14

朝。いつもリヒトの方は起きるのが早いけれど、今日は同時ぐらいだった。……なぜなら、ロロが起こしに来たからである。それもまだ薄暗いうちに。

「おはよう。二人ともお腹出して寝てると風邪ひくよ?ていうかなんで泥だらけなの?」
「……寝る前に、リヒトと相撲やってた」
「すもう?」

首を傾げるロロに、眠たすぎる目を擦りながら雑に地面に描いてある土俵という名の円形を指さした。あの線の内側で取り組んで、相手を倒すか土俵の外に出すかすれば勝ちになるやつ。頭のいい俺が、目覚めたばかりだというのに素晴らしい説明をしたのにロロのやつは「ふーん」の一言で済ませた。ただ、少しだけ興味はありそうで、円形のところまで歩いていくとなぜか一人で円の中に立って満足気な笑みを浮かべていた。……あれか、猫は狭いところが好きってやつか。……違うか。

「まずは川で身体洗ってきなよ。そしたら出発。いい?」
「いい?って……まだ夜明け前だぞ?なんでこんなに早いんだよ……年寄りかよ……」
「失礼な。俺はまだ若……あれ、何歳だっけ。まあいいや。実はさあ……俺のストーカーに居場所を嗅ぎ付けられてしまったらしくて」
「ストーカー、ですか?」

足ぐらいしか入っていなかった寝袋からもそもそ這い出ながらロロの言葉をぼんやり聞いていた。すとーかー?なんだ、どっかで厄介な女でも引っ掛けてきたのか。なら良い。とっととそのヤンデレ女に殺されちまえ。サクッと刺されろ。
鞄の中を漁り、大きめのタオルを二枚だす。……ああ、クソ眠い。

「そう。しつこいんだ。しつこい男は嫌われるのにねえ」
「……はは、それロロ、お前のことじゃん」
「俺は違うよ。一途ってやつだよ」

同じじゃねーか。呟いてから、リヒトの腕を引っ張り川へ向かう。
眠すぎた俺は、残念ながら置き去りにしたロロが発した単語の違和感に気づくことができなかった。まあそれはそれでよかったけど。

夏に近いといえども、夜明け前の川の水は少しばかり刺激的だ。つまり、冷たいということである。指先からソロッと入っても身震いは避けられなかった。リヒトも同じく、数歩離れた先でぶるりと尻尾の先まで震わせている。

「こうやって、アヤトと川で遊ぶのも最後かあ……」
「いや今は遊んでないからな?それに最後ってのも間違いだ」

両手で水を掬って顔にぶっかけていると、リヒトの素っ頓狂な声が聞こえた。指先で目元を擦ってから顔をあげると、なぜか近くまで来ているリヒト。リオル部分の手足の毛が水で濡れてぺちゃんこになっている。骨格がより浮き彫りになっていて、そこだけ現実味が消失していた。

「最後最後って、死ぬわけじゃねえんだから。飛行タイプのポケモン捕まえて、そしたらいつでもここに来れるだろ?」
「旅は、」
「旅ってずっと続けなくちゃいけないわけじゃないじゃん。たまには休みってことで、ここに帰ってきてもいいだろ?」

下がっていた尻尾が上がるのが見えた。川の水が跳ね、小さく音が鳴った。
うん、そうだね。嬉しそうに笑って返事をすると、また離れて水浴びをするリヒト。メリープたちとも約束してるし、……そうだな、大げさに言えばここは俺のこの世界での故郷になったのかも知れない。そう思った途端、ここがすごく素敵な場所に思えてきた。俺は自称できるぐらい、単純な男である。

「──……あ、メリープの声」
「ほんとだ。姉さんたち、こんな早くから起きてんのか。そりゃ昼間眠くなるわけだ」
「おれもお昼寝、好きだよ」
「リヒトもメリープたちと同じような睡眠スタイルだし、今度一緒に昼寝すればいいんじゃね?意外とあの綿毛、良い枕になるんだよ」
「うん、……今度、お願いしてみようかな」

メリープたちと一緒に昼寝をするリヒト。今は想像だけれど、近いうちに現実になるに違いない。そしたらオーナーさんたちにお願いして写真を撮って送ってもらおうか。軽く子供の成長を楽しみにしている親みたいな気分になりつつ、川からあがる。後からリヒトもあがり、俺が投げたタオルをばっちり受け止めていた。





「……よし、忘れ物はないな」

久々に寝袋をきちんと仕舞い込んだ大きな木の下は、やけに広く見えた。リヒトに携帯の使い方も教えたし、焚火の処理もできている。長いようで、あっという間の日々だったなあと、ぼんやり思った。鞄を掛けなおして一周回りを見まわした後。
一人、大木をバックに立っているリヒトと向かい合う。キュウムが研究所を破壊したとはいえ、研究自体が終わったわけではない。そういう面ではかなり心配が残るものの、俺が思っているよりリヒトは弱くない。寧ろ俺には計れない強さを持っているに違いない。きっと大丈夫。自分と、自分の脳内にいる弱そうなリヒトに言い聞かせる。

「いいかリヒト。無理はするな。絶対だぞ」
「うん」
「困ったことがあったらオーナーさんたちか……そうだ!俺に電話しろ!なんか……なんかするから!」
「──……うん」

くすくすと笑われた。い……いや、確かに今のは自分でも無いと思うけど。ちょっとだけ目線を斜めに下げてから、再びちゃんと合わせる。

「大丈夫。アヤトのおかげで、大丈夫になれたから」
「……おう」
「また、会えるのを楽しみにしてるよ」
「俺も。元気でな。また、……」

また明日。癖で思わず言いそうになって、言葉を止める。
明日から、またそれぞれの日々が始まる。それだけなのに、いつの間にか心にすごく大きな穴が開いてしまっていたようで、そこから色んなものがぽろぽろと零れていた。こういう時に限って、脳内で思い出がでしゃばってくるんだよなあ。

「ほんと、アヤトって泣き虫だね」
「……うっせばか。心が清いって言え」
「うん、わかった」

俺だって、リヒトと同じく笑顔で別れるはずだったのに。鼻水を啜りながら、差し出された手を握る。リオルの方の手だ。握手したついでに肉球を押すと、離した瞬間リヒトは肉球を俺の頬に押し当ててきやがった。ちくしょう、気持ちいい。

「さあアヤくん、そろそろ行こう」

ロロの言葉に促され、ゆっくり、ゆっくりとリヒトに背を向けた。……一歩ずつ、歩き始めた途端これだ。今までせき止めていたのに洪水が起きた。無性に寂しくて、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。なんだよ、自分でこれが最後じゃないって言ったのに。また会えるのに。いつでも、連絡できるのに。

「アヤくんは、すごく良い日々を過ごせたんだね」
「……うん、」

俺の数歩先を歩くロロが、そういった。母さんの話をするときみたいな、気持ち悪い笑顔じゃなくて普通の笑顔だった。てっきり俺は、俺のこの情けないであろう顔をロロが見たなら絶対に爆笑されると思っていた。だからなのか余計に予想外すぎて、俺も素直に頷いてしまったのだった。

「アヤトーっ!」

後ろ。急にリヒトが俺の名前を叫んだ。俯いていた顔を上げ、咄嗟に後ろを振り返って、……思わず、笑ってしまった。

「また、……!またね……っ!」

リヒトのヤツ、さっきまで笑っていたくせに、俺が振り返ったときには既に俺と同じぐらい顔がぐしゃぐしゃだった。それがたまらなく面白くて。昇りはじめの太陽を背に、俺はリヒトに負けじと思い切り声を張り上げた。リヒトに届くように。未来に届くように。

「──……またなーっ!」




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