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『アヤトのバカ!もう知らない!』
「……なんスかあれ」
「いじけモードのハーくんだ。放っておけばすぐ直る」

どこかで聞いたことのあるセリフをぶん投げられた俺は、少し離れたところでケツをこちらに向けているハーデリアことハーくん先輩を見る。俺が明日には旅に出るということを伝えると、ハーさんはオーナーさん同様応援の言葉をくれたのだが。ハーくん先輩はというと、最初こそ応援の意を示していたもののだんだんと変化してゆき……この有様だ。正直に言うと、俺の中で嬉しさと呆れが半分こしている。

「先輩。俺メリープ姉さんたちと約束したんで、またここ来ますから」
『僕たちより先に姉さんたちに話していたのか!?ひどい……!』

バウバウ吠えながら俺の足元に飛び掛かってきたハーくん先輩を指さしながらハーさんを見る。無言の訴えだ。「早くコイツどうにかしてくれ」って目で見ていると、ハーさんが一度静かに目を閉じてからハーくん先輩の両脇に手を差し入れて抱き上げる。でかすぎて足は芝生すれすれ。長い胴体に短い手足が激しく動いてる。……マジモップだ。モップ犬じゃん。

「ハーくん。アヤトが困っている。それにアヤトは最初に言っていただろう。"一週間もしないうちにいなくなると思う"と。それを最初に承知したのは君であろう」
『そう……なん、だけど、』

そうだった。オーナーさんに無理を承知でここで働かせてもらうことを頼み、それを最初に受け入れてくれたのはハーくん先輩だった。あの時は、チャラそうな見た目に俺を道具みたいな言い方してたから気に食わなかったけど……そういやいつから、そういうの無くなったんだろう。
抱えられながら大人しく伸びているハーくん先輩の前に座ると、ハーさんが芝生の上にゆっくり降ろす。うなだれているその頭に少しばかり躊躇しながらも手の平を置くと、やっと目線が合った。丸い目に自分が映っている。

「……その。ハーさんたちに明日旅に出るっての、……なんか分かんないんだけど、一番言いにくくて。だから最後になっちゃったんです。本当はオーナーさんの次に言おうと思ってたんですけど。……はは、なんでだろ」
『……それはだね、アヤト。言った後の反応を見たくなかったからだろう。一番、一緒にいることが多かったというのも、……あるんじゃないかな』

ぼふん、と目の前で煙が生まれて見下ろしていた目線が同じぐらいになった。人間の姿になったハーくん先輩の表情はいつも通りに見える。ふと、伸びてきた手が俺の頭の上に乗っかったと思えば思い切り掻き回された。そりゃもうすごい勢いで、咄嗟に下を向きながら後ろに逃げてから睨みあげるとハーくん先輩はカラカラと笑った。怒鳴ろうと思ってたのにそれを見たら何だか急に失せてしまって、代わりに口先を尖らせる。

「最初はさ。……僕もアヤトのこととか、どうでもいいって思ってたんだけど。ハーさんに"ハーくんが先輩だぞ"って言われたら、変に意識しちゃって。事あるごとに僕に聞いてくるアヤトが可愛く見えてきちゃってさ。……先輩って呼ばれたら、可愛がるしかないじゃん。僕、──……まだ"先輩"でいたかったのに」
「……へえ、ハーくん先輩って見かけによらず、意外と兄貴肌なんですか」
「そのようだな。アヤトのおかげで目覚めたらしい」

俺のおかげですって。ハーさんの隣でハーくん先輩を見ると、目を細めながらまた手を伸ばしてきたからニヤニヤしながら避けると、俺の表情が移ったようにちょっとした膨れっ面がしぼんでニヤけ顔になっていた。なんだかんだ中身は外見よりは幼いようだ。

「じゃあ先輩。俺がいいことを教えて差し上げましょう」
「え、なになに」
「俺、仕事もハーくん先輩の方が多分歳も近いし聞きやすかったんですよ。だからほんと頼りっぱなしでした。それ以外でも励ましてもらったり、……その、ハーくん先輩の言葉がきっかけで、色々変われたっていうか。……つまり、ハーくん先輩は、俺の中ではずっと先輩のままだと思うんです」
「アヤト……」
「……たぶん」
「余計な一言だねっ!?」

鋭い突っ込みを聞きつつ、少しだけ視線を斜めに向ける。……言っておいてあれだけど、今更なんか恥ずかしくなってきた。今までぼんやりと心中に留めていたものを言葉に出すと、こうも価値が違ってくるものなのか。
「でもそっか。そうだよね」、ハーくん先輩が一人、何かに納得をしている様子が窺えた。多分さっきの俺の言葉を今になってきちんと飲み込んでいるらしい。もしや牛のように反芻していたのだろうか。それはそれで嬉しいけれど。

「ハーさん、僕、間違ってたよ。全然先輩らしくなかった」

どこか満足気な笑みを浮かべつつ深く縦に頷くハーさんから、視線が俺へと向けられる。先ほどまでのいじけはどこへいったのやら。何かを達成したような、誇っているような顔で俺を見るハーくん先輩が、一歩俺に近寄ると片手を伸ばして俺の背を手のひらを軽く叩いた。いや、叩いたというよりも、押されたというほうが正しいだろう。

「未だ手持ちポケモンがいない、しょぼいアヤトにこの言葉を送ろう」
「しょぼいは余計です」

俺の言葉を完全に無視したハーくん先輩が、夕日をバックに得意げな表情を携えて口を開く。

「ボーイズ・ビーアンビシャス!」

それは、きっと誰しも一度は聞いたことのある某博士の名言であった。
何故英語なのか疑問に思ったものの、そういやここはイッシュ地方だったということを思い出して一人「ああ」なんて納得してしまっていた。日本語しか話せない俺がどうして英語圏に住んでいる人たちと話せているのかはよく分からないけれど、会話ができるならなんでもいい。

「──"少年よ、大志を抱け"」
「おお、よもやアヤトが知っているとは思わなかった」

冗談ではなく本当に驚いている様子を見せているハーさんに少しばかり不満を漏らしてから、なぜかニヤついているハーくん先輩を仕方なく見る。……どうやらまだ、続きがあるようだ。

「僕はねアヤト。別の説の方の意味で言ったんだ」
「別の説?」
「そうさ。"男の子だろう!しっかりしたまえ!"という、まあ、ただの元気付けの言葉さ。"大志を抱け"なんてアヤトに言ったって無駄そうだし」
「うわ、超失礼」

咄嗟にイラッとして言い返してしまったけれど、……まあ、ハーくん先輩の言う通りだ。今の俺にそんな言葉は届かない。大志を抱くまえに、一匹でもいいからポケモンをゲットするという目標さえ達成できる見込みがないのだから。
明日から再開される旅には、言ってしまえば不安しかない。考え、少しばかり俯きそうになったところをまたハーくん先輩に背中を押された。

「大丈夫。アヤトなら、きっと大丈夫だよ!」
「……はい」
「口の悪さと素直じゃないところを抜かせば、君はいい子だもの」
「ハーくん。それはつまり、」
「うん、今のアヤトはいい子じゃないってこと!」

こっちの世界に来てから、満面の笑みで言われることが大抵すごく困ったものになるのはなんだろう。ただ単にハーくん先輩がどことなくロロに似ているというのもあるのか何なのか。言い返そうにも良い反撃が思いつかず、ひとり口をもごもごさせていたけれど。

「でもさ。アヤトにはそれを補える素敵なところもたくさんあったよ。それに気づいてくれる、いいポケモンと出会えるといいね」
「……は、はいっ!」

はにかむように笑うハーくん先輩を見て、やっぱり俺はハーくん先輩が初めての先輩で良かったと思った。
励ましの言葉をもらいながら寝床に戻る前に三人で小屋に行った。扉を開けると美味しそうな匂いがして、思わず腹の虫が鳴いてしまった。俺が明日にはこの街を発つということをオーナーさんが奥さんに話したらしい。いつもより早く晩御飯を作ってくれたようで、大き目のタッパーに入れられ渡された。

「今までお疲れさま!本当に助かったわ、ありがとうアヤトくん。それ、今晩リヒトくんと一緒に食べて」

優しすぎるオーナーさんの奥さんに全力でお礼を言ってから手元を見る。湯気で蓋が曇っている。今度こそリヒトに温かいうちに食べてもらわなければ。それから美味しそうに食べるリヒトの姿を脳内で思い描くと自然と足が早くなっていた。明日の朝、また一度寄るということを伝えてから扉に手をかけ……ふと、思いついた。

「このタッパー、リヒトに返しにきてもらうようにします」

えっ。俺の言葉に、オーナーさんが驚きの声をあげる。声が出たのはオーナーさんだけだったけれど、オーナーさんの奥さんもハーさんたちも目が大きくなっていたり口が半開きのままだ。変な光景に一度笑い、扉をゆっくりと開ける。
リヒトは多分、少しだけ変わった。良いほうに変わったと、俺は思う。すごくいい奴が、さらにいい奴になったんだ。もちろん独り占めしたいことにはそうしたいけれど、それよりも俺は、もっとみんなに知ってほしい。もっとちゃんと、見てやってほしい。

「オーナーさん。柔らかいのは好きですか?」
「えっと……感触のことかな?うん、好きだよ。モココの綿毛とか触ると幸せになるよねえ」
「そうですか。……リヒトの肉球、すっごく気持ちいいですよ」

一歩踏み出し、後ろに向かって手を振ると「……触らせてもらえるように、頑張るよ」って声がした。たった一言だったけど俺にとってはすごく嬉しい言葉で、気づいたら森の中を颯爽と駆けだしていた。一人狂ったように笑いながら夜に飲み込まれそうな森を走る姿は、傍から見たらそれは奇妙な光景だっただろう。

「……ぐちゃぐちゃだよ」

大きな木の下で大人しく俺の帰りを待っていたであろうリヒトからの最初の言葉は、それだった。時間をかけてゆっくりとタッパーを開いた瞬間の、あの悲しそうに眺めるリヒト顔を俺は一生忘れないだろう。




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