ!!』
「おわっ!」

すぐ目の前に現れたイーブイが俺の顔面めがけて飛びついてきた。慌てて腕を前に出して、抱きかかえるとブイブイ引っ切り無しに鳴いている。もちろんなんて言っているかは分かっているけど、全部俺の名前だからどうしようもない。
顔をお構いなしに擦り寄せてくるイーブイ越しに、こちらに歩いてくるチェレンの姿が見えた。少し横に視線を動かせば審判をやっていたミニスカートが腰に手を当て笑顔を浮かべている。
それから視線を空に向けて、……祈を抱えたままケツから落ちて地面に寝転んでしまった。胸元に祈りが座り、小さな前足を揃えて俺の顔を覗き込む。

『アヤト、?どうしたの?』
「──……力が抜けた」
『……あんまり、うれしそうじゃない?うれしく、ない……?わたし、もっとがんばったほうがよかった……?』

不安げに揺らぐ瞳を見て、呆れ笑いをすると不思議そうに首を傾げていた。下から手を持ち上げて、祈の顔を両手で挟んで撫で回しながら抱え込むように両足も持ち上げる。

『……あの、』
「っ嬉しくなさそうだって!?……んなわけあるかよ!!ものっっすごく嬉しいに決まってんだろーッッ!!よくやったぞ祈ぃいい!!」
『わっ、あははっ!』

一通り撫でまわしたあとに両脇に手を添えて祈を上に持ち上げた。青い空を背景にしているイーブイはまるで空を飛んでいるようにも見える。丸い茶色の目には俺が映っていて、気持ち悪いぐらいだらしない表情をしている。
……何やってんだ俺。急に恥ずかしくなって起き上がった横、チェレンがしゃがんでいた。"微笑ましいな。"、言われずともそう思われていると一瞬で分かる顔に、恥ずかしさがさらに増して咳払いをしながら前髪を指で掴んで整える。

「素晴らしい戦いでした。そんなポケモンと君の強さを称えるためにこれを!……さあ受け取って、アヤトくん。君の記念すべき一つ目のバッジはベーシックバッジ!」
「……べーしっく、バッジ」

差し出された手のひらに乗っているバッジを受け取る。抱えている祈の目の前に持っていくと、鼻先をひくひくさせていた。細長いデザインのバッジだ。金縁の、バッジ。
……とうとうバッジを手に入れた。手に、入れたんだ!!!

「ッしゃあ!!!」

強く握りしめた拳を上から脇まで思いっきり引き寄せて声をあげた。もう子どもっぽく思われたって、どうでもいい!だってほんっとうにどうしようもなく嬉しいんだからなあ!!
何度もバッジを見てはニヤついていたであろう俺の様子をきょとん、と見ていた祈が何を思ったのか擬人化すると、小さな手で拳を作って上へ持ち上げた。それから素早く下に降ろして。

「……しゃあっ!」

どうやら俺の真似をしたらしかった。思わず吹き出すと、ぱちぱち瞬きを繰り返して頬を染めながら顔を下に向ける。そんな祈のところまで行き、頭を撫でてから内側に握った拳を見せると同じく祈も拳を作る。そこから一緒に上に持ち上げ勢いよく降ろす。

「「っしゃあ!!!」」

そう!俺たちは、勝ったのだ!!




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