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「回復が終わりました。もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」

トレーに乗ったボールを受け取る。受付から少し離れて長椅子に座った。スイッチを押すと赤い閃光が飛び出し、姿かたちを作ってゆく。
茶色の長い耳に、首元にはボリュームのある毛、膝丈ほどある薄い生地のワンピースも茶色である。そして足元は未だに皮膚と分離できていない茶色のロングブーツ……。
俯き加減の頭に手を乗せて撫でる。毛並、良好。耳に片手を添えて、もう片方の手で確認。良好。椅子に座らせて手首足首を掴んでゆっくり動かす。こちらも良好。よろしい。

「祈、身体の方は大丈夫ですね」
「……うん」
「傷も残っていませんね」
「……うん」
「では、部屋へ行きましょう」

背を向けると、何かに引っかかる。顔だけ後ろへ向けると、座ったままの祈に裾を掴まれていた。丸い目が不安げに揺れている。仕方なく、大人しく無言の訴えに応えて隣に座った。そこでやっと服を掴んでいた手が離れ、代わりに今度は自身のワンピースをきつく握りしめている。

「後悔しているのですか?アヤトのポケモンになったことを」
「……びっくり、してるだけ」
「ふふ、否定はしないのですね」
「……」

アヤトは、トレーナーとしてあるまじきことをした。戦ってくれた手持ちポケモンの回復を後回しにするということ。もはや未熟という言葉以下。ただ、それでも完全に見捨てないのはマイナスの中に少しのプラスがあるからだ。
一応、バトルをしてくれた相手に礼をしていた。そして何より、抑えきれない気持ちをポケモンに直接ぶつけなかった点である。

「イオナはアヤトのこと、どうおもう……?」
「私ですか?そうですね、彼はロロさんのおまけです」
「……うう、」

全く参考にならない。、と言ったところか。顔をくしゃりとさせて私を見る祈。そもそも私の意見を当てにするところからして間違っているのだ。人選ミスであることは、彼女にはまだ分からないのだろう。
女性は男性と違って「共感」を求める生き物である。つまり他者に悩みを相談するのも、元から自分で答えを持ちながらそれに共感してもらうことで、自分の答えはやはり正しいのだと確信を持たせるためなのだ。我々とは違って、実に面白い生き物だと思う。そしてこれは、隣に座っている少女にも当てはまることだろう。

「祈はどう思うのですか?どう、思ったのですか」
「…………わたしは、」

口を開いて、また閉じる。目が合ったのは一瞬で、すぐに床に落としてしまった。傷口に貼られているガーゼの端をめくったり戻したりしながら話す準備をしていた。レディの話をよく聞くこと。きちんと待ってあげること。もちろん分かっていますとも。しかし、これは見過ごせない。
素早く祈の手を持ち上げてガーゼから距離を置く。このままでは剥がされてしまう。そうすると衛生面から考えてもよろしくない。失礼を承知で一度席を立ち、飲み物を買ってきた。女性は大抵甘いものが好きである。迷わず祈用のミックスオレを買って戻ると、少しだけ表情が明るくなった。蓋を開けて手渡すと、両手で受け取りちびちび飲み始める。もうガーゼなど視界にすら入らないようだ。よろしい。

「わたしは、」
「はい」
「きょうのアヤトが、……すごく、こわかった、……」

祈にとっては、計り知れないほど衝撃的なことだったのかもしれない。見ず知らずのポケモンである自分のことを身体を張って助けてくれた命の恩人の、見たことのない一面を知る。誰しも喜怒哀楽があるけれど、きっと祈の中のアヤトは"喜楽"の化身だったのだろう。フッと、過去の自分を重ねてしまい自嘲的な笑みを零すと祈が眉間に皺を少し寄せてこちらを見た。

「失礼、レディ」
「わたし、おかしいこといった……?」
「いいえ、おかしいことはありません。祈が怖いと感じたのは当然のことでしょう。今まで大切に扱ってくれていたくせに、突然放り出した上に怒り叫び散らして公共の物をひたすらに殴りつけているのです。恐怖以外のなにものでもありません」
「…………うん」

こくり、頷く。それから両手で支えている缶を大きく斜めに傾けると喉の音を鳴らしながら飲み干す姿を見る。ヤケ酒ならぬヤケジュース。

「それでは祈、あなたはどうするのですか?アヤトのポケモンをやめて野生に戻りますか?」
「ううん。わたしは、アヤトのポケモン」
「誰も責めたりしませんよ?」
「わたしはアヤトにすてられないかぎり、ずっとアヤトのポケモンなの」
「──そうですか」

軽くなった缶を両手で包み込んだまま即答する。
強い意志を感じた。……いや、もはやこれは、彼女の意地なのか。また面白く思って笑いを零しそうになるのを咳払いで誤魔化す。

「……アヤト、おこってる……?」
「さあ、どうでしょう。彼についてはロロさんの担当なので私には分かりかねます」
「むう。イオナもアヤトのポケモンでしょう?」
「ええ、一応。一応ですね」

両足を交互に小さく揺らしていたのを一度止め、またもや変な顔でこちらを見る。そういえば、祈と二人きりできちんと話すのは初めてだったろうか。
まだ戻りたくないのか、空っぽのジュースを携えたまま一向に動こうとはしない。いえ、それでもそれがレディの望みならば私はいくらでも待ちましょう。それに部屋へ戻ったとしても、どうせまだアヤトは不貞腐れて寝ているに違いない。ロロさんが個室から追い出されている可能性も考えると、私自身もまだ戻りたくない気がした。

「……あのね、わたし、かんがえたの」
「何をでしょうか」
「どうしてアヤトがおこっていたのか、ないていたのか、……わたしに、ごめんねっていったのか」
「それで、何か分かったことはありましたか」
「うん。でも、あってるかわからない。……それでも、きいてくれる?」
「ええ、私でよければもちろんお聞きしましょう」
「……ありがとう」

顔をあげ、少しばかり緊張と迷いを滲ませながら立ち上がる祈を見る。それから私の前に立ち、缶を握る手に力がこめられたことに気付く。

「わたしとアヤト、ジムのバトルにかつために、たくさんれんしゅうしてきたの。たくさんたたかったよ。たくさん、たくさん」
「ええ、とても努力していましたね。知っています」
「でも、それでもまけたの。どりょくしたのに、まけたから、……すごく、しんぞうがくるしくて、もやもやして、。どうしてか、イオナならわかる……?」
「悔しい思いを、どこにもぶつけられないからではないでしょうか」
「くやしい……」

祈と同じく、アヤトもたくさん努力をした。膨大な量の貴重な時間をかけ、色々な想定をした上で対策を練ったにも関わらず、完全に出し切ることができなかった上に負けてしまった。そんな悔しさが積み重なって、ついに爆発してしまい叫びに変わったのではないでしょうか。
祈のもやもやも、きっと努力が報われなかったから生まれたものだと思います。頑張ったのに認めてもらえなかった。だから悔しい、悲しい、どうして……。と言ったところなのでは。

「イオナ、すごい。エスパータイプだった……?」
「いえ。悪タイプなのでエスパータイプの技も覚えられませんね。まあ、何個か例外はありますが」

輝く瞳をまっすぐに向けられた。祈は大変素直でいい子である。それ故、アヤトから発せられる悪い影響が彼女にまで響かないか心配ではあるのだが。

「じゃあ、やっぱりないていたのはくやしかったからかなあ……ごめんねっていっていたのは、……わたしがこわがっちゃったからかもしれない、」
「祈、自分の答えに自信を持っていいのですよ。どんな答えにも、間違いなんてないのですから」
「──……うん」

頷く祈の手から缶を取り、自販機の隣にあるごみ箱に入れる。また長椅子に戻って座ろうと思ったものの、祈は立ったまま。……ちらり。外を見る。残りわずかではあるが陽はまだある。場所も完全には埋まっていないようだ。

「イオナ、おねがいがあるの」
「おや、なんでしょう」
「……わたし、つよくなりたい。アヤトのために、……じぶんのために。もっともっと、つよくなりたいの!だからおねがい、イオナ。わたしに、なにかわざをおしえて……!」

私と彼女の違いは、想いに自分を入れるか入れないかである。
──……彼女はきっと、正しい道を歩むだろう。たった今、そう思った。
強い意志を孕む眼差しを見据える。一時も揺らがないそれに、私の出す答えはもう決まっていた。

「私はアヤトのように甘くはありませんよ」
「がんばる!わたし、がんばるから……っ!」
「そうですか。……では、今からはじめてみましょうか」
「うんっ!ありがとう、イオナ……!」

いつも下がっている耳が上にピンと伸びる。ボリュームのある尻尾も後ろでぶんぶんと揺れている。
今まで何人もの部下に様々な教育をしてきた私が今度は幼子の先生になるなんて、なんと面白いことでしょう。

バトルフィールドに足を向けると、後ろから祈が付いてくる。そうしてふと、慌てて隣に並んだと思えば周りをきょろきょろと見回してから小さな手で人差し指を立てては鼻先に当てる。

「あのっ、これ、アヤトには、ないしょ……!」
「はい、かしこまりました」

自動扉を抜けて外へ出る。バトルの練習をしている少年たちを見てから祈を見て、服装を整えた。部下ですら逃げ出すほどの特訓に、この小さなレディはどこまでついて来れるのか。楽しみに思いながら、並んで扉を抜けた。




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