5

牧場に着く頃。冷静になって、頭を抱えた。
母さんに嫉妬して、俺には絶対に従わないというキュウムにイラついて、リヒトに当たって。……なんでこんな子供っぽいことしちゃったんだ。
フッと我に返った瞬間から足取りがひどく重くなる。さっきももやもやしていたけれど、今度はまた別のもやつきだ。手入れされた芝生を踏みしめ、地面を見ながらゆっくりゆっくり歩いているとメリープの鳴き声が聞こえてきた。

『僕ちゃん、おはよおー』

顔をあげてみれば逆光で、その姿がよく見えない。ああ、朝日が眩しい。空も清々しいほど青い。どうやら今日も晴天のようだ。けれどもこんなにも鬱々とした晴れの日は初めてだ。
鉛の足を引き摺り片手を額に当てて目元に影を作りながら、背の低い柵の向こうにいるメリープたちの元へ近寄って行くとメエメエ鳴き声が低くゆっくりとしたものになった。真っ黒いボタンみたいな目は俺の顔を見ていて、……つまり、そういうことだ。俺は顔に出やすい。

『なあに、その酷い顔』
『いつも元気な僕ちゃんにしてはあ、珍しいんじゃないのお?』
『どうしたの?話、聞くよ?』
「…………」

メリープ三体を目の前に柵へ寄り掛かって、ひとつため息を吐いた。もふもふな薄黄色の毛が視界をチラつくが、視点が合っていないようで間近にあるのにぼんやりとしか見えない。……ポケモンなんかに相談するなんてどうかしてる。心の中でそう思いながらも、藁にも縋る思いでつい先ほどのことをぽつぽつ話した。

「……つい、リヒトにも当たっちゃってさ。なんかこう、今日の仕事終わっても、帰りたくないなあ……みたいな……」
「なあに、簡単なことじゃないか。リヒトくんにも君のママにも謝ればいいだけさ!」
「ハ、ハーくん先輩、いつの間に!?」

突如、メリープたちの間を突きぬけボコッ!と出てきたハーくん先輩に驚いて、柵から一歩後ろに下がる。ていうかいつからいたんだ!?今までどこに居たんだっ!?
"ちょっと、どこ触ってんのよ!""やだあ、えっちぃ"とかメリープたちの言葉を聞きつつ、綿毛をゆっくり掻き分け柵を飛び越えるハーくん先輩を見る。にやつきながら何処となく満足げな笑みを浮かべている姿に、俺はため息を吐いた。仕方が無いとはいえ、こんなのが先輩の一人だなんて世も末だ。

「まー、簡単に謝れるならこうして悩んでないよねえ」
「な、……なんか、……言いにくいっつーか、」
「プライドが邪魔するから?でもさあ、よく考えてみなよ。今日のうちに謝らないときっとこの先鬱々した毎日になっちゃうんじゃないかなあ。それってイヤじゃない?」
「……イヤ、です」
「なら、とっとと謝ったほうが君のためでもあるのでは?」

さあ、今日の仕事をはじめよう。……ウェーブのかかった横髪を揺らして、ハーくん先輩らしからぬ言葉を俺に言う。俺を急かすように少し歩いては振りかえってを繰り返す姿を見ながら、俺もゆっくり足を運ぶ。ふと、ハーくん先輩が立ち止まり、かと思えば俺の真横に飛ぶように戻ってきた。片腕が思い切り持ち上がり、俺の肩をがっしり抱く。

「そんな深く考えなくても平気さ。だって、アヤトは自分が悪かったってことちゃんと分かってるんでしょ?」
「まあ、……はい」
「なら大丈夫!だいじょーぶ!」
「……あの、暑いんで離れてください」
「えー、冷たいなあ」

いかにもわざとらしくいじける様子を見せつけ、直後、俺の頭を両手で思い切り掻き乱してから先へ走って行って距離を置く。ほら、僕に仕返ししたいなら早く追いついてみな!って、そういう顔しながら俺のこと見てるハーくん先輩。それを見ながら、とある事を思いだしていた。
少し前、ハーさんが内緒で教えてくれたことがある。
"ハーくんにとってアヤトが初めての後輩でな。何をするにもアヤトのことを気にかけているのだよ。……ああ見えて、君の存在をかなり喜んでいる"

──……もしも。もしも、今も俺を励ますためにくれた言葉や行動だとしたら。

「っハーくん先輩!」
「なに?呼ばれてもそっちには行かないよ?」

片手を腰に当て片方に重心を置いている先輩を前に、視線をあげる。太腿の横で軽く拳を握り、息を大きく吸いこんで。

「あの!せ、先輩のおかげで、……ちょっと、元気出ました!……っありがとうございます!」

広い牧場の一角。早朝、俺の声が響いた。
それから程なくして、再び生まれる一つの足音。先ほどよりもかなり速足で俺を置いてゆくハーくん先輩が振りかえることは一度も無かった。その姿がほんっとうに面白くて、一人でにやにやしながら後を追った。
面と向かって言うのはかなり恥ずかしかったけど、結果、「へっ!?」なんて素っ頓狂なハーくん先輩の声を初めて聞いたし、それにあの変な顔も見れたのだ。

全くもって俺らしくない言葉だったとしても、ちゃんと伝えられて……本当に、よかったと思った。





あっという間に朝から昼、そうして夕方になり。
俺は少しばかり緊張、に近い何かを胸に抱きながら寝床となるあの大木を目指して歩いていた。いつもはなんてことない川の流れる音がちょっとした安らぎになっている。不思議だ。
暗い森の中、仄明るく照らされている空間が先に見えてきた。俺が今から行くところである。……少し立ち止まって深呼吸をした。大丈夫、脳内シュミレーションも完璧だ。それにハーくん先輩だって大丈夫って言ってたし。──……よし。

背の高い草を掻き分け、辿り着く。同時に焚き火を囲んでいたリヒトと母さんの視線が俺に向き、少しだけ顔を強張らせてしまった。……やばい。今の俺、どんな顔してんだろ。

「……あ、あの、」
「アヤくんお帰り!お疲れさま」
「あ、……うん、ただ、いま……」

にこりと笑う母さんの後ろ。リヒトが母さんに隠れるようにして身を縮こまらせている。……それを見た瞬間、何故か、俺の口はゆっくり閉じて固く結ばれる。唇をうじうじ噛んで立ち尽くす。これじゃ駄目だ。早く謝らないと。頭はちゃんと分かっているくせに、身体と心が言うことを聞かない。
その数秒は、俺にとっては本当に長い時間だった。沈黙を破ったのは母さん、……ではなく、あのブス人形。

『ひよりちゃん、ワタクシお腹が空きました!もう待てません!』
『アヤトくんも戻ってきましたし、そろそろ移動しませんか?』
「移動……?」

真っ直ぐに母さんの元に飛んで行った二体の人形が定位置に着く頃。さっきまで姿が見えなかったキュウムがいつの間にか大木に寄り掛かって腕組みをしていた。微かに葉の揺れる音がしていたし、多分木の上に居たんだろう。

「そうだね。私もお腹空いたよ」

母さんがお腹を擦りながら立ち上がり、焚き火を消す準備を始める。それから座っているリヒトを見て、手を差し伸べていた。数秒置いてからリオルの方の手で握り返し立ち上がるリヒトは、随分と母さんに懐いたようだ。……今日一日、一体何をしていたんだ。

「リヒトくん、これから予定とかある?日付が変わる前までには戻って来る予定ではあるんだけど」
「これから、ですか、……ええと、」
「…………」

言葉を濁すリヒト。……今晩は、実験体になる予定なのか。
流石にあのことについてはまだ話していないらしい。どうしようかと言葉を詰まらせているリヒト。俺が間に入って適当に言い繕ってやるべきか。一瞬悩んでから、つま先に力を入れたときだった。キュウムがゆっくり歩いてきて、当たり前のことのように言う。

「忘れてた。ハーフのガキ、テメエに朗報だ。しばらくあそこに行く必要はねえ」
「──……、え、?」

驚愕。今のリヒトと俺には、まさにその言葉がぴったりだった。キュウムをジッと見ながら身動き一つしないリヒトは、言葉を失いつつも既に警戒体勢に入っている。あの様子だとキュウムにも話していないようだ。……なら、何故今アイツからあんな言葉が出てきた?

「え、えーっと……何の話?」
『ほらひよりちゃん、ここに来る前、白い小さな建物があったでしょう』
「キューたんが壊しちゃった、あれ?」
「「っ壊した!?」」

母さんの言葉に俺とリヒトの声が重なる。それで一瞬目があったものの、お互いまたすぐに視線をキュウムに戻す。

「突然大きな音がしたと思ったら、真下が真っ黒焦げだよ。まだ森の中だったから良かったんだけどね。……欠伸したら破壊光線もでたって、可笑しくない?」
「可笑しいどころじゃねえよ!普通に怖えよ!?」
「どうせ無人だったんだぜ。構うことは何もねえ」
「本当に無人なのか確認したのか!?」
「ハッ、俺様が無人だと思えば無人なんだよ」
「なんだその屁理屈ッ!」

恐ろしいことをした本人はおちゃらけた様子を崩さない。……が、多分。キュウムはその建物が何なのかを分かった上で破壊したに違いない。そうじゃなければリヒトにあんなことは言わないだろう。勿論、それはリヒトも分かっているようで、無言のままキュウムを見ては必死に意図を探っているようだった。

「で、行くのか行かねえのかはっきりしろ」
「……行きます」

リヒトが力強く答える。それににやりと笑みを浮かべるキュウムと、満足げにリヒトの周りを飛び回る二体の人形。……奴らは一体、何をどこまで知っているのか。その意図は何なのか。きっとリヒトは、それを少しでも知るためにも行くんだろう。
……で、一体どこに行くんだ?

ボン、という音と共に巨大なポケモンがその足で地を揺らす。またもや急激に下がる気温に一度身振るいをしながら、その姿を仰ぎ見た。あのムカつく野郎がこんな格好いいポケモンなんだもんなあ。はあ。現実辛え。

『ひより、行くぞ。乗れ』
「さ、リヒトくんとアヤくんも!あ、灰色の部分以外のところ触ると氷漬けになっちゃうから気を付けてね」
「はい」
「はっ、はあ!?んな怖えのに乗んなきゃいけねえの!?」

キュレムの細長い首の部分に何事も無く跨っている母さんと、そしてすぐに飛び乗ったリヒトが不思議でならない。不思議というか、もはやすげえという言葉しかでてこない。

「……怖いなら、オレが抱っこして乗せてあげようか?」

頭上、リヒトの声が聞こえた。見上げてみれば、にやりとしながら俺を見下ろしている。
それを見てからすぐさま灰色の首によじ登った。そうして跨り、さらに冷たい空気と随分と高くなった視界に……感動した。心が熱くなった。昂った……っ!!
伝説の!ポケモンに!乗る俺!超ーーー格好いいっ!

「ひよりさん、……その、どこに、行くんですか……?」

氷に覆われ透き通ったアシンメトリーの羽が大きく開き、ゆっくり、しかし力強く羽ばたき始める。木は倒れんばかりに揺られ、葉は鳴きながら飛んでいく。……すごい、すごいぞお……!!

「えっとね、」

ぶわり。風が顔面に吹き付け、どんどん視界が高くなる。興奮と少しばかりの怖さから、母さんの腰周りに回した腕が思わず力強くなる。俺の腹を締め付けるぐらい抱きしめているリヒトもまた同じなんだろうか。
あんなに大きかった木も、今では俺たちの真下にある。暗い夜。しかし空には森に隠されていた月が堂々と居座り、そして雲も青紫色に染まってはいるもののその姿を見せていた。輝く星も数えきれないほどある。夜の空がこんなにも賑やかだったなんて!

「行先は──……ジョウト地方!」

ジョウト地方。その単語はちゃんと耳に入ってきた。……が、しかし。一気に加速しやがったクソ野郎のおかげで、その単語が一瞬にして消え去った。爆風に爆音。開けられない目。我の叫び声、我と共にあり。




- ナノ -