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……しまった。また寝落ちしちまった。けど目が覚めたときはベッドの中だし、もしやリヒトが俺を動かしたのか?い、いや、あんな細っこい身体にそんな力があるわけ……いや、あるな。でなきゃあんなキッツイサソリ固めできねーもん。
やはりリヒトは既にベッドにはいなかった。ほんといつ寝てるのかさっぱり分からん。仕方なく俺も起きてベッドから降り、鞄の中から携帯を出す。時間は5:22。そしてふと、そういや最近携帯を見る回数が減ったなあと思った。向こうの世界と変わらずネットには繋げるから、暇さえあれば絶対充電が無くなるまで見ているはずなのだが。

「あ、おはようアヤト」
「はよー」

上を脱いでいる途中、リヒトが部屋に戻ってきた。腕にはおにぎりと木の実とモーモーミルクがある。どうやら朝食を持ってきてくれたようだ。

「アヤトの準備が整い次第家出るよ。朝食は向こうで食べよう」
「おう」

リヒトんちで朝食を取るよか、早めに牧場の近くまで戻ってのんびり食べたほうがいい。既にリヒトは準備万端のようで、いつものマントも羽織っている。俺もとっとと早く準備をせねば。
二階にも洗面所があるのは便利だ。一人、部屋を出て洗面所を借り顔を洗った。タオルで水を拭き取って鏡を見る。……昨晩のことが、全部夢のようだ。夢といっても悪夢の方。いつも通りの朝すぎて逆に怖い。まあ、話を聞いたからどうなるってわけでもないけど、何となく拍子抜けだ。もしやあの話を夜に聞いたのが余計まずかったのか。……あー、もういいや。

「ごめん、待たせた」

いつも使うワックスは付けずに部屋に戻る。しばらく髪もどうでもいいやと思ったからだ。どうせ汗かいて元に戻るし。
荷物を纏め、借りた布団も簡単に畳んで端に置く。それから出来るだけ静かにベッドも折ってクローゼットに仕舞い込み。

「準備はいい?」
「なに、今からお前に乗るの?」
「そうだよ」

肩にバッグをかけた俺の前には、しゃがんでこちらに背を向けるリヒトがいる。いやいや、可笑しいだろ。だってまだ階段も降りてないし外にすら出ていない。しかしながらリヒトは変わらず背を向けたまま立とうとしないし、何やらにやにやと変な顔をしている。
……仕方なく、リヒトに寄り掛かるとすぐに前のめりになり足が浮く。当たり前のように視線も高くなった。

「んで?このまま階段降りるわけ?」
「まさか。そんな面倒なことはしないよ」
「は?」

俺を背負ったままフードを被り、そのまま窓に近づいてゆくリヒト。……嫌な予感がする。

「……お、おい、まさか、」
「だってここ二階だよ?平気だよ」
「いやいやここ二階だぞ!?無理だろ!!嘘だろ、おい!?」

バタバタ暴れるも意味は無く。窓を勢いよく開け放ったリヒトが、大きく開いた片足をサッシに乗せたその瞬間。

「う、うわ、うわああああっ!!」

大きく傾いた身体が、……一気に急降下した。そりゃもう、風が下から上にぶわああー!てなって、内臓はぎゅってなるしワッ!て感じで、……とにかくもう、最悪。最悪の上ってなんだろう。最悪の最悪だ。

その後、俺は気持ち悪さからリヒトに思い切り寄りかかったままずっとうな垂れていた。……ああ、ああ、折角の爽やかな森が無情にも光の速さで通りすぎてゆく。景色でも見ながら優雅に戻りたかったのに。そんな俺を知ってか否か、走りながら楽しげに話すリヒトの声が右から左へと抜けて行っていた。なんだ。もしやコイツ、天然サドか。勘弁しろ。勘弁してくれ。





そして、それは突然やってきた。

俺はへろへろになりながら、リヒトの背から崩れ落ちるように降りた。大木の下に置きっぱなしにしていた寝袋に寝っ転がり、腕を目の上に置きながら呻っていると、……不自然なほど、急に空気が冷えたのだ。もちろんリヒトはその異変に俺より先に気付いていたらしく、俺が起き上ったときには既にフードを深く被って警戒MAX状態になっていた。
体勢を低く構えながらフード越しからでも分かるぐらい青い耳を敏感に動かし、俺の前に立つリヒト。「ただ肌寒くなっただけだし、そんな警戒する必要無いんじゃないか?」そう、言葉に出そうとしていた時だった。

「アヤト下がって!」
「なっ、!?」

突如、森が激しくざわめき突風が巻き上がる。それと同時に空気がキン、と凍えるぐらいに冷え切って、上空から大きすぎる影が落ちてきて森を一気に暗くする。後ろは大木に、前はリヒトに守られながら寒さか恐怖か分からない震えからガチガチ歯を鳴らす。

そして、空を仰ぎ見た。

……俺は夢でも見ているのかと思った。分厚い氷に覆われたアシンメトリーの翼を無限の空に悠々と羽ばたかせ、灰色の巨体から冷気を放つそのポケモン。おどろおどろしい姿に一度身体をぶるりと震わせ、唾を飲み込んではまた口をぽかんと開けて冷気を吸う。
俺と同じく上を見たまま固まっているリヒトが、か細い声を出す。

「ど、どうして、こんなところに……」
「……キュレムがいるんだよ……っ!?」

ああそうだ、紛れも無く、今俺たちの上空にいるのはあの。あの!伝説ポケモンだ。……いや可笑しい。狂ってやがる。ゲームではこんな序盤になんか出てこなかった。しかも聞いてほしい。今、俺の手持ちポケモンはゼロだ。唯一戦えるのはリヒトだけ。しかしリヒトはハーフだし、正直どこまでの力があるのか分からない。
ああ、本当になんて日だ。ここが俺の墓場か。……はは、笑えねえ。

「……おれが、戦う。だからその間にアヤトは早く逃げて」
「んなの、できねえよ……っ!」
「どうしてっ!?」
「…………腰抜けた」
「もー!!」

大木に寄り掛かったままずるずる落ちている俺の腕を引っ張るリヒト越しに、頭上、キュレムがゆっくり降下してくる姿が見えた。んで、このまま俺たちの前に降り立って、そんで氷漬けにしてから食い殺すつもりだ。死んだ。駄目だ。
今にも緊張から泡を吹きそうな勢いの俺だったが、……次の瞬間、今度は一生に一度ぐらいの物凄い驚きでひと泡吹きそうになってしまった。

──……突然、黒い影が無くなったのだ。それから。
キュレムの姿がぽんと消え、かわりに男の姿が空に現れて。

「ひっ、あああああっ!!」

……女性の甲高い悲鳴と共に、俺とリヒトの目の前に軽々と着地する男。
さらりとした灰色の髪に隠れた片目。見たことのないぐらいでかい身長に、ぴったりとした黒い服が筋肉質な身体を浮かびあがらせている。
その腕の中、俺やリヒトと同じように身体を石のように固まらせながら荒く呼吸を繰り返す人。それを面白そうにニヤニヤ眺めている男は、……そうだ、見たことのある奴だ。

──……口を開けたままの俺は、ようやくここで声を出すことができた。いや、出さざるを、得なかった。だって男に軽々と横抱きされている人物は、。

「……母、さん、!?」
「アヤくん、……」

紛れも無く、俺の母親なのだから。




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