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いや、言うほどそんな複雑な道じゃねえだろ。そう思っていたときもあった。……がリヒトの家まで行く道は、文字通り本当に複雑だった。地図があったとしても一人で家まで辿り着く自信が無い。というのも、どこもかしこも目に入るのは背の高い木ばっかりでいくら歩いても全部が同じ景色に見えるのだ。それに夜というのもあって、リヒトが持っているランプの明かりで照らされているところ以外はほぼ黒。真っ黒。こんなの分かるわけがない。……ていうかさあ、

「お前んち、まだ着かねえのお……?」
「うん。疲れた?」

歩きながら振り返って小首を傾げるリヒトを苦い顔をして見る。疲れた?って、もうかれこれ三十分ぐらい歩いてるんだけど。一体こいつの家は何処まで遠いんだ。俺が野宿しているところの川の向こう側にあるって前言ってたけど、それにしちゃ遠すぎやしないか?

昼間は牧場を駆け巡り、夜は暗い森の中をひたすら歩く……。正直、リヒトの家に着く前に眠気と疲れに負けてここら辺で今にもぶっ倒れ寝そうな勢いだ。前のめり気味に足を引き摺るように歩きながらリヒトに向かってゆっくり頷くと、リヒトの足が止まる。それと一緒に明かりが下のほうに移動して、足元の草をより一層照らし始めた。

「乗って」
「……は?」
「アヤトをおぶっておれが走ったほうが、多分着くのが早いから」

裾の長いマントを草の上に広げ、俺に背を向けるリヒトに一歩後ずさる。この歳にもなって、疲れたからおぶってもらう?それによりにもよって、俺より細いリヒトにだ。……いやいや、無いわ。

「アヤト、知ってる?リオルって、三つの山と二つの谷を一晩で越えることができるんだ。それに一晩中走り続けられるって、ポケモン図鑑には書いてあるんだって」
「…………」

にこり。座って俺に背を向けたまま小さく振り返ったリヒトが、笑みを浮かべる。リヒトの言葉がどういう意味なのか、分からないほど馬鹿じゃない。行き場を無くして喉で閊えたままだった、反論しようと自然と吸って溜めた息をゆっくり吐き出し吐息に変える。
そうしてリヒトの肩を左右でしっかり握ってからぎこちなく足を開くと腕がぐるりと膝を抱えて、すぐにバランスを崩された。視界が少しばかり高くなり、ドッと疲れが一気につま先に移動したような感覚になる。

「お前ほんっと細いよなー。途中で骨折すんなよ?」
「するもんか。おれ、絶対アヤトより骨強いし筋肉ある自信あるし」
「あっそ。じゃあ頑張れー。あー楽ちん楽ちん」

もういい。こうなったらリヒトが骨折しても絶対降りてやらない。這ってでも俺を乗せて家まで歩かせてやる。
肩を掴んでいた手を離し、今度は腕をその上に乗せてリヒトの顔の真横左右で腕をブラブラして見せていた時だ。途端、前方から風がグッ!と押し寄せてきて俺の身体を押し倒す。驚きながらも反射的に手近にあったリヒトの肩を思い切り掴んで身を寄せると、クスクスと笑い声が聞こえた。爆音を鳴らす心臓の音と、風を切る音が混ざっている。飛ぶように過ぎ去る暗い森に、リヒトの腰にぶら下げられているであろう明かりが消えたランプがガッシャガッシャと今にも壊れんばかりの悲鳴をあげていた。……どう考えてもわざとやっている。クソだな。クソ野郎だ。





「アヤト、大丈夫?」
「超元気」
「そ?にしては、覚束無い足取りだね」
「そりゃお前の目が変なんだよ」

吹き出して笑うリヒトを無視して、くらくらする頭を片手で叩く。軽くジェットコースターにでも乗っていたような気分だ。それもなんか変な揺れ方をする最悪な絶叫マシーン。おかげで少し苦手だった絶叫系にも、これで乗れるようになったことだろう。

──……暗い森のどこか。ぽつんと一つだけ、大きなログハウスが佇んでいた。大きいだけじゃなくて、何となくお洒落な雰囲気の漂う家だ。日本式の家に見慣れてしまっているから余計そう感じているんだろう。
高床式の家の扉まで伸びる階段の横にはこれまた木で作られた白い手すりが付いていて、まるでどっかのお城の階段みたいだ。先を上るリヒトの後ろ、俺はちょっとドキドキしながら足を運んでいた。上り終え、リヒトが扉の取っ手を握る。……その少し前。

「アヤト、約束してほしいことがあるんだ」
「今?なんだよ」
「多分、母さんすっごくアヤトに話しかけてくると思うんだけど、」
「うわマジか」
「話を全部、母さんに合わせて欲しいんだ」
「──……やっぱりお前、」

母親に、隠していることがあるんだな。
ならどうして、今日俺をここに連れてきたのか。疑問を抱きながら静かに見ている俺の手前、真っ直ぐに俺の視線を受け止めていたリヒトの目線がゆっくり下がり、長い睫毛が下を向く。流れるような動作から、再び瞼が上がったとき。……深紅の瞳と深青の瞳が冷静に、内に秘める炎を見せつけるように俺を見る。不意にどきりと飛び上がる心臓を押さえながら唾を飲み込み視線を逸らさないでいれば、目の前に腕が伸びてきて、力強く小指のみが立てられた手が現れた。

「今日。……全部、話す」
「……」
「だから、……お願い」

随分と、決意が込められているような表情で。
リヒトの手の横、ゆっくり片手を差し出して、小指を絡ませる。もう片方は、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。ふと、指先に触れた何かに意識を飛ばす。多分、この前やった中間テストの個人点数表だ。小さく細長い紙に書かれている自分の点数をぼんやり思いだしてから、乱暴に握りしめてポケットの中で屑にした。

「話、合わせればいいんだろ。お前が毎晩怪我をしてるってことも絶対言わない」

いつもならどちらと言わずリヒトが歌を歌うのに、今日は無言のまま、手も揺らさずにお互い小指をきつく絡ませただけ。しばらくそのままでいたが、いやいつまでこれやってんだって話だ。俺から離すと名残惜しそうにリヒトも手を引っ込めた。それから俺の後ろを回って扉の前に立ち、取っ手を掴む姿を見る。

「お前ってほんと指切り好きだよな。なんで?」
「へへ、秘密」
「ふうん。ま、別にどうでもいいけどさ」

扉が開いて、眩しいぐらいの明かりに一気に包まれる。「ただいま」、「おかえりなさい」。大きめに発せられたリヒトの声に、すぐさま返答が返ってきた。それと一緒に急ぎ気味の足音がこちらに向かって近づいてくる。
フードを後ろに放り投げてからマントを脱いで腕にかける姿を後ろでぼんやり見ていると、俺の視線に気づいたであろうリヒトがひどくやんわりとした笑顔を浮かべてから、鼻先に人差し指を当てて見せる。それに一度だけ頷いてから、すぐにやってくるであろうリヒトの母親を今か今かと待っていた。




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