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「いらっしゃい、はじめまして。リヒトの母です。えっと、アヤトくん、だよね?」
「あっ、はっ、はい!い、いつもリヒトにはお世話になっていて、」
「こちらこそ、いつもリヒトと遊んでくれてありがとう。アヤトくんずっと野宿していたんでしょう?今日はゆっくり休んでいってね」
「あっ、あ、ありがとうございますっ!」

水色のゆるくウェーブがかった長い髪とフリルのついたエプロンを揺らして、再びキッチンへ戻って行くリヒトんちの母さん。外見はゲームで見たことのあるエリートトレーナーが髪を下ろしているような感じでほぼ一緒なのだが。……正直に言おう。超可愛い。これでもう少し若かったら危うく惚れてしまっていたであろうぐらい可愛らしい外見の母親で、俺は心底驚いている。母親があれだもの、リヒトの容姿にも充分納得がいく。

「おれの部屋は二階なんだ」

一階を軽く案内してもらいつつリヒトと一緒に一度リビングを抜けて階段を上っていれば、こっちまで美味しそうな匂いが漂ってきていて思わず涎が出てきてしまう。
階段を上り終え、先に部屋の扉を空けたまま押さえているリヒトをゆっくり通り過ぎて中へと入る。

「ここがおれの部屋」
「広っ!ていうかさっきリヒト二階にもお風呂あるって言ってた!?」
「うん。二階はシャワールームだけだけど。あ、そっちがトイレ」

扉を閉めるリヒトを背後に部屋をぐるりと見まわした。白いと一面だけ青い壁紙の部屋で、どうやら家具も青と白で統一されているようだ。ベッド、テーブル、本棚、……贅沢にも大きなテレビまである。

「アヤト、今晩寝るところなんだけど、」
「リヒトと一緒でいいよ。この部屋ならベッド2台……いや3台は余裕だな」
「客室もあるよ?」
「ここでいいってば。なんだよ、俺がこの部屋にいちゃマズイことでもあんのかよ?」
「べ、別にそんなことないけど」
「ふうん……」

ニヤニヤする俺から逃げるように、部屋の奥の方にある大きなクローゼットらしきところまで歩いてゆくリヒトを眺めながら、俺はゆっくりベッドの近くに腰を下ろした。客室まであるとかどこの坊ちゃんだってーの。
まあそれは置いておいて、さてお楽しみの時間だ。リヒトが俺に背を向けているのを少しだけ確認してから、ベッドの下に手を突っ込む。左右に大きく振ってから何にも当たらないことに余計わくわくしつつ、ベッド下の暗がりへ静かに上半身を潜り込ませた。
リヒトだって男だ。……エロ本の一冊ぐらい隠しているだろう。いや、隠していないほうがおかしい。ポケモン世界のものはどんななのか、一度拝見しなければな。そう、これも勉強の一つだ。そうだろう。そうだぞ、うんうん。

「アヤト、何やってるの?一人かくれんぼ?」
「……みーっけた!」
「え?」

ガラガラという音と一緒に俺に近づいてくるリヒトを他所に、ベッド下の手の届かないような一番奥ーのところで発見した一冊の本をしっかり握って這い出ながら、思わず滲むにやにやをだんだんと露わにしつつ体勢を戻してから、ようやっと明るいところで本の表紙を見る。……毒々しい色合いをした、

「……毒、と薬の……」
「わ、わー!」

タイトルを読み終える前に上からリヒトに本を抜き取られ、背後に隠されてしまった。……何だか訳が分からなくて数秒固まって瞬きをしてから、「今のは見なかったことにして!」なんて慌てて言うリヒトの足を片手で一発叩いて八つ当たりをする。

「なんっっでエロ本じゃないんだよ!?期待して損したわ!」
「え、?……えっ、そ、そんなの持ってない!」

一瞬耳までびゃっ!と飛び上がらせた後、顔をだんだんと赤く染めながら一歩ずつゆっくり後ろに下がるリヒトを見る。熱を冷ますようにひたすらに首を小刻みに左右に振りながら俺を見ているが、一向に顔は元の色に戻らない。……もしやこの手の話題は苦手なのか。なんと男子中学生らしからぬ。っていう以前に、そういやリヒトはハーフだった。色んなことに対して、どこまでの知識を得ているんだろう。
居た堪れなさそうに座っているリヒトの横、俺は立ち上がって本棚の前に立つ。国語、数学、地理……色んなサイズの本があると思えば、どれもこれも教科書ばかり。なんか、つまんねー。

「……お、おれ、家族以外の人と話したことが無かったし外にも全然出られなかったけど、母さんが沢山教科書を買ってくれたから、一般知識程度なら分かる、はず」
「奥のやつも教科書じゃん。なあ、リヒトって漫画持ってねえの?」
「漫画、」

知ってるけど読んだことがないんだ。それ、面白い?……なんて、真顔で聞いてくるリヒトに愕然とした。今まで俺という生き物は漫画とゲームで生きていた。そんな俺の目の前に、その素晴らしい物を知らないという生き物が現れたのだ。こうしちゃいられねえ!
本棚の前から転がるようにリヒトのところまで戻って、バッグを勢いよく開ける。それから両手を突っ込んで、漫画を三冊、紺青色のカーペットの上に叩き置いた。俺イチオシのヒーローものの漫画である。

「これが漫画だ。超面白いから絶対リヒトもハマるぜ」
「へえ……漫画って、本当に絵ばっかりなんだね」
「読んでていいよ。なあ、これ折り畳み式のベッド?これ借りていいのか?」
「うん。敷布団とかもクローゼットに入ってる」
「分かった」

ゆっくり漫画を手にとって興味津々に眺めるリヒトに嬉しくなりながら、持ってきてもらったベッドのメイキングへと入る。一人で骨組みを広げてから布団をのそのそと運んで、あっという間に完了だ。ついでに枕もクローゼットの中に発見したから有難く借りることにする。しかしながら、どうして寝床一式分がリヒトの部屋にあったのか不思議だ。

「なあ、いつもお前の部屋にこれ仕舞ってるの?」
「そう。……たまにね、母さんがおれの部屋に泊まりにくるんだ」
「お前を見張りに?」
「うん。それでもそっと抜け出してるけど」

リヒトが苦笑いをしながら、しかしすぐにまた漫画を読み進める。仕方なく、俺は作ったベッドに寝っ転がってぼーっとしたりリヒトを眺めたりしていた。
あれは俺も何度も読んだ漫画だ。向こうの世界ではアニメ化されるほどの人気作品でもあった。読んでいるリヒトも楽しげで、時折尻尾が左右に揺れたり耳が水平に垂れたりしている。完全に感情移入している。面白い。そう思いながら寝がえりを打ち、腕はベッド端から垂れ下ろして仰向けになった。……そのとき。ふと、指先に当たるものが気になって拾い上げてみれば、リヒトがベッド下に隠していた例の本。

「……」

リヒトは漫画に夢中だ。そっと本を持ち上げて、表紙を今一度よく見てみる。……本のタイトルは「毒と薬の全て」。雑誌ぐらいの大きさだけど明らかに分厚い。どうしてこんなのをわざわざ隠していたのか。気になって、駄目なことだと心の隅っこで理解はしながら身体を横にしてリヒトから本が見えなくなるような体勢でページを静かにめくった。

「(毒の調合法に原材料集、……解毒薬の作り方、)」

見慣れない単語と頭が痛くなるような数字が並ぶ。どのページをめくってみてもそんなのばっかりだし、毒々しい色ばかりでこっちまで気分が悪くなる。十ページも見ないうちに閉じようとしたとき。どこかに付箋のようなものが見えたが、わざわざ見ることも無いだろうと思ってそのまま閉じた。……静かに本を元の場所に戻して床を眺める。ただの興味だけならいいんだけど、リヒトの場合は毎晩のことがある。もしもそのためにこれを読んでいるとしたら……──。

「リヒトー、アヤトくんー、ご飯よー!」
「っ!」

突然、部屋の扉が勢いよく開いた。犯人は、言わずもがなリヒトんちの母さんである。

「び、びっくりした……。母さんノックぐらいしてよ!」
「ごめんなさい。さ、二人ともご飯だから降りてきてね」
「は、はい!」

次第に閉まるドアの向こう、見えなくなる水色と小さくなってゆく足音を聞きながらひと息吐く。リヒト同様、俺もびっくりして咄嗟に上半身だけ飛び上がってしまっていたのだ。そのついで、そのままベッドから降りて背伸びをする。リヒトはと言えば、名残惜しそうにページを閉じるその瞬間まで漫画から目を離そうとはしなかった。それどころか次の巻に手を伸ばそうとしているではないか。気持ちは分かるが、俺はとっとと飯を食いたい。

「ほら、行くぞ」
「あー、いいとこだったのに……」
「漫画は逃げたりしないよ」

少々ご機嫌斜めなリヒトの腕を引っ張って、足早に部屋を出た。それと同時に香る夕飯の匂い。これまたタイミングよく俺の腹の虫が鳴き、リヒトが俺の顔を見る。そうして目をぱちくりさせた後、面白そうに小さく笑ってみせた。いつまでも笑っているもんだから、階段を下りてゆくリヒトの背を不満を込めながら軽く叩くと何故かまた笑われる始末。……それでもなんか楽しくて。リヒトんちに来てよかったと素直に思った。




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