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遠く、懐かしい景色が見えてきた。それを見てから、潮風を全身に受けながら船が通り過ぎたあとの白波に視線を落とす。
季節はもう少しで春らしいが、まだ風は肌寒く感じるし潮風となればどことなく余計寒く思う。首に巻いたマフラーに口元を埋めたまま海を眺めていると、ふと背後に気配を感じた。少し振り返ってみてから何も言わずにすぐまた視線を海に戻すと、腰回りに纏わりつくそれ。
「あったかい?」
「多少な。どうしたんだよ、そのもっこもこの服は」
「かわいいでしょお。詩ちゃんと祈ちゃんが選んでくれたんだあ」
「可愛いけど、それ女物じゃないか?」
「似合ってるならなんでもいいと思わない?」
「……それもそうだ」
もこもこしたピンク色のあったかそうな服に大きな猫耳がついているフードを深く被っているエネは、傍から見たら完全に女の子だろう。白く細い足は相変わらず寒そうだが、まあ上だけでもいつもよりかはあったかそうだからいいと思う。それにエネの言う通り、認めたくはないがめちゃくちゃ可愛いからそのままにしておこう。
「シュヴェルツェくんとシュリくんはお留守番なのお?」
「ああ。同じ顔がいくつもあったらハーくん先輩たちが混乱しちゃうだろ?説得するのに時間かかっちゃったけど、チョコあげたら二人とも大人しくなったんだぜ。リヒトも好きって言ってたし、ルカリオってチョコ好きなのかな」
「ふふ、そうかもしれないねえ。ぼくも甘いの好きだよお」
「俺も好き」
抱き着いたままいつの間にか手すりと俺の間に回り入ってきたエネを抱きしめ返すと、一度顔をあげて俺を見上げてから唇をキュッとさせてまた顔を埋める。いつもなら「やーん、アヤトくんから抱きしめてくれるなんて嬉しいなあ」とか語尾にハートを付けながら言うのだが、いや今のは完全に、その、……。
「もしかして今、照れた?」
「……だ、だってアヤトくん、前より背も伸びてるし、男の子から男になってるなあっていうか、……なんだかさらにかっこよくみえちゃってえ……」
「えー、エネから言われても嬉しくないんだけど」
「えーん、ひどいよお!そんなこと言うとお……今夜は寝かせないぞ」
「おいやめろバカ猫」
慌てて口を塞ぐとなぜかうっとりしてるしもう本当にどうしようもない。とりあえず腹あたりに張り付いているエネは放っておいて、他愛もない話をしながらまた手すりに腕を置いて寄り掛かりながら海を見ていると。
……また背後から気配を感じる。この特徴的な歩き方は、ひとりしかいない。波を見たままでいると後ろからするりと腕が回ってきて、エネともども抱きしめる。
「あったかいでしょ」
「あったかあい」
「あったかいけど、男にこんなことされても嬉しくなーい」
口先を尖らせながら視線を少し後ろに向けると、青い髪がちらりと見えた。言わずもがな、リヒトである。後頭部が重いから、俺より背があるのをいいことに俺の頭を顔置き場にしているに違いない。足元まで隠れる裾の長いマントは、前よりも生地が厚く冬仕様になっているようだ。エネと同じくフードを深く被り、長い耳も横になっている。
「おれ、船に乗るの初めてなんだ。初めて見るものばっかりで、なんだかわくわくするね」
「ぼくもだよお。アヤトくんやみんなも一緒だし、さらに楽しいよねえ」
「うん、楽しい!」
「楽しいなら何よりだ」
ぶんぶん聞こえるのはリヒトの尻尾が左右に揺れてる音だろう。前と比べてずいぶん穏やかな気持ちで船に乗れている今、ハーくん先輩とハーさんの姿を思い浮かべる。……どんな顔をするだろうか。会うのが楽しみのような少し怖いような、はっきりとしない気持ちだ。
「──……あ、もうすぐみたいだねえ」
下船案内の放送が、簡単な音楽と一緒に船内に流れる。それに合わせて3人離れ、のろのろと並んで船の中へ戻り出す。乗客はいっぱいいるし、急ぎでもない。また他愛もない話をしながら最後に下船する気持ちでのんびり部屋へ向かった。
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リヒトのボールは持っている。が、リヒトは何度やってもボールに入れることはできなかった。人間に投げつけても入らないのと同じく、ポケモン"のみ"収容できるこのボールはハーフを受け入れることはないらしい。一瞬、あの研究者がハーフ用のボールとか作ってなかったか考えてしまったが、そもそもそんな便利なものがあればわざわざ俺を連行するのに首輪をくっつけて引きずることもなかっただろう。
「どうだよ?久々のサンギ牧場は」
「……緊張する」
フードをより深く被って下を向きながら歩いているリヒトを見て、背中を一度強く叩くと、前のめりになってからぎこちなく表情を崩してみせる。……かという俺もなんとなく落ち着かないんだけども。
「祈に"いやしのすず"でもやってもらいましょうか?」
「それ俺たちにも効くのかよ」
「人間とポケモン、どちらにも効果はあるのでハーフにも効くかと」
前を歩くイオナの横、祈が振り返ってこっちを見る。「やろうか?」、言葉には出していないがそんな感じの意味合いで見ているのだろう。一旦リヒトと視線を合わせてから、すぐ祈に戻して立ち止まる。牧場はもう目前だが、効くのならばぜひとも。
「物は試しだ。祈、やってみてくれ」
「うん」
祈が俺たちの前にきて、両手を組んで目を閉じる。ふわりと祈の髪が揺れ、緑色の仄かな光がどこからともなく生まれてきた。直後、リィン、と鈴の音が鳴る。全ての雑音がなくなり、ただ静かに鈴の音が染み渡るように聞こえている。不思議だ。
「……どう?」
ゆっくり手を解いて目を開ける祈が訊ねる。かわいい。何気ない仕草すら可愛い。俺の相棒最高かよ。……じゃなくて。
「だいぶ落ち着いたよ。ありがとう、祈」
「うん。なら良かった」
俺がぼんやりしている間にリヒトに先を越されてしまった。和やかな美男美女の横、平凡な俺はその眩さにわざとらしく目を細めて見ていると、……ふと、俺の肩にイオナの手がそっと乗る。視線を移せば、イオナの視線はその先にある。
「どうした?」
「メリープがやってきましたよ。アヤトのお知り合いでは?」
「えっ!?」
言われて視線をイオナが見ている方へ移すと、……確かにいる。いつの間にかメリープがいる。目を閉じてどことなくうっとりしているのを見ると、祈のいやしのすずに誘われて来たんだろうか。流石にメリープの見分けはつかないから知り合いかどうか分からないし知らなかった場合を考えて、なんとなくなるべく足音を立てずに近づいてみる。
「……あのー、」
『ひゃっ!?』
「あーっ!逃げないで!ごめんなさい!何もしないから!」
一目散に逃げだすメリープに向かって咄嗟に手を伸ばしたら毛を掴んでしまった。結構がっつりと。掴んだ俺もびっくり、もちろん掴まれたメリープもびっくりして固まっている。
『はっ離してくださいぃ!ぼくを食べても美味しくないですよおぉ……!』
「……いや、食べないから」
『!?、ど、どうして言葉が分かるんですかあぁ!?というかあなたの匂い、なんか変ですよおぉ……』
「変で悪かったなっ!」
もっと掴んでやるとひいぃ!と大げさに声を出す。コイツはオスだ。メリープ姉さんたちではない。声からしてまだ子どものようだけど、見た目は姉さんたちとあまり変わらないような気がする。
「お前、サンギ牧場のメリープだよな?ハーさんとハーくん先輩は今近くにいるか?もしくはメリープ姉さんたち」
『いますけどおぉ、なんでそんなことまで知ってるんですかあぁ……?熱狂的なファンですかあぁ?』
「ちげーよ。前ここで働いてたんだ。頼む、呼んできてくれないか?ハーくん先輩たちにはアヤトって言えば分かるから」
『ええぇ……』
……といいつつ、のそのそ方向を変えて牧場に戻っていくメリープ。時折こっちを振り返りながら歩いている。これでハーくん先輩たちをオーナーさんには内緒で呼び出すことには成功しそうだが、……アイツに頼んで大丈夫だったかな?不安だ。
「心の準備はいいか、リヒト」
「……うん、大丈夫」
メリープの姿が見えなくなったころ。後ろの木の陰に隠れていたリヒトがそっと隣にやってきて牧場を見回していた。フードは深く被ったまま、ただひたすらに牧場へ視線を向けている。何を感じ、何を思っているのか。
「……アヤトだけは、おれを信じ続けてくれる。そう思っていていいんだよね」
「そうだけど、なんだよ突然」
「それだけで、何があっても折れないでいられるからさ」
「……ばーか」
リヒトの視線の先、さっきのメリープと一緒に全速力で駆けてくるハーくん先輩の姿が見えた。その後ろ、ハーさんもやや遅れてこちらに向かって来ている。
……リヒトはまだ、知らないんだ。俺以外にもリヒトを信じ続けてくれる人がいるってことを。
緊張気味のその横顔を見てフッと笑うと、リヒトが少し不機嫌そうに俺を見る。それにまた笑ってみせれば頬を軽く抓られた。
……これで少し緊張が解れていればいいんだが。