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あれから、イーブイは何をしても隙間から出てこようとはしなかった。ロロたちなんか部屋に入っただけで警戒され、唯一の俺が声をかけてもとうとう無反応になってしまいどうしようもなくなってしまう。
それからは特に何の進展もなく、念のため俺だけイーブイの部屋で寝泊まりをすることにした。なるべく刺激しないようトルマリンに扉の隙間から寝袋をもらって、目の高さに隙間が来るように絨毯の上に寝袋を広げる。俺が今まで使っていた寝袋と比べると遥かに手触りが良くてさらにあったかかった。まあ全室空調設備があるから寝袋は広げっぱなしのまま使ったけど。

小さくすすり泣く声がずっと聞こえる中、やっぱり俺にはかけるべき言葉が未だ思い浮かばず。
……その日の夜もまた、一言も交わさないまま終わる。





「……そろそろどうにかしないと、本格的にマズイ」

イーブイが隙間に入ってから、早三日。俺が隙間の手前に食べ物を置いて部屋を出ても、一向に手を付ける気配すらない。つまりイーブイは完治しないまま三日間飲まず食わずということだ。それに加えてちゃんと寝ているのかすら分からなかった。丸一日聞こえていたすすり泣きもとうとう聞こえなくなり、薄っすらとあった危機感が危機に変わってきてしまった。

ロロとイオナ、それにトルマリンも真剣に対策を考えてくれてはいるものの、どれも失敗に終わっている。そもそも俺たちじゃ性別的にイーブイと接触を図るのはかなり難しいというものだ。なんせ裏路地事件の直後、イーブイにとっちゃ男なんか視界にすら入れたくもないだろう。かといって女の部下を手配してもらっても、ちらりと見るだけでイーブイの反応はけっして良くない。

「せめて飲食だけでもしてくれればいいんスけど……」
「一切手つかずとなると、このままでは衰弱死の可能性も出てきてしまいます。アヤト、何かないのですか」
「何もないから今こうなんだろ!?声かけても無反応だし、もう……何すりゃいいってんだよ……」

イーブイを連れてきたのは俺だし、俺がどうにかしなくちゃいけないことは分かってる。分かってるけど出来ないからイライラする。イーブイの態度、周りの言葉、俺自身。……全部がストレスだ。
頭をがりがり掻きむしっていると、ロロがふっと立ち上がって通信機器を取り出す。

「……仕方ない。困ったときのひよりちゃんだ」
「はっはあっ!?なんで母さんなんだよ!俺がどうにかするって!」
「俺から見ていて君がどうにか出来そうも無いから来てもらうんだよ。俺だって出来れば心配をかけたくない。だってこれはアヤトくんと俺たちの問題だ。……でも今頼れるのは、ひよりちゃんしかいない」
「……なんでそう、なるんだよ」

彼女、"お母さん"ってずっと言っているんでしょう?、ロロが声を抑えて言った。視線を落として憐れむような顔をしている。それに俺は思わず口を結んで、それから唇を噛んだ。
確かに、イーブイはすすり泣きに"おかあさん"という言葉をいつも乗せていた。おかあさん、おかあさん。その言葉が聞こえる度に頭が真っ白になって立ち尽くすしか出来なかったのは俺だ。

「──……あ、ひよりちゃん?実はちょっと、」

俺たちに背を向けて早速連絡がついた母さんと会話をするロロの声を聞きながら、俯いてきつく拳を握る。みんなの前で問題を打開できなかったこと、ロロが俺よりも母さんを頼ること、トルマリンとイオナがまだ見ぬ母さんに期待を抱いているであろうこと。
……ただただ、ひたすらに悔しくて堪らなかった。虚無。俺がここにいる意味が分からない。





母さんは、ロロが連絡した1時間後ぐらいにやってきた。今回もまたキュウムを足として使ったようでデカブツももれなく付いてきた。広すぎる部屋が見慣れないようで、トルマリンが押さえている扉をくぐる母さんはどこか落ち着きが無くあたりを見回している。
俺はというと、ソファに座ったままどうにか気を紛らわせようと先ほど届いたリヒトからのメッセージを読んでいた。メリープ姉さんたちと一緒にリヒトが寝ている写真付き。どうやらハーくん先輩が撮って、勝手に俺に送り付けてきたようだ。
嬉しいはずなのに、今は微妙な気持ちまで付いてきて急いでメッセージを閉じる。……ああもう、ほんと俺ってイヤなヤツ。

「アヤくん怪我したって!?大丈夫?痛くない?」
「これぐらい全然平気だし。いちいちうるせーんだよ」
「…………ごめん、」

真っ先に俺のところに飛んできた母さんを片手で押し返すと、意外とすんなり引いた。絨毯についていた膝を上げて立ち上がる母さんを見る。それにちょっぴり驚きとほんの一握りの罪悪感を感じたものの、すぐさま俺に向けられた二人からの鋭い眼光にそんなのはすぐさまどっかに吹っ飛んでいく。

「生意気なのは変わんねえな、クソガキ」
「うっせーデカブツ」

どっしり俺と同じソファに距離を置いて座るキュウムを睨む。その後ろ、若干萎縮しているトルマリンが見えたからそのままじっと見ていると、俺に気づいて慌ててぎこちない笑顔を浮かべていた。イオナはというと、興味深そうにキュウムを見るだけで近寄ろうとはしなかった。どう考えてもイオナとキュウムは性格的に合わなそう。触らぬ神に祟りなしってか。イオナらしい判断だ。
キュウムから視線を外したイオナは、今度は母さんを見る。……が、今度は母さんの様子がおかしい。一歩後ろに下がって、若干ロロに隠れるようにしているではないか。

「……ああ失礼。そういえばひよりさんと会うのはあの日以来でしたね」
「そ、そうですね、」
「ご安心ください。今はアヤトのポケモンです。もうあのようなことはしませんよ」
「あ?イオナと母さん知り合いなの?」

いつもぺらぺら話し出す母さんがぎこちなく頷く。そのまま言葉は続かなくて、仕方なくイオナを見ると淡々と話してくれた。
なんでも昔、ロロをめぐって母さんとイオナの元マスターであるおっさんがバトルをしたんだと。そのときにイオナはおっさんに母さんを狙えと指示を受け、一度殺しかけたらしい。結局はロロが母さんを助けたらしいが、なんというか、何とも言えない。まあ、どうして母さんがイオナと距離を置きたがるのかが分かったからいいや。

「俺がいれば大丈夫だよ、ひよりちゃん。絶対手出しはさせないから……」
「いえ、ですから何も致しませんと先ほど」
「ちょっとイオナくん黙っててくれないかな」

ロロのアピールを見事にぶち砕いてくれたイオナに心の中で盛大な拍手を送りつつ、早速本題に入る。役立たずな俺は今すぐにでも別の部屋で一人引きこもりたかったものの、どうしてこの場から平然を装って離れられようか。もやもやを抱いたまま事の次第を見守ることとなってしまう。

まず、ロロが母さんたちにイーブイのことを話した。そうすれば難しい顔をしてから眉をハの字にして、なぜか母さんが泣きそうになっている。感情移入のしすぎでは。もはやどうでもよくなっている俺の心はひたすらに冷めている。

「それで、イーブイちゃんはどこ?」

静かに立ち上がるロロと母さんを暢気に眺めていると、ロロに腕を引っ張られて無理やり立つ羽目になった。俺以外の男が行くとイーブイが警戒する。これ以上体力を消耗させないためにも、俺が母さんを部屋の中まで案内しなきゃいけないんだと。仕方なく大きなため息を吐いてから母さんと二人で部屋まで歩く。

扉の目の前、ゆっくりドアノブを捻って開けた。未だこちらには背中を向けたまま隙間でひっそりと息をしているイーブイ。二人とも部屋に入ったところで扉を閉めてイーブイの居場所を指差すと母さんがその場で四つん這いになったと思うとのそのそとイーブイに近づいていく。俺は扉の横で突っ立ったまま無様な移動姿を眺めていた。

「……」

隙間をじっと見つめていたと思えば、母さんが何も言わずにイーブイに手を伸ばした瞬間、イーブイがバッ!と飛び起きた。隙間で毛を逆立てながら威嚇をする。ここ数日何も口にしていないせいか、小さな身体を支えている手足はぶるぶると震えていた。
白い牙が俺のところからでも見えている。……さて、母さんはどうするのかと見ていると、変わらず手を伸ばし続けているではないか。ゆっくり距離を詰めているようだが、イーブイが後退っているためなかなか距離が縮まらない。

「大丈夫、こっちにおいで。何もしないよ」
『い、いやっ、こないで、やめて、ほおっておいてっ!』
「か、母さん……イーブイが嫌がってる、」
「うん……私にはもうポケモンの声は聞こえないけど、分かるよ。……ほら大丈夫、怖がらないで」

これ以上後ろに下がれない位置まで来たイーブイに、母さんの手が触れた。
瞬間。イーブイが勢いよく飛び上がったと思うと、そのまま白い牙を母さんの手の甲へ真っ直ぐに突き刺す。直後、反射的に引っ込めようとしたのだろう手が家具にぶつかり鈍い音をたてた。次いで音が続く。ガタガタ。ガタガタ。
……なんと母さんは、引くどころかもう片方の手も隙間に突っ込んでイーブイを引きずり出していたのだ。俺はもう駆け寄るどころか他人事のように口を開けながらただ茫然と見ている。

「ふう、やっと出せた。いつまでもこんなところに隠れてちゃダメでしょう?」
『はっはなして!はやくはなしてっ!』
「こら暴れない。まずはお風呂に入ろう。そしたら美味しいご飯いっぱい食べて、一緒に寝ようね」
『っなんで、なんではなしてくれないのっ……!?』

……貫通はしてないが、牙はかなり深く食い込んでいるはず。なのに、平然と話しながらイーブイを腕に抱えて立ち上がる母さんに俺もイーブイも戸惑いを隠せない。白い牙が赤黒く染まってきている。

「アヤくん、扉開けてくれる?」

母さんが振り返って俺を見た。それで俺は弾かれたようにドアノブに手をかけて開ける。扉を抜けた母さんの後ろについていくと、やっぱり俺と同じように驚く顔が二つ。……トルマリンとイオナだ。対してロロとキュウムの表情は変わらず、平然と母さんの質問に答えていた。力が弱まっているとはいえ、イーブイの牙は刺さったまま。血が出てることだって一発で見りゃ分かるのになんでそんなに落ち着いているんだ。おかしい。おかしすぎる。

イーブイを抱いたままの母さんに付き添うようにロロが並び、トルマリンを先頭にして部屋を出て行った。残ったキュウムにどこへ行ったのかと聞けば”浴室”だそうだ。……まさかさっきの言葉通り、風呂に入れさせるつもりなのか。噛まれたままでどうするんだっての。

「……、」

途端、やることが無くなってしまった。立ち尽くしていた足を動かし、落ちるようにソファに座る。知らない間にかなり身体に力を入れていたらしい。一気に抜ける感覚が襲ってきて、座ったついでに寝ころぶとぶら下がっているシャンデリアが目に映る。

「彼女を理解しているからこその態度ですか」

イオナの声がした。それにワンテンポ遅れてキュウムの声が続く。

「理解してるかどうかは分からねえが、こうなるだろうとは思ってた。だから驚くこともなかったってとこだな」
「にしてもあの態度はおかしいだろ……お前もロロも母さんに何かある度に何かしら起こすくせに。こういう時こそ騒ぐんじゃねえの?」
「騒ぐって何にだよ。血か?」
「そうだよだって怪我してんだぞ!?見るからにヤバそうな怪我!」
「本人が普通にしてんだ、俺様たちが騒いだってなんの意味もねえだろうがアホ」
「そ、……そりゃそうだけど……アホは余計だ」

はじめ、母さんに心配された俺も確かにそうだった。いやしかし。うつ伏せになって首だけ持ち上げて睨んでみたものの、キュウムはどこか別のところを見ていた。ちらっと目線を追って見たら多分母さんたちが出て行った扉のところ。……なんだかんだ言いつつしっかり心配してるんじゃん。腹立つ。

「アヤト、こんな話を知っていますか。とある実験によれば、男性より女性の方が痛みに強いらしいです」
「……んだそれ」
「ロストバージンや出産の痛みが用意されているからというのもありますが、女性の方が痛みを和らげるためのはけ口を作ることが上手だから、という説もあります」
「ろすとばーじん?なんだそりゃ」
「後でご自身で調べてみたらどうでしょうか」
「はあ」

つまりだ。イオナは母さんのことは心配しないでも大丈夫だって言っているわけか。俺そんなに顔に出てたかな。

「ま、それが無くともアイツは、……痛みには慣れてるだろうよ」
「?、何の話だよ」
「昔の話だ」

やけにしんみりした物言いに、クッションを手繰り寄せながらキュウムを見るとにゅっと手が伸びてきて俺の鼻先を摘んだ。そのまま左右に振ってニヤニヤしてやがる。なんだ、キュウムにとって俺はおもちゃか?ざけんなクソやろー。
手を振り払ってからソファの上で寝ころんだまま方向転換。蹴とばすと足を掴まれ動けないところ、脇腹を思いっきりくすぐられた。痣のとこを押されて痛いだなんて言ってらんねえ。ぎゃはぎゃは涙目で笑いながらキュウムに向かってひたすら届かない蹴りを浴びせていた。

やれやれ。呆れながら少し離れた椅子にイオナがため息を漏らしたのを見た。はっ。呆れられたって別にいいさ。今はこうしてくだらないことやって時間を潰していたほうが断然いいに決まってる。
待っているのは苦手なんだ。だって俺、待つより待たせる派だし。
だからさ、その、……早く戻ってきてほしい、かな。




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