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リヒトの警戒が薄れてきたことは多分母さんも分かっているんだろう。微々たるものではあるけれど着実にリヒトと距離を詰めていることは、後ろにいる俺が見ても分かる。リヒトも分かっているのに後ろに下がらないということは、そういうことだ。

「……あ、の」

自然と会話が一区切りしたとき。ここで初めてリヒトから母さんに向けての言葉が生まれた。すでに次の会話に移行しようとしていたであろう母さんの唇が少し震え、すぐに閉じてはゆるりと弧を描く。それを見て、リヒトが一度視線を下げたと思えばゆっくり頭を下げたのだ。これには思わず俺も母さん同様、数回瞬きを繰り返してしまった。

「ごめん、なさい。……おれの勘違い、で、アヤトの、お母さんに、……すごく、失礼なこと、」
「大丈夫、気にしないで」

母さんの言葉と一緒に、リヒトの頭の位置がのろのろと元に戻る。下がったままの尻尾を眺めてから、何となく動きたくなって静かに足を動かした。リヒトの後ろから左に歩み出て母さん側に立つ。リヒトの頭は上がったものの、目線は地面に向いたまま。

「謝ることは無いよ。だってリヒトくんはアヤくんを守ろうとしてくれていたんだよね?ありがとう、リヒトくん」
「──……、」
「アヤくん、素敵なお友達が出来てよかったね」
「……うん」

母さんの言葉を噛みしめているであろう、また泣きそうになってるリヒトを見ながら頷くと、母さんが笑って「私も嬉しいなあ」なんて言いながら立ち上がって、皺を伸ばすように長いスカートを手で軽く掃う。

それから。リヒトに一歩近づいて、左手を伸ばす母さんを見る。潤んでいる目をさらにまん丸にして、その手を見つめてからゆっくり視線を母さんに向けるリヒトの顔には驚きと困惑の色が窺えた。

「それじゃあリヒトくん。仲直りと改めて挨拶ということで握手しよう」
「……、手、……左手に、変えて欲しい、……です」
「うーん、それはできないかなあ」

右手を伸ばしたままの母さんはやっぱり笑ったままリヒトに言葉を返していた。それに対してリヒトは困惑の色を強め、頑なに右手をマントの下に仕舞い続けている。……今がもしも、俺がリヒトと出会ったときのように夜だったならもしかすると片側のみの真っ黒い手足を隠せただろうが、今は青いマントから何度も顔を覗かせている。あれが目に付かない人はいないだろう。
もちろん、当たり前のように母さんにもそれは見えていて、だからあえて右手を出したに違いない。今まで一切触れていなかったリヒトの地雷を、母さんは一気に踏み越えてきた。さらにはまた一歩リヒトに踏み込もうとしている。……すごい、というか色んな意味で怖い。

「……でっ、でも。おれ、右手、……その、」
「リヒトくんの右手と右足、見て分かるよ。リオルのでしょう?」
「…っ、だから、!」

今すぐにでも逃げ出しそうな勢いで唇を噛みながら何かを堪えているリヒト。もしかすると今、リヒトの中では過去の記憶が巡り巡っているのだろう。刺さるような視線や感情、言葉とか。だからあんな顔してんだ。
でもさあ、リヒト。俺がこれだぜ?母さんは、……俺のもっと上を行く、狂った感覚の持ち主だ。

「だから見せて。……その、可愛すぎる手を!」
「──……は、……えっ!?」

リヒトが声を出したとき、すでに真っ黒い手は母さんに捕まっていた。そりゃもう、すごい速さでマントの下からリヒトの手を引っ張り出すのを見てしまった。それから両手で撫でては「可愛い」の言葉を絶えず漏らしている。……多分。もともと動物が大好きな母さんにとって、リヒトの獣の手足も愛でる対象になっているんだろう。勢いがヤバイ。

「あれっ、リヒトくん耳と尻尾もあるの!?可愛いー!」
「あ、あわわわ……っ!」
「母さん落ち付け。……リヒトも落ち付け」

手をじっくり握られた後はフードも光の速さで後ろに放り投げだされ、青い耳をめちゃくちゃに撫でられるリヒトは何故か顔を真っ赤にしながらしゃがみ込んでしまっている。母さんはというと、興奮気味に「可愛い!」を連呼しながらちゃっかり尻尾も触っているではないか。
それを呆れながら眺める俺の後ろから、ふと、声と一緒にやってくる物体の気配。……分かる……分かるぞ、これはあのブス人形だ!

『ひよりちゃん見て!ワタクシも可愛いですよ!?』
「ややこしくなるからこっちくんなブス」
『失礼な!何処をみても可愛らしいこのワタクシのどこが不細工だと!?』
「全部だ、全部!」

両手で鷲掴みしたブス人形がばたばたと暴れる。キモイ、超キモイ!腕を思いっきり伸ばして出来るだけブス人形と距離を開けるけど振動は手から伝わってくるわけで、とにかく気持ち悪い。
歯を食いしばりながら人形を横目に見ていた時、再び背後から気配を感じる。……もう一体のブス人形かと思ったが、足音が聞こえたのだ。、となると考えられるのはあのでかくて怖え男しかいない。のだが。

「なら、俺様はそっちに行っていいってことだな」
「──……は、」

俺の真後ろで止まった足音に振りかえって、……俺は今度こそ息が止まるかと思った。

風に撫でられて鳴る葉のざわめきすら遠退かせてしまうほどに透き通るような美しい声と、それにひどく似合った浮世離れした立ち姿。銀色の長い髪と短いスカートを揺らし、ゆるやかな弧を描く柔らかそうな唇。
──……後ろにいた彼女は紛れもなく。俺の心を一瞬にして奪っていった、あの、憧れのヒトだった。

「──……アヤト、ずっと、会いたかった」

全身が痺れるような甘い声に眩暈を覚えながらその姿を茫然と見ていれば、俺に向かって一歩大きく踏み込む彼女の白い手がスッと伸びてきたと思えば、細い指が頬に触れて顎近くまで伸びている傷跡をゆっくりなぞる。……ごくり。固唾を飲んで、近すぎる彼女の長い睫毛を見下ろす。曲げた細腰には白い片腕が乗せられていて、上目遣いにきらきら輝く目はただ俺だけを映していた。吸い込まれそうなほどに丸く大きな目が、ふと、細まって、。

「──……まさか、まだ気付いてねえのか?」
「……は、はい……っ!?」

先ほどまでの可愛すぎる小悪魔から一変、悪戯する子供のような笑みを浮かべる彼女に、俺は声がひっくり返った。それにまた笑ってくれる彼女に真っ赤になりつつ目線を下げる。どんな表情をしても可愛いって何なんだ。……いや……可愛い、というか美しいというか……もう何でもいいけど、またキューたんさんに会わせてくれた神様には大感謝だ。今すぐ大感謝祭をやりたい!ありがとう、神様!

『ハッ、実に滑稽ですねえ』
「……ああ?」

右手で握りつぶしていた人形の一言で、急に現実に戻された。ぎろりと睨んでやると、ブス人形は器用にも片腕を顎のあたりに添えながらクスクスと笑い声を押し殺していた。何が可笑しいんだコラ。腕を曲げ、眉間のあたりまでブス人形を近づけて睨んでいれば、その後ろに相変わらず顔が真っ赤なリヒトを懐に入れながら頭を撫でまわしている母さんが視界に入る。
キューたんさんに気を取られ過ぎて母さんもいたことをすっかり忘れていたけれど、……さっきのやりとりを見られていたのかと思うと急に恥ずかしさでいたたまれなくなってきた。

「……あ、あの、母さん、この人は、」
「アヤト、こっち見ろ」
「はえっ!?」

ぐるん。顎を片手で掴まれたと思えば、彼女の顔がすぐ目の前にあり。……ドッ!と勢いよく流れだす血の殆どが上のほうに集まってきた。残りはたぶん手とか足とかに巡っていったのか、手汗を握りながら必死で荒い息を繰り返す。そ、……そんな、いや、まさか……っ!俺まだ、キスとかしたことないんですけど、あの、でも、ファーストキスが彼女なら、……っ!

「キューたん、もうアヤくんのことからかうのやめてあげて」
「──……から、……かう、?」

閉じかけた目を開けて、顔が熱いまま母さんのほうを一度ちらりと見た、そのときだった。
ボンッ!と何かが爆発するような音が耳元で聞こえたのだ。……目の端で白い煙がもくもくと浮かんでは消え、掴まれていた顎に加わる力が変わった。……いや、力だけじゃない。白くて細い小さな手がゴツくてでかい手に変わり……、弧を描いている切れ長の鋭い目が映しているのはこの俺だ。この、俺。

「よお、心の準備は万端か?」

銀色の短髪が揺れ、隠れていた片目がちらりと見える。俺よりもでかい男が腰を曲げながら超至近距離に顔を置き、俺の顎を掴んだままにやにや笑っていた。滑らかな真っ白い肌はどこにもなく、変わりに見えるのは筋肉質な腕。楽園は、……俺の、俺のエデンは、一体どこへ消えたんだ……──?

「テメエはとんだ幸せ者だぜ。なんせファーストキスが、この俺様なんだからなあ?」

持ち上げられた顎と近づく男の顔に、あんなに火照っていた身体が急速に冷め。

「……っざっけんなおえええええっ!!」

勢いよく振りかざした腕が宙を切る。あんな至近距離だったにも関わらず、男は易々と俺の拳を避けたのだ。当たらなかったことに驚いたり悔しがるよりもまず先に、……俺はそのまま地に両手を突いて、謎の恐怖と吐き気を叫びに変えた。鳥肌の立つ全身を擦りながら叫ぶ俺の声に混ざるのはケラケラと楽しげな笑い声が二つ。言わずもがな、ブス人形一体と男の声である。

「こんなの……こんなの、アリかよお……」

──……かくして、俺の今世紀最大の恋は、唐突に終わりを迎えたのであった。




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