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「アヤトくん、お話、ちょっと付き合ってくれるかな」
「……は、はい」

きた。やはりきた。リヒトが言っていたとおりだ。
目の前の彼女はすでにどっしりと座りながらテーブルに肘を突き、両手で頬を支えている。どうしてこれから逃げられようか。頭の上に乗せていた湿ったタオルを肩にかけ、少しでも時間を稼ぐためゆっくり椅子を引く。

話を少し前に戻そう。リヒトんちの母さんが作った夕飯は、やはりどれもこれも美味かった。遠慮したくても「おかわりもあるよ」なんて言われちゃあ食が進むに決まってる。結局、俺はお腹がぽっこり出るぐらいまで食べてしまった。それから風呂も一番に入れてもらい、次はリヒトが入る番で……で、今に至る。

「その、俺、あんまり話すの得意じゃないんでつまらないと思うんですけど」
「私が勝手に喋るだけだから大丈夫。アヤトくんは何か他のことしててもいいよ」
「……いえ、聞きます。相槌ぐらいなら出来ますし」
「ふふっ、ありがとう」

ご丁寧に、すでに用意されていたカップに手を伸ばす。……いい匂いがする。紅茶だろうか。

「リヒトから聞いたわ、アヤトくんって別の世界から来たんだって」
「……リヒトのお母さんも、信じてくれるんですか」
「ええもちろん。だって、あの子が私に嘘を吐くわけないもの」

即座に言い切る目の前の人に驚いた。ここまで子どもを信用している親がいるのかと、驚きを隠せない。

「ねえ、もしかして、アヤトくんの世界にはリヒトみたいな姿の子が沢山いるのかしら」
「いえ、いません。そもそもポケモンみたいなのもいないし……まあゲームでなら似たようなのはいますけど」

そうなのね。、静かに頷くリヒトんちの母さんを眺めながらカップを置いた。俺にとっては少々居心地の悪い空間の中、唯一この飲み物だけが救いだ。こちらから話題を振るには振れず、次の言葉が出てくるまでの繋ぎとしてカップの取っ手に指先だけ残しておく。

「多分アヤトくんも知っているとは思うけど、リヒトは、……いえ、ハーフはこの世界では忌み嫌われている存在なの」
「……はい」
「でもね、私はリヒトを愛している。誰にどう言われようとも、どんな姿であろうともあの子は私の大切な子よ。こういうの、アヤトくんに話すのも可笑しいけどね」

強い、意志の込められた言葉に息を飲む。「ああ、この人は母親だなあ」なんて当たり前の感想しか浮かばない。

「──……ねえアヤトくん。……リヒト、最近何か危ないことをしていないかしら」

もっと。もっと後の方で聞かれると思っていたが、どうやらリヒトんちの母さんは遠回りするのではなく真っ直ぐに進むタイプの人のようだ。俺はひっそりと唾を飲み込んでから平然を装いつつ「分かりません」と答えた。見定めるようにこちらを見る彼女を前に、目線から逃げるためカップを持ち上げ傾ける。……ほらみろリヒト、やっぱり勘付かれてるじゃん。

「昔は無理やりにでも外には出さなかったんだけど、それがいけなかったのかしら。大きくなってからというもの勝手に窓から抜けだすようになっちゃってね」
「窓から、ですか……はは、」
「ほんと、笑っちゃうわよね。毎晩家から抜け出しているのも知っているの。リヒトには何も言わないけれどね」
「……毎晩、……」
「アヤトくん、──……本当に、知らない?」

……素直に答えるべきか、迷ってしまった。オーナーさんから軽く聞いただけではあったけれどいざこうして面と向かって話すと、リヒトんちの母さんは本当に、母親として心からリヒトを想っているだけなのだ。それが分かるからこそ、言葉に詰まってしまったが。

「……すみません。本当に知らないです」

垂れ下がった長い横髪を片手で掬い耳にかけながら苦笑いを浮かべるリヒトんちの母さんに、心の中で謝った。ちょっぴり罪悪感を抱きつつ、リヒトとの約束を守ったからこれでいいんだと自分自身に言い聞かせる。そもそも俺だってリヒトが毎晩怪我をしているってことしか知らないし。

「……そうね。知り合ったのもついこの間だって言っていたものね。ごめんなさい、しつこく聞いてしまって」
「い、いえ」
「それじゃあアヤトくん、楽しい話をしましょうか」

場を切り替えるように両手をぱちんと軽く合わせて目を細めるリヒトんちの母さんにホッとしながらお茶のおかわりを頂いた。
楽しい話。一体なんだろうと思っていれば、一旦席を立った彼女が持ってきたのは大きいアルバム。ははあ、これはもしや、よくあるアルバムと一緒に昔の話を聞かされるパターンか。まあ、暗い話より全然こっちのほうがいいけどさ

「リヒトには内緒ね。リヒト、多分怒るから」
「分かりました」

楽しげに人差し指を鼻先に当てながらウインクをするリヒトんちの母さん。こういうお茶目なところを見るとやはりリヒトの母親だなあと改めて思ったりなんだり。
それからリヒトが風呂からあがってくるまで、色々な話を写真と共に聞いていた。……もしも向こうの世界の俺だったなら、そんなのどうでもいいから早く話しを終わらせてくれって思っていたに違いない。けれどもリヒトのことを知りたいと思った今、こうして少しでも"楽しい"と感じながら話を聞けているってことは、……少しずつ、俺は変わってきているのかも知れない。

「──……私もね、すごく、すごく悩んだの」

全部のページを見終えたあと、再び最初のページを開いたリヒトんちの母さんが、ある一枚の写真に指先を添えながらポツリポツリと話しだす。……写真は、白い布で包まれた生まれたてのリヒトを抱きながら囲んで幸せそうに笑っている若かりし頃のリヒトんちの母さんとその父親。その真ん中、黒い手と白い小さな手をぎゅっと握って、しわくちゃのひどい顔で泣き叫んでいる赤子は、この時からすでに二人に愛されていたのだ。

「リヒトブリック。別の地方では"希望の光"という意味を持っているんですって。──……私は、リヒトがいつかこの地に生きるハーフたちにとって希望の光になってくれたらいいなって思っているの」
「希望の、光……?」
「どのハーフよりも限りなく人間に近いハーフのリヒトなら、きっとそうなってくれるはず。……いいえ、なるのよ。なって、この世界を変えるの。……ハーフを無慈悲に扱う、この醜い世界を」
「──……、」

きっと普通ならば、幸せな写真を眺めて幸せな話を聞いて、俺も幸せな気分になるんだったんだろうけど。……俺はこのとき、何故かうっすらと──……この母親に、恐怖を抱いてしまった。
恐怖と言っていいのか分からないが、とにかくマイナスな何かを感じてしまったのだ。自分の息子に陶酔しているとしても理解はできないが、これはもっとその上。
──……信仰。
それに近い何かを感じてしまって、急に冷えてゆく身体を抑えるよう、ひっそりと自身の両腕を絡ませ抱きしめた。

「ッ母さん!」
「わ、ばれちゃった」

光の速さで走ってきたリヒトは凄まじい勢いでアルバムを取りあげてその背に隠す。有難いことに間にリヒトが入ってくれたおかげで俺はハッとして、気付かれる前に自然に戻ることが出来た。……そう、装うことが出来ていたと思いたい。

「母さん、もう話は十分でしょう。ごめんアヤト、遅くなった」
「あ、ああ……」

やっと解放される。ホッと息を吐きながら椅子から立ち上がろうとした瞬間、テーブルに突いていた手を向こう側から掴まれてはクイッと軽く引っ張られた。驚いて顔を上げると、悪戯な笑みを浮かべるリヒトんちの母さんが俺の服の裾を摘み直してリヒトを見ている。

「えー、母さん、まだアヤトくんとお話したいなー。アヤトくんもそうでしょう?ほら、まだアルバムも残ってるのよ」
「え、い、いやー、そのー、」
「アヤトくんのお話も聞きたいなー」
「え、えーーっと、」

……困った。はっきり「いやもう結構です見たくないですし話すことなんて何も無いです」って言えたならどんなに良かったものか。流石に今日会った人、さらに異性になんかそんなこと言えっこない。
あー、だの、うー、だの唸りながらなんと言って断ろうか悩んでいれば、ふと、リヒトがリヒトんちの母さんの手首と俺の腕を掴んで引っ張り、ぷつりと間に隙間を作った。
瞬間、俺を背に追いやってから母親と向き合って、強くこう、言い放つ。

「アヤトはおれのだ。……母さんたちには、絶対に手出しさせない」

きつく握りしめられた腕と、リヒトの後ろ姿越しに驚いたように目を丸くしている彼女を見た。耳にうっすらと残った低く呻るような声が消える前に、リヒトに腕を引かれて扉に向かって速足で歩きだす。俺は何が何だか分からなくて、でもなんとなく後ろを振り返ってリヒトんちの母さんに視線を向けると、ひらりと手を小さく振られた。顔は、笑っている。

「アヤトくん。リヒトと出会ってくれて、本当にありがとう」

……リヒトによって扉が閉められる前に彼女に言われたその言葉が、どうも引っかかって仕方ない。




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