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カウンターにはすでに"本日のサービス終了しました"の貼り紙が垂れ下がっている。それを通り過ぎてから窓際に設置してある一人用の小さなテーブルにノートパソコンを置いて画面を開いた。宿泊しているトレーナー自体少ないのか、ここにも誰もいない。

椅子の背に寄りかかりながら画面を眺め、繋がるのを待つ。ここにくる途中ポケモンセンター内にある自販機で買った紙コップからたつ湯気に息を吹きかけていると、ジジ、と低い電子音が聞こえた。コップをゆっくりテーブルに戻してから、画面の向こうで面白そうに笑みを浮かべている彼を見る。

『よお。どうした』
「どうしたもこうしたもないよ。キューたん、俺に飛んでも無いことを押し付けたね?この借り、あとできっちり返してもらうから」
『借り?なんのことだか分からねえな』
「……へえ」

肘を突きながら画面を睨む。……相変わらずあの暗い洞窟に引き籠っているのか、彼の背後は暗くてよく見えない。陽乃乃くんは未だに頻繁に洞窟を訪れているようだけど、他の人の出入りがあるというのは聞いていない。自ら他人との接触を拒んでいるとはいえ、よくもまあ好き好んでこんな暗い場所で生活できるものだ。

「キューたんいつまでそこにいるつもり?陽乃乃くんも心配してたよ」
『うっせ。俺様の勝手だろうが。それで、用件はなんだ。まさか雑談するために繋げてきたんじゃねえだろうな』
「まさかでしょう」

俺の言葉に適当に返事するのを聞きながらコップを手に取り、ゆっくり啜る。……まだ熱い。そうしてすぐにまたコップをテーブルに戻してから足を組み直す。彼の背後、何かが通りすぎるのが見えた。きっといつもの人形たちだろう。──……もしくは。

「なんで俺にひよりちゃんの子どもを押しつけるかなあ。何が目的でこっちに連れてきたのかは知らないけどさ、呼んだのは君でしょう?君が面倒みればいいじゃん」
『そりゃ無理な話だ。俺様は今忙しい』
「忙しい?どの口が言うんだか。……それにさ、もしかしてアヤトくんって、」

その単語をあえて言わないままここで言葉を切ると、キューたんは"だと思ったぜ"、なんて言いながらひとつため息を吐く。ということは、やっぱりそういうことなのか。ああもう、知られたら余計面倒なことになってしまう。ため息を吐きたいのは俺の方だ。

「ひよりちゃんのときみたいに、キューたんがアヤトくんに力あげてるとかそういうのじゃないんだよね?」
『当たり前だ。俺様があんなクソガキに力をくれてやるわけがねえ』
「……彼、ポケモンの言葉も分かるみたいなんだよね。もしかするとポケモンの血の方が濃いのかな」

肘かけに肘を突いたまま額に手を当て目を閉じた。さあて、いよいよこれは本当に厄介なことを押し付けられてしまったぞ。どうにかしてキューたんに押し返さねば。そう思っていた。
そのときだ。画面から俺の名前を呼ぶ声がして、慌てて眼帯を取ってから両目を見開き画面に張り付く。一瞬驚いたように目を丸くしてからクスリと笑い、柔らかそうな薄紅色の唇が綺麗な弧を描いては、また俺の名前を呼ぶ彼女。
薄々そうではないかと思ってはいたけれど、……やはり、彼女もこちらに戻ってきていたようだ。
──……愛しい、愛しい、俺のマスター。

『また、こっちの世界に来れたみたい』
「……俺、ひよりちゃんが戻って来るのをずっとずっと待ってたよ。……おかえり、ひよりちゃん」
『──……ただいま、ロロ』

はにかみながらそういうひよりちゃんを見て、やっぱり俺は彼女じゃないと駄目なんだなあ。なんて不思議とそう思う。例え彼女が誰のものになろうとも、俺はずっと、彼女を愛し続けるだろう。いや、もうこれは愛ではなくて執着だ。自分でも可笑しくて笑っちゃうぐらいにどうにかしようにもどうにもできない、一生治らない病に冒されてしまっているらしい。

「で、どうせグレちゃんもいるんでしょう?」
『もちろん!……なんだけど、今はちょっとお休み中なんだ、ごめんね』
「……何かあった?」

俺の問いに、一度開いた口を閉じて目線を斜めにするひよりちゃん。その頭と肩に人形二体が乗っかっては心配そうにうな垂れている。俺はそのままじっと何も言わずに待っていれば、ひよりちゃんの視線がこちらに戻ってきてゆっくり口を再び開く。

『グレちゃん、こっちの世界に戻ってきたと同時にポケモンに戻ってね。その反動でしばらく動けないんだって』
「──……、」

過去。この世界でトレーナーとして旅をしていた彼女の相棒であり、今では彼女の夫になっているグレちゃんは元ゼブライカというポケモンだ。しかし彼女の世界に行った代償として一度は完全に人間となり、そしてまた今、ポケモンに戻ったという。ひよりちゃんは数奇な運命を歩む人間だと思っていたけれど、グレちゃんも同じくそのようだ。
まあ、仲間のことではあるけれども他人事には違いないからグレちゃんだけになら「またポケモンに戻れてよかったね!」と笑い飛ばしていたところだけれど、ひよりちゃんがこんな表情をしているのではそんなこと言えっこない。……ひよりちゃんのことだ、きっとまた"自分のせいで"なんて思っているに違いない。

『ご、ごめんロロ。久しぶりだっていうのに、』
「大丈夫だよ」

どんな表情でも俺にしか見せてくれないものならそれだけで満足だよ。、というのは喉元で抑えて飲み込む。緩む顔を咳払いで誤魔化してから変わらず心配そうな表情を浮かべている彼女に向かって手を伸ばすと指先が画面に触れて硬い感触が伝わる。

『……ロロ?』
「ひよりちゃんが気にすることじゃない。そうでしょう」
『でも、』
「ひよりちゃんを追いかけていったのもグレちゃんだし、俺からひよりちゃんを奪ったのもグレちゃんだ。全部グレちゃんが悪いよね!それにまたひよりちゃんに心配かけてさあ、本当に困ったシマシマくんだ」
『……なんか今、関係無いの入ってなかった?』
「ええ?聞き間違いじゃない?」

きょとん、とした後に目を細めて小さく笑うひよりちゃんにひっそり胸をなで下ろす。それから"ありがとう、ロロ"なんて言いながら俺の真似をして画面を撫でる仕草を見せる彼女の姿に自然と笑みが浮かんだ。しかしながら、幸せな時間も今はまだ堪能することが出来ない。どうしてかって?そりゃあ、理不尽にも子守りを押しつけられてしまったからに決まっている。

「ねえひよりちゃん。アヤトくんのことなんだけど、」
『ごめんね、生意気でしょう。今ちょうど反抗期みたいなの。でも根は良い子だから』
「そうみたいだね。でもさあ、子守りなら俺じゃなくてチョンとかの方が、」

どうしてまたキューたんは俺なんかに任せたのか。……と思ってから、納得せざるを得ない理由が早速見つかってしまった。チョンは配達の仕事をしているし、セイロンは問題外、あーさんは妻子持ちだし美玖くんと陽乃乃くんもカフェがあるし無理だから……あー、ふらふらしてる俺しかいなかったー。
思わず一人で苦笑いを浮かべていれば、画面の端に映っていたキューたんが俺を見てにやにやしているのが見えた。そうだよやっと"俺に"押し付けられた理由が分かったんだよ。

『ロロ、私ね、アヤくんにもこの世界で旅をしてもらいたいの。綺麗な世界を見て、色んなことを知って、素敵な人たちと出会ってもらいたい』

私がそうだったように。
そう付け加えるひよりちゃんをぼんやり眺める。……この世界の裏を知りながら未だ綺麗だと言う彼女が不思議で、また綺麗だと思う。

『キューたんから聞いたよ。今のイッシュ地方は、……アヤくんには、生きにくい世界だと思う。きっと心無い言葉で傷付くことも沢山あると思うの。私が傍に居られたら良かったんだけど、キューたんが行かせてくれなくて。だからロロ、お願い。アヤくんを、私の代わりに守ってあげて』
「……」

俺は、ひよりちゃんの子どもを任された時点でこうなるんじゃないかと思っていた。案の定そうなってしまい、きっとこれから、いつになったらひよりちゃんに会えるのかと、アヤトくんにイライラするだろう。それに俺がアヤトくんを守るということは、遠まわしに彼のポケモンになれと言っているのでは。……いいや、そこだけはひよりちゃんのお願いでも譲れない。そう思って懐に仕舞っていた自身のボールを取り出して口を開いた瞬間、ひよりちゃんの声が被る。

『でもロロ。そのボールが誰のものなのかは、ロロが自分で決めてね』
「え、」
『アヤくんは守ってほしい。でも手持ちになるかどうかは別』
「…………わかったよ」

深くゆっくり頷いて見せると、ひよりちゃんも満足げに頷いた。……ああもう。そうやってひよりちゃんが俺をゆるく縛るもんだから、俺はいつまで経っても離れられないんだ。でもまあ、こういうのも悪くは無い。
ふと、画面から別の声が聞こえたと思えば早く彼女と戯れたいのを我慢していた人形二体がひよりちゃんの背をぐいぐい押していた。それに呆れ笑いをしながら俺に手を振る彼女に、俺も手を振り返す。

「俺に任せてよ、ひよりちゃん」
『うん。宜しくね、ロロ』

またね。笑顔と声が消え、画面が真っ暗になってしまった。名残惜しくも黒い画面に反射しているだらしない顔をした自分自身を眺めつつ、ゆっくりパソコンを閉じる。
白い壁に掛けられている時計を見て、気付いたら結構時間が経っていたことに驚いた。一度大きく背伸びをしてから、ぬるくなったココアを飲み干す。椅子から立ち上がり、紙コップをゴミ箱に突っ込んでから俺の帰りを待つアヤトくんを想像する。あはは、今頃俺が帰って来ないって焦って部屋の中うろうろしていそうだなあ。

「生きにくい世界。……確かに、そうだねえ」

眼帯を付け直してからノートパソコンを小脇に抱え部屋を出る。
──……美しく"すばらしい"この世界は、いつアヤトくんに牙を剥くのか。
きっとあの子はひよりちゃんのようにはいかないだろう。ぼんやり牙を見ている間に意図も容易く食い殺されてしまいそうだ。

「ま、そうならないためにも俺がいるんだろうけどさ」

正直あんまり気乗りはしないけど、ひよりちゃんの悲しむ顔は見たくない。……仕方ない。今から彼を救う方法でものんびりテキトーに考えるとしよう。




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