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「──……たん?ていうか誰なのこの子は。俺に子守りをしろって?冗談じゃない。女の子ならまだしも男って、そりゃないよ」


誰かの話し声で、俺は気が付きゆっくり目を開けた。頬の辺りがくすぐったくて、それを手の甲で退かすと跳ね返ってまた俺の頬に当たる何か。……草の、匂いがする。

「──ッ!?!?」

そうして慌てて飛び起きたが、瞬間、間抜けにも大きく口を開けてしまった。
夕陽はすでに頭の部分しか残っていなくて、じわじわと夜に飲み込まれている。それから両手を広げてから自分を確認するように何度も胸元や腹んとこを触ってみれば何故か学ランを着ていた。さっき風呂に入って着替えたはずなのにどうして。それに今も肩に掛っているのは、俺がいつも学校へ行くときに使っているスポーツバッグ。中身も急いで確認し、携帯と充電器があるのをしっかりこの目で確認しては安堵の息を漏らした。とりあえずこれさえあれば安心……じゃないな!?

「いやここどこだよ!?」

手に付いていた草を剥がしてから、唖然としながら周りを見る。何度も、何度も。だがしかし、何度見回しても目に飛び込んでくるものは元気よく生い茂る草、草、草。緑のオンパレード!……はは、笑えねえ。
顔は正面に向けたまま、静かにバッグから携帯を手探りで取り出しロック画面をスライドする。そうしてまた愕然とした。

「けっ圏外いい!?はあああっ!?」

ありえない。なんも出来ねえ。なんなんだほんと。諦めて携帯をバッグの中に放り投げて、頭を無駄に掻きむしる。
確かに俺はこんな感じで突然見知らぬ土地にくることをいつもいつも夢に見ていた。あんなクソ世界は俺の居るべき場所じゃない。俺こそ選ばれし人間なのだと、授業中いつも考えていたけれど。でも、これはない。
起きても画面に映っていた綺麗な女の人は何処にも居ないし、ここは見るからにして森だ。さらに電波の届かない謎の森。そして時間帯は夜と来た。ゲームで例えるならば今の俺は「勇者(レベル1)」のまま、初期装備で魔物だらけの森に放り投げだされたというところだろう。

「い、いや。そんなバカな、」
「君、独り言多いね」
「っわあああっ!?」
「わっ、」

びび、ビビっ……だだだ、断じて怖がってなどいない。ただコイツが突然俺の背後から急に話し始めるから後ろに飛びのいてしまっただけであって。……ていうか誰だコイツ。いや、人か?人なのか?人の皮を被った魔物とかだったりしない?

「……ん……、ちょおっと待って、?」
「な、……なん、……っ、」

腰が抜けて動けない俺に向かって、男が四つん這いでゆっくり近づいてくる。なんとか腕だけで後ろに下がるがすぐに太い木の幹に背中がぶつかって逃げ場を無くす。
暗い紫色の髪を揺らしながら右目を眼帯で覆っている男の真っ青な左目が、残りわずかな夕陽の光を全部吸収してるかのように妖しく光り輝いているのを見る。……思わず、息を飲んだ。

「──……もしかして、!」
「っ!?」

それはまさに、目に物見えぬ速さだった。
気付いた時には俺の両肩に男の手ががっしりしがみ付いていて目の前にずずいっ!と顔を突きだされる。猫っ毛なのかあらゆる方向に跳ねている細い髪の毛が俺の顔まで当たってくすぐったいが、それを退かすことすら今は出来ない。少しでも自身の腕を動かしてみろ、きっと俺はコイツに八つ裂きにされるに違いない。

「ねえ君、教えてよ」
「……な、何を、ですか、」
「君のお母さんの名前は?」
「…………は?」

隻眼をこれでもかというほどキラキラと輝かせ、口元もやんわり弧を描いている。
……前言撤回。きっとこの男は俺の味方になるであろう人物だ。イベント会話というあれ。……いやでもちょっと待ってほしい。やっぱりどう考えても質問がおかしいし、ついさっきまで刺々しい雰囲気をあからさまに出していたくせに俺の顔を見るや否や別人のように雰囲気を変えやがった。訳分かんねーしなんかムカつく。

「なんで俺じゃなくて母さんの名前なんですか。すっげー怪しいんですけど」
「ああそっか。じゃあ、君の名前は?」
「…………」

ニコニコと「じゃあ君の名前は?」だって。"じゃあ"ってなんだよ。
不満すぎて目を細めて睨むように男を見るものの、変わらず笑顔のまま俺の言葉を待っている。
ていうかよく見るとコイツ……かなり顔がいいような気がする。父さんも色んな人から「格好いい」って言われてたけど、いやいや父さんなんて比べ物にならないぐらい端正な顔立ちだ。だから余計ムカつくのか。なるほど。超ぶん殴りてえ。

「……呉」
「あは。それ"ミョウジ"ってやつでしょう?俺は名前を聞いてるの」
「…………」

まだ聞いてくるのか。今ので「やっぱり」みたいな顔したくせに、全くしつこい男だ。言いたくないけど、いつまでもこう顔が近いのは鬱陶しい。ここにきてやっと動かせるようになった手で男の胸元を払うと少しだけ距離が開いた。だけどまだ俺のパーソナルスペースはこの男に侵されている。

「……アヤト」
「へえ、アヤトくんって言うんだ。で、君のお母さんの名前は?」
「だからなんで母さんの名前!?ぜっってー言わねえ!」
「あはは、なら当ててあげる。……ひよりちゃん、でしょう?」

にやり、時折服で隠れる口元に笑みを浮かべながら男は確かにそう言った。
ど、どうして母さんの名前を知っているんだ。怪しすぎる男を目の前に、俺は目を見開くことしか出来ない。

「──君、ひよりちゃんにそっくりだ」

ふと、真っ直ぐに伸ばされたスラリと長い指先が俺の目元をなぞる。……瞬間、鳥肌が立った。愛おしそうに向けられた眼差しや、陶器に触れるような優しすぎる指先に、この俺でさえ分かってしまった。
知りたくも無かった、この男の、母さんへ向けられた感情が。

……それから頬に添えられていた手が離れて何事も無かったかのようにコートの裾を揺らす男を見ながら、寄り掛かっていた木の幹の根元に向かってさらにずるずると背を這わせた。すると男は、完全に力が抜けて無様に地面に寝っ転がる俺を悠長に見降ろしながらこう言った。

「ようこそポケモンの世界へ。アヤトくん、君の旅の始まりだ。……そういうわけで、しばらくどうぞよろしくね」


…………どうぞよろしく?ふざけんな。




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