12

とても静かな夜だった。外には外灯なんてものは無く、薄暗い照明が部屋を少しばかり照らすぐらいの光しかなかった。リヒトはハーフだから耳も良い。リヒトんちの母さんが寝静まるのを待ってから、暗い部屋でぽつりぽつりと紡がれていくリヒトの話にひたすら耳を傾けていた。

「──……うん、そう。おれ、死にたがりだった」

だって生きている意味が分からなかったんだもの。外にはずっと出られなくて、やっと出れたと思ったらあれだよ。夢見ていた"もしかしたら"、が一瞬にして全部崩れた日だったよ。……きっと、あの日は一生忘れられないんだろうなあ。嫌だなあ。それからも楽しいことなんてひとつも無かったし、寧ろ辛いことしか無かった。死にたくて死にたくて、仕方なかったんだ。

……毛布が擦れる音がした。仰向けになっていた身体を横にして、リヒトが横になっているベッドの方を見ると赤い瞳がちらりと見えた。無言で見つめ、ただ小さく消えそうな声を拾う。

「でももう、今は違う。……死ねない理由が、出来てしまったから。良い方と悪い方、二つあるんだ」

どっちから話したらいいかな。同じく横向きになって俺の方を見るリヒトに「悪い方から」と短く答えた。暗くて表情は窺えないのが余計そうさせるのか、俺の心臓はやけに煩く音を鳴らしている。……どんな現状だって受け止める。出来ることなら打破したいとも思っていた。けれど。

「──……おれさ、毎晩怪我、してるでしょう」
「うん」
「あれね、……実は、研究の実験体になっているんだ」
「──……、は、……?」

息が、詰まった。思わず布団を剥いでベッドに手を突き上半身を持ち上げる。どくどくと血が勢いよく流れているのか熱くなる身体と爆音を鳴らす心臓。暗闇に慣れた目でじっとリヒトを見つめていると、黒でどんどん塗りつぶされて見えなくなってしまう。その度に瞬きをしては、必死に見失わないようにしていた。

「昔。一度だけ街に行ったことがあるって話し、したでしょう。……あのときさ、多分、街の住民の誰かが研究所におれの情報を売ったんだ。……牧場の森の奥深くでうずくまって泣いてたら、あっという間に捕まったよ」
「な、……ど、どういうことだよ!?オーナーさん言ってたぞ、研究員に捕まったら最後だって、!」
「うん。"最後"なんだ。……もう、今も最後だよ」

抑揚の無い声だった。ベッドの端に座って、両手で淵を力強く握る。……次の言葉を聞くことが、こんなにも恐ろしいだなんて。ぶるり、背筋に寒気が走る。

「母さんを、人質に取られてる。研究に協力しないと殺すって言われた。母さんだけじゃない。もしかしたら牧場のみんなもそうなるかも知れない」
「…………、」
「おれが死ぬのは構わない。けど、おれのせいでみんなが死ぬのは絶対に嫌なんだ」

俺は、言葉が出なかった。……あまりにも、リヒトが背負っているものは重すぎる。想像を容易に超えるものだった。こんな展開、絶対漫画でしか有り得ないと思っていた。けれど今、絶対が簡単に砕かれ現実となっている。……一体俺は、どうすればいいんだろう。分からない、……分からないし、漠然とした恐怖に押しつぶされて今にも気が狂いそうだ。

「実験が成功するまではこうしておれを野放しにしていると言っていた。……あいつのやることだ。きっととんでもないことに違いない」

吐き捨てるようにリヒトが言った。開けていた口を閉じ、乾いた喉に無理やり唾を通す。
毎晩リヒトが怪我をしている理由は、……実験台となっていたからだった。しかしリヒトにも詳しいことは分かっておらず、ただ、昔から治癒能力の高い"リオルの部分"のあらゆるところをえぐり取られているらしい。何の研究だか分からない。そこがまた恐ろしさを加速させる。

「もう何年も実験をしているというのにまだ当分成功する気配が無いよ。一体何を考えているのやら」
「でも、もしも、……もしも実験が成功したら、どうなるんだよ……」
「──……処分、かな」
「っリヒトは物じゃない!!」

思い切り振りあげて叩き付けた拳でベッドのスプリングがギシギシ音を鳴らす。それと一緒に身体も揺れて、強く噛んでいた唇が震える。……血の味がした。生きている味だ。鼻を突き、熱くする。やり場のない怒りが、ぐちゃぐちゃな気持ちが嵐のように渦巻いては喉元にどんどん溜まっていた。

「…………ごめん、リヒト。俺、なんも出来ない。……やっぱり、何も、出来ないよ……っ」

乾ききった喉からは絞り出すような声しか出てこない。
覚悟。俺の覚悟とは、一体なんだったのか。俺自身のことでもないのに、今すぐ現実から逃げだしたくて仕方ない。所詮俺は、その程度だということだ。それに加えていくら考えてもしてやれることが何一つ見つからない。やるせない。どうしようもなく、悔しい。

ギシリ。ベッドが鳴る。リヒトが起き上り、足を床へと着けていた。その足で一歩、二歩と俺に近づき、すぐ目の前で止まる。そのまましゃがむと真下を向いたままの俺の顔を覗きこんできた。それから避けるように目をきつく閉じてさらに俯くと、俺の膝の上に両腕とその上に頭を乗せる。青い耳が肘の内側に当たる。

「アヤトって、泣き虫だよね」
「……そうだよ、悪いーかよ」
「うわ、素直なアヤト、なんかヤダ」
「お前、だんだん口悪くなってるよな」
「元からこうだよ」

小さく笑う声を聞き、鼻水を啜りながら目元を乱暴に拭う。……膝が重い。けれども温かく、安心感に包まれる。

「──……大丈夫だよアヤト。おれ、アヤトがいる限り死ねないから」
「……んだよ、それ」
「おれが死ねない、良い方の理由」

柔らかい声色にフッと息を漏らして、上半身をゆっくり折り曲げて膝に寄り掛かっているリヒトに覆いかぶさった。同じシャンプーの匂いが鼻孔を掠め、体温に安堵する。……他人なのに同じ匂いがするって、なんか変だ。今だけ家族になっているって言った方がしっくりくるのかな。

それから。
リヒトも俺も、なぜか動かずしばらくそのままでいた。一定のリズムでゆっくり上下する身体がとても心地良くて、目を閉じて全身の力を抜く。頬に当たっているであろうリヒトの背骨が枕に丁度よく、顔だけ横にすると音が聞こえた。
とくん、とくんと鳴る音。──……その音は、とても、とても愛おしかった。





「また寝ちゃってる……うう、重い」

起こさないよう、できるだけゆっくり動いてその腕から這い出た。今日も相当疲れていたんだろう、既に簡単には起きないぐらいの眠りに入っているらしい。どんな体勢でも寝れる彼に感心しながら、肩に寄り掛からせている身体を傾け抱きあげた。ベッドの真ん中へ静かに降ろして毛布をかけると「うーん……」なんて言いながら寝がえりを打ち、顔の真横で手のひらを合わせながら小さく寝息をたてる彼を見る。……まるで小さな子どもみたいだ。昼間の姿からでは想像もつかない寝顔に、今日も一人でくすりと笑った。

「……母さん、」

アヤトのことも内緒にしておけばよかったと、今になって後悔した。まさかアヤトも巻き込むつもりなのか。……おれはそんな期待されるような息子じゃないのに。おれは"おれ"をちゃんと見てほしいだけなのに。──……でも、いつか、……きっと。

「……おれ、どうすればいいんだろう」

ふと出た言葉に驚いて、暗い部屋で目を見開く。
おれに後ろなんてない。終わりまで、前を向いて進むしかないんだ。分かってる、そんなことは分かってるけど。突然現れた希望の光に、願わずにはいられない。
──……手に手を重ね、俯きゆっくり目を閉じる。


おれは思う。何の根拠もないけれど、君ならなんでもやってのけてしまう気がするんだ。
ねえ、アヤト。
……どうかおれを、救ってみせて。




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