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ひよりちゃんもそうだった。彼女もまた、世間知らずで無知だった。だけど、だからこそ俺とは真逆の彼女に余計惹かれて彼女のポケモンになったんだろう。
"無垢の信頼心は、罪なりや"。
疑わずに信頼するということは時として自らをも殺す凶器にも変わるし、また周囲を大きく巻き込む事態にもなりかねない。いわば"諸刃の剣"だ。アヤトくんも、まさにそれである。現状は大丈夫そうだけど、果たしてこれからどうなることか。変に勘が良かったり、考えが甘く優しすぎるところがあるから余計気がかりではある。

……あーあ、せめてもう少し可愛げのある子になれば俺も好きになれるかも知れないのになあ。少し離れたソファで、前のめりになりながらテレビに食いついているアヤくんを見てぼんやり思った。それから、さっきから嫌になるほど感じている視線を仕方なく拾う。

「で、君はなんなの本当に。俺、君のこと嫌いだから逃げ回ってたんだけど」
「存じております。ですがどうしてもお伝えしなくてはならないことがありまして」
「なにそれ?」

静かにお皿へ視線を落として、フォークをくるくるさせながらパスタが巻き付くのを眺めていた。彼の様子は至って普通ではあるけれど、明らかに俺に対する接し方がおかしくなっていることは間違いない。アヤくんでさえ、イオナくんの違和感に気付いたんだ。俺が気付かない訳がない。
俺はイオナくんのことが嫌いだ。しかしそれは、彼もまた同じである。イオナくんだって俺のことが嫌いなはずなのに、口先だけの非常に不愉快な好意をぶつけてくるのは何なんだ。……若干のためらいを醸しつつ、彼から息の漏れる音がした。それと同時にフォークを持ち上げ、口元に持っていく。

「我がマスター……コスタス様が、お亡くなりになりました」

──……がしゃん。
手元から落ちたフォークが真っ白い皿の淵に当たって乾いた音を鳴らす。それと同時ぐらいに向こうから「どうした?」なんて声が飛んできて、ゆっくり顔をあげるとアヤくんが目を丸くしながら俺を見ていた。「なんでもないよ」、なんとか答えたもののテレビに視線を戻すアヤくんの様子を見ると。……やっぱり、俺はアヤくんにでさえも隠し切れないぐらいにかなり動揺しているようだ。

「病死です。人間というのは本当に脆い生き物なのですね。私は心底、そう思いました」
「──……あは、やっと死んだんだ、あの強欲ジジイ。地獄で苦しんでいればいいな」
「肯定は絶対に致しませんが、私も貴方の過去をマスターからお伺いしております。ですから……非難も致しません」
「…………」

視線を少しばかりさげるイオナくんを見てから、やっとのろのろと手を動かしてフォークを持った。巻き付けていたパスタもばらばらに広がり、白いソースも先ほどの衝撃で水滴程度が皿の端まで飛んでいた。
……イオナくんを少しでも怒らせられると思ったらこれだ。他人の過去をぺらぺらと喋るなんて本当に口の軽いジジイめ。ああ、でもアイツにとって俺は道具だったんだっけ。そうだ、ひよりちゃんとグレちゃんも居る前で、堂々とそう言われたのをまた思い出す。何度目でも怒りとなんだか言葉にできない感情でいっぱいになるこの記憶は、嫌でも一生消えてくれないんだろう。まるで深い傷跡のようで。

「マスターは、ロロさんを研究所へ送ったことを深く後悔しておりましたよ」
「…………は、?」

フォークはお皿の淵に置いたままだったから今度は落とさずに済んだものの、先ほどの話よりも信じ難いことを言われて咄嗟にイオナくんを睨んだ。もう猫を被っている余裕さえないぐらい一気に頭へ血が昇ってきている。
たとえ彼の言ったことが真実であったとしても冗談だったとしても、俺は絶対に許さない。……許してやるものか。

「マスターは最期まで"私ではなく"、貴方を呼んでおりました。貴方の名を呼び、謝罪の言葉を呟いていたのです」
「俺を呼んでいた?謝罪?はっ、何をいまさら。ボケジジイの戯言だね。興味無いよ」
「戯言かも知れません。ですが、これだけははっきり言わせてください。──……マスターの心は、真でした」

……何を持って、「真」と呼んだのか。
腹の中で沸々と湧き上がってきている怒りを抑えるように視線を逸らして、左の手の甲に右手で爪をたてる。本当は怒鳴り散らしたいぐらいだが、イオナくんに八つ当たりなんて真似は絶対にしたくない。それにここにはアヤくんもいる。感情的になるのは良くないことぐらいは、まだ分かっている。

「……で、それが俺に伝えたかったこと?」
「ええ、……まあ」
「そ、ならもういいでしょう。俺もちゃんと聞いたよ。だから早く消えてくれないかな」
「できれば私もそうしたいのですが、ロロさんにもう一つ」

声色でわかる。嫌な予感しかしない。すっかり食欲が失せ、フォークを持つことすら辞めてしまった片腕で頬杖をつきながら彼を見た。

「"私が最後まで愛せなかった代わりに、君がロロを愛してくれ"、……マスターの遺言です。なので私は貴方から離れることができません」
「……なに、それ。……冗談も休み休みに言ってよ」
「ふふ、いっそ笑えなくとも冗談であればどんなに良かったことか」

鼻で笑いながら視線を斜めに逸らす彼。その先には何もない。
俺はゆっくり椅子から立ち上がり、鉛のように重く感じる足を引きずるように動かして再び個室へ向かった。色んなことを一気にぶつけられて眩暈までしてきたような気がする。俺ってそんなにヤワじゃないはずなんだけど、……この話題にだけ弱いのは、昔から全く変わっていないらしい。

扉を静かに閉めてから、佇むベッドに力の抜けた腰を落とすとスプリングがギシギシと鈍い音を鳴らした。ぼんやりする頭では何かを考えることすらできない。それなのに、さっき彼から言われた言葉や話だけが頭の中を永遠と回っていた。──……本当に、。

「鬱陶しい……ッ!!」

片腕を振り上げてベッドを叩くと、また鈍い音がなる。

──後悔。俺だって後悔している。最初から信じなければよかったと。マスターの変化に気付いたあの時、俺がちゃんと止めていればよかったと。でもあの時は根拠なんてどこにも無かったけれど、きっと大丈夫だと思った。意思を持たぬ金や輝く宝石なんかより、マスターを想っていた俺を選んでくれると信じていた。

「……本当に馬鹿だよ、俺も……、あのクソジジイも」

ゆっくり俯き、胸元と眼帯を強く握りしめた。ズキズキと痛むこの瞳だって、未だ身体に残る傷跡だって全部本物だ。今更許すことなんて一つも無い。
……なのにどうして。どうしてこんなにも、……切ないのだろう。

「俺だって、……俺だって、本当は憎しみなんかで擬人化したくなかったのに……!」

大好きだったマスター。チョロネコだった俺と沢山遊んでくれて一緒に笑ってくれたマスター。本当は、ずっと君を信じていたかった。研究所へ着いたときでさえ「迎えに来るよ」とその言葉を信じてずっと待っていたのに。

後悔、謝罪。死んでからそんなこと言われたって、そんなの。
──……そんなの、どうしようもないじゃないか。




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