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牧場を駆けまり、駆けまわっては駆けまわった。そうして気付いたらまた日は暮れていて。"今日も野宿かね"、またしても会ったハーデリアおじさんにそう聞かれて弱弱しく頷く。そしてまた、苦笑しながら俺と別れてメリープたちを探しに行く姿を見送る。
……おかしい。リオルってこんなにいないものだったっけ。というか本当にこの牧場にいるのかすら思わず怪しまざるを得なくなるぐらいに見かけない。
「あー……もういいや……ほんと、もうリオルいらねえ……こんなん俺が疲れるだけじゃん……」
よろめきながら森の中を歩いて、ようやく寝床まで辿り着く。寝袋はそのまま大木の下に置きっぱなしにしてあり、そこに倒れるように寝そべった。ひんやり冷たくて気持ちのいい寝袋の上、安堵と疲労の混ざったため息を大きく漏らす。……リヒトはまだ、来ていない。腹が減りすぎて謎の満腹になってるのをいいことに、俺はゆっくり目を閉じた。
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──……パチパチ。何かが燃える音がして、うっすらと目を開ける。夢を見たが、なぜ今あんな何でもない場面の夢を見たのか分からない。
……暗い。頭はぼんやりしたままなのに、手が勝手に動いてバッグを倒してから中を漁って見事携帯を探し当てる。ボタンを押して、人工的な光に顔を歪ませながら画面を見た。……2:14って。深夜かよ。携帯の画面を暗くして、寝袋の中で目を開けたり閉じたりを繰り返す。眠い、ような眠くないような。
そうしてやっとまた目を開けて、仄明るいほうに顔を向けると黒く伸びる影がゆらゆらと揺れていた。……青い、背中がそこにある。きっとその向こう側に焚き火があるに違いない。
「……リヒト。いつ来たんだよ」
寝袋から這い出て、目を擦りながら丸まった背中に声をかけるも返答は無い。なんだ、座ったまま寝てるのか?リヒトならそれもありえそうだな。なんて、暢気に考えながら近づいた時。──……つい最近、嗅いだばかりのむせ返りそうな嫌な臭いが、鼻孔を掠める。
一度、ぴたりと足を止めてからリヒトの横に散らばっている物を見た。乱暴に転がされた傷薬と白い包帯。それから、……赤く染まった脱脂綿が多数。
「……お、おい……、リヒト……?」
ゆっくり手を伸ばして、その肩に触れた瞬間。
身体が急激に引っ張られて、一瞬方向感覚がなくなり。……気付いたら、背中から思いっきり地面に叩きつけられていて、俺の上にフーッフーッと威嚇するように息を荒くしたリヒトが馬乗りになっていた。鈍い痛みが頭からじわじわ広がるのを感じながら、きつく細められている燃え上がるような真っ赤な瞳を見つめる。
ぼたり。突きつけられていた獣の爪先から、血が一滴、俺の喉元に滴り落ちる。
「……リ、リヒ、」
「──……っ!」
ハッと、俺の顔を見るなりリヒトが上から飛び退けた。それから随分と距離を開けると深く被ったフードごと纏めて抱え込み、これでもかというほど小さく蹲る。
俺はというと。たった今、俺はリヒトに殺されかけた。だから真っ先に恐怖が来てもいいはずなのに、いつまで経ってもやってこない。驚きの方が勝っているのかなんなのか。リヒトがこちらに背中を向けて丸まっている間に、ゆっくり立ち上がって近づく。
「、リヒト」
「ごめん、アヤト……っ!おれ、間違えて、こんな、ごめ、!」
「おい、リヒト!」
「!」
俯いていたリヒトの前に立って人差し指で頭をつつくと、今度は思い切り顔を上げてから飛ぶように立ち上がり、反対側へと後ずさる。獣の手をマントで隠し、俺を見ながら左右にイヤイヤと顔を振っていた。そこからまたゆっくりと、さらに俺との距離を開けてゆく。
「ご、ごめん、おれ、いま、……ちょっと、耳が、聞こえなくなってる、から。アヤトが何、言ってるのか分からなくて、……今日の、夜って、指きりしたのに……っごめん、おれ、っ!」
言葉の途中で背を向け、逃げ出そうとするリヒト。ひらりとなびくそのマントを、咄嗟に思いっきり掴んだ。それでも逃げようとするリヒトを力づくで焚き火の前まで引っ張って行き、両肩を思い切り押して無理やり草の上に座らせる。……が、リヒトは這ってでもこの場を離れようとしていたようだ。足首を掴まれても尚、身体を捻じる。
どうにかして動きを止めることはできないか。考え、ふと昼間のことを思い出した。……ぷにぷに。少しの希望を混ぜながら、繰り返し肉球を押して様子を窺う。するとリヒトが驚いたように俺を見てから、くすぐったいのを我慢しているのも相まっているようで変な顔をする。
「……」
また逃げ出そうとしないか様子を伺いながら、へたくそな巻き方の包帯を解き始める。以前と同じく、怪我をしているのはリオルの方の手足だけだが、傷口の場所は同じではない。ということはリヒト自身が引っ掻いて傷を広げたわけではなく、また新たに怪我をしたということだ。
押し当てられていたガーゼの端を、指で掴む。最初にリヒトが怪我をしているときよりも冷静でいる分、緊張が走った。唾を飲み込んで、唇を噛む。この下は、どんな風になってしまっているのか。小さく震え始めた手を動かして、めくりあげる。
「リ、リヒト、……これ、」
「いいよアヤト、放っておいて。大丈夫、明日には治るから」
リヒトがこちらを見ないことをいいことに、片手で鼻と口元を覆った。血の臭いが嫌なのは当たり前、前回よりも傷口の見た目が想像以上にえぐかった。一度ガーゼを戻して、横を向いてから胸元をさする。
「ほ、本当だよ。リオルの方の手足ならすぐ治るんだ。だから大丈夫。……大丈夫、だから」
──……本当に、何も聞こえていないらしい。俺が小さくえずいているのにも気づいてない。大きく息を吸って、ゆっくり吐いて。どうした俺よ。血なんてゲームやアニメで見飽きるほど見ているだろうが。……ゲームと現実がこんなにも違うなんて。頭を振って、両頬を自分で挟み叩いた。包帯を解いたのは俺だ。俺がまた手当しなくちゃ。
気を取り直してリヒトの横に座って、腕をそっと手で持って浮かせた。生々しい傷口はできるだけ見ないように、けれど丁寧に薬を吹きかけてからガーゼを押しあてて包帯を巻く。……随分と時間がかかってしまった。
「……、」
額に残る冷や汗を指で拭ってから、立ち上がってバッグを持ってくる。チャックを開けて手を突っ込み、昼間に見つけた木の実を取り出す。片手に木の実を携えて、後ろからリヒトの目の前に差し出すと、やっと振り返って俺と木の実を交互に見る。ハーデリアおじさんが、"そこに生っているのはうまいぞ"って言ってたから、多分美味いと思うが。
「……これ、おれにくれるの?アヤトのぶん、ある?」
一度口を開けてから、そうだ聞こえないんだったことを思い出して一度こくりと頷いた。リヒトは少しだけ俺を見てから、小さく一口木の実をかじる。ゆっくり噛んで、飲み込んで。膝を抱えながら両手で木の実を持ちながら頬張る。
そんななんてことのない姿を。……何故か見ていられなくなってしまった。
立ち上がり、深くフードを被っているリヒトの頭に手を乗せて、少しだけ撫でてから通りすぎる。そのすぐ後に布が擦れる音がした。視線を感じても俺は振り返らないで、広げっぱなしの寝袋を手に取りリヒトの後ろまで引き摺ってきて。そうしてやっと、また隣に座る。
「……あ、ごめん……。アヤト、寝るんだよね。食べたらすぐ帰るよ」
しゃくしゃくと食べる速度が若干早くなる。その間俺はずっと焚き火の真ん中を見ていた。ときどき、既に用意されていた木の枝をくべながら木の実が砕ける音を聞く。
「ごちそうさまでした。ありがとう、アヤト。──……それじゃ、」
「……待て」
食べ終わるや否や、すぐに立ち上がるリヒトのマントの裾を掴んだ。それから片手で手のひらを下にしたまま"座れ"の合図に指先を軽く上下に動かす。小首を傾げながらも素直に従ってしゃがむリヒトを目を合わせ、次に顎で寝袋を指した。
「なに?」
「お ま え に、貸 す」
ゆっくり口パクでそう言えば、うまく伝わったようでリヒトが目を丸くしながらぶんぶんと首を左右に振った。「いいよ!おれ帰るから!」って慌てて言うのも無視して、ジッパーを下まで降ろして押し入れる。逃げられる前に素早くジッパーを上まであげると、みのむし状態で上半身だけ上げているリヒトが戸惑うように俺を見ていた。
「あ、あの、アヤト……?」
「……お前、なんで……」
「アヤトの寝るところ、なくなっちゃうよ?」
「……うっせ。早く寝ろ」
フードを掴んでリヒトの顔を隠すように思い切り下げてから、背を向けて焚き火の前に座り直す。それからしばらく、後ろから俺の名前を呼ぶ声が聞こえていたものの、全て無視していると静かになった。同時に何かが身体を通り抜けるような感覚がしてゆっくり後ろを振り返ると、思い切り唇を噛みながら俺を見ているリヒトがいた。
「──ありがとうアヤト、……ほんとうに、ありがとう、……」
言葉の途中、顔を元に戻して焚き火を見る。そうすれば後ろでごそごそという音と鼻を啜る音がして、少ししてから寝息に変わった。ここでやっと、俺も謎の緊張が解けて大きく息を吐き出した。枝を火にくべ、考える。
……リヒトには、何かある。
引き続いての流血するほどの怪我。それにあの怯え方や威嚇は、まさに野生の動物のようだった。偶然怪我が続いただけか?いいや、そんなことありえない。だとすれば故意のもの。手当のときにひっそり見た、リオル側の手足に隠されていた無数の傷跡は、全部似たようなものだった。俺と知り合う前からこんな怪我を繰り返しているんだろう。そうでなければ、自分自身のことであったとしても怪我がすぐ治ることまでは分からない。
「なんなんだよ……、本当に……もう、」
少し。後ろを振り返ると、リヒトは幸せそうに笑みを浮かべながら胎児のように丸くなって眠っていた。……それを見て、俺は膝を抱えて顔を埋める。
やっぱり、なぜか見ていられなくて。……つい、泣きそうになってしまった。