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「え、なんで?」
「なんでって、今日ぐらい二人きりのほうがいいでしょお?ぼく、ロロさんと一緒に寝るからあ」

そういうと、枕だけ抱えて部屋を出ていくエネの後ろ姿を唖然としながら見送った。想像以上にあっさりしすぎていて拍子抜けだ。「ええー、ぼくアヤトくんと離れたくないい」とか一言二言あるかと思ったが、結局何もなかった。……きっとエネのことだから気を遣って外してくれるんだろう。あとで礼を言っておこう。

「……あれ、エネは?」
「今日ぐらいリヒトと二人きりのほうがいいだろって、ロロのとこ行った。今晩はロロと一緒に寝るんだって」

濡れた髪の毛先から雫を滴らせながらシャワールームから出てきたリヒトが、先ほどエネが出ていった扉に視線を向けると獣耳が横にそっと伏せた。リオルのときよりも長く大きくなった耳は、以前に比べてより一層リヒトの感情を分かりやすく表現している。

「……気を遣わせちゃったかな」
「気にすんな。エネのヤツ、いつも俺にべったりくっつきながら寝てるから、たまには他のとこ行ったほうがいいんだよ。あーあ、いっそこのままずっとロロと一緒に寝るようになってくんねーかな」
「とか言ってるけど、いざそうなったら寂しくなると思うよ」
「俺がか?むしろいない方がぐっすり眠れるし変なことされないし、いいことだらけだ」
「?、変なことって?」
「……間違えた。聞き流して」

頭から被った真新しいタオルで手早く拭いながら俺を見るリヒトから視線を外して、目の前に映し出されている地図を眺める。

……あの後。バルコニーへひとりで向かった俺がリヒトを連れて戻ったとき、それはもう大騒ぎだった。エネは驚きすぎて固まっていたし、詩なんて号泣しながら怒ってリヒトの頬を容赦なく抓り上げていた。祈は、瞳を潤ませながら俺とリヒトの手を片方ずつ握って笑みを浮かべていた。言葉こそなかったが、祈にはきっと伝わっていたはず。

「ところでリヒト」
「なに?」
「お前のこと、マハトさんたちにはもう伝えてあるのか?」
「…………」

これから先、リヒトも共に旅をすることは祈たちに伝えて了承を得た。となれば、次はリヒトに関わっていた人たちへはどうするのかを考えるべきだろう。
リヒトについては、情報を誰にどこまで伝えるかの判断が難しい。ロロとイオナにも相談しながら、とりあえずハーくん先輩とハーさんなら大丈夫だろうと意見が一致したため、行くのは確定している。牧場のみんなには、ハーくん先輩たちに相談してからでも遅くはない。そうしてサンギ牧場が済んだら、次はハーフの村になるのだが。

「……おれは、あの村へはもう行きたくない。今戻ったら今度こそ神同然に扱われて、また良いように利用されるのがオチだ。目に見えているよ。……おれは死んだ。そう思われたままがいい」

俺が座っていたすぐとなり、頭にタオルを乗せたまま座って肘を太ももあたりに乗せて前かがみになりながら両手を祈るように組む。背もたれにべったり寄り掛かっている俺にはその表情は窺えないが、声色がすでに暗いからどんな顔をしているのかなんて容易に想像できる。

「でももうあの研究者はいないんだぞ」
「……それでもね、アヤト。きっとまだあの白い建物には、他の研究者が捕らえられている。そしてそれはこれからも続くと思うんだ。アイツがいなくなったぐらいでは誰も止まらないさ」
「どうしてそう思うんだよ」
「父さんがそうだったからだよ。……今はどうだか知らないけれど、あの人がそう簡単に変わるわけがない」

どこか投げやりに答えるリヒトの丸まった背を見る。背丈は俺よりでかいけど、肉という肉が全くついていないからかなんとなく小さく見える。風に吹かれたら飛んでいきそうな、転んだだけで骨が何本かぽっきり折れそうな。明るい場所でみると病的な細さが目立ってつい気になってしまう。

「トルマリンさんに聞いたよ。アヤト、村へ行ったんだってね。それに父さんとも会ったって」
「ああ」
「ならもう分かっているでしょう。あの村は狂っている。平気で残虐なことをして、ついには娯楽にしている。そしてそれを引導しているのは父さんだ。あんな場所が故郷だなんて、あんな人が父親だなんて、……信じたくないよ」
「…………」

リヒトはいつから母親と二人きりでサンギ牧場へ移り住んだのかは知らないが、少なくともリヒトは幼少期を村で過ごしていた時もある。その時からすでに村には、リヒトをここまで嫌悪させる何かがあったのだろう。

「確かに村は狂ってた。間違っている。そこは俺も同意見だ。……でもリヒト。俺、マハトさんはそんなに悪い人だとは思えない」
「アヤトは父さんのことをよく知らないからそんなことを言えるんだ。父さんだって村と同じだ。残虐で冷酷で、……おれのことだって、」

続く言葉を遮るようにリヒトの片腕を掴んで後ろに引っ張ると、驚いた顔で振り返る。
多くは語らない。でも、これだけは言っておこう。

「マハトさんはお前のことを大切に思っているよ。昔も今も、これから先もそうだ」
「アヤト、ありがとう。でも嘘はだめだよ」
「嘘じゃないって!!」

苦笑いしながらそういうリヒトを横目で睨んでみたものの、過去の思い出が強すぎるのか俺の睨みなんて全く効いていない。
余計なお節介かもしれないし、双方の傷を抉ることになるかもしれない。それでもマハトさんの本音を知っている以上、このままにはしておけない。特に理由はないが、謎の確信はある。……リヒトとマハトさんは、きっと今が関係性を変える節目だ。

「……よし、決めた。今決めた」

地図の画面を閉じ、立ち上がってリヒトを見下ろす。ゆるりと上がる顔を見てから、上半身だけ軽く折り曲げ両手をリヒトの頬に近づけて勢いよく両頬を手で挟むと、両方から頬を押されて突き出した唇がぱくぱくした。湿った青い髪の間から見える目なんてまん丸になっている。

「リヒト、村にも行くぞ。マハトさんたちだけでもいいから会いに行こう」
「…………行かなきゃダメ?」
「ダメ。それこそ首輪つけて引っ張ってでも連れてくからな」
「…………嫌だなあ、……」
「こっち見ても変わらないぞ」
「……、……分かった、行くよ」

しっかり聞いたからな。あからさまに表情を崩して頷くリヒトを満足しながら見てから手を離すと、今度はリヒトがふらりと立ち上がって洗面所に向かって歩き出す。尻尾は垂れ下がったまんまだし、一歩一歩が見て分かるほどに重たいが、どうやら髪を乾かす気力はまだあるらしい。

「……ねえ、アヤト」

声に気付いてソファに座ったまま振り返ると、洗面所へ向かったリヒトがひょっこり顔だけ覗かせている。

「どうしたんだよ?」
「お願いだからアヤトも絶対いてね。おれと父さんの二人きりにしないで!お願いだよ!?」

それだけいうと顔を引っ込めて、今度こそちゃんと髪を乾かし始めたらしくドライヤーの音が聞こえてきた。……俺はというと、すでに頭の中でどうやってリヒトとマハトさんを二人きりにしようかと考え始めている。
いや、今のはどう考えてもネタふりとしか思えない。押すなよ押すなよ、のあれと一緒じゃないか。

……ということで、こういうこと考えるのはロロの方が得意そうだし後で聞きにいこうと思う。





「……どうしたの?」

消灯した部屋の中。隣のベッドにいたはずのアヤトが、なぜかおれのベッドの横に立っている。

「アヤト?」
「…………」

寝ぼけているわけではないようだけど、やはり無言で立っていた。と思えば、片手をそっと出すと手の甲をこっちに向けたまま一度ひらりとさせる。分からず、そのまま瞬きをしていると有無を言わさずベッドに潜り込んでくるではないか。

「寒いの?」
「……ちげーよ」

背中をこっちに向けて横向きに寝るアヤトに、上半身を起こしたまま視線を向ける。そのまま何も言わずに見ていると、アヤトが少しだけもぞりと動いてから静かに口を開く。

「なんか……まだ、ちゃんと信じられなくて……眠れないんだ」
「……おれはどこにもいかないよ」
「わかってるよ。でも、……その。今日だけとなりで寝かせてくれ。子どもかよって、自分でもめちゃくちゃ恥ずかしいと思うしバカバカしいんだけど、……不安なんだ。もう絶対、お前を失いたくない」

おれには絶対に分からない。けれどもし、自分がアヤトの立場になっていたらと思うとゾッとする。アヤトが死んでしまったら、おれは、……おれはきっと、立ち直れない。前に進むこともできず、立ち止まったまま死を選ぶだろう。アヤトにとっておれはどういう存在なのかは分からないけれど、言葉にできないほど辛い思いをさせてしまったことだけは分かる。情けなくて、申し訳なくて、……嬉しくもある、なんて。

「手、お貸ししましょうか?」
「……ルカリオの手のほうなら大歓迎」

寝返りをうってこっちを向くと、差し出した手に顔を埋めてから頬をすり寄せ、顔をのせたまま目を閉じていた。相当気に入ってもらえているらしく、肉球はいまだ指でリズムよく触られている。……こういうところは可愛いよね、とか言ったら確実に怒られるから黙っておこう。

「……あー、話したいこと沢山あったのに、全部吹っ飛んじまった」
「思い出したら話してよ。これからずっと一緒にいるんだから」
「……そうだな」

何気ない会話すらも愛おしい。一度失くしてしまったから余計にそう思うのか。昔、あんなに恐れていた夜がこんなにも居心地がいいものになるなんて思いもしなかった。静かで、穏やかで、優しい夜だ。続く無音すらも心地いい。

……それから、いつの間にか聞こえてきた寝息に横を見ると、肉球に手を添えたままアヤトが眠っていた。眠れないなんて言っていたのはどこの誰だったのか。ひとり小さく笑いながら左手でそっと毛布をかけなおし、その横顔を見つめる。


「その子のことがそんなに大切なのかい」
「……ええ、とても」

ふと。暗闇と溶けていたその姿が現れる。彼はそこに立ったまま、面白そうに顔を少し傾けると黒い帽子から見える金髪が揺れた。彼の波動は無く、また纏う雰囲気はこの世のものではない。

「貴方がおれを見つけてくれたのでしょう。……はじめは恨んでしまったけど、今は感謝しかありません。ありがとうございました」
「なに、礼を言われることではない。私はね、私の世界に不純物を入れたくなかっただけなのさ」
「不純物……あはは、確かにそうだ」

おれと一緒に小さく笑った彼が続ける。今とは違う笑みを浮かべて、赤い瞳がきらりと光る。

「それにさ、……ふふ。神を欺くなんて、世界に逆らうなんて、これ以上面白いことはないだろう?」

楽しそうにそういうと、彼の姿がまた揺らぎ始める。きっとおれの姿を見に来たのだ。

「生きると決めた以上、いくらでも世界に立ち向かってやりますよ」
「うん、それがいい、そうしなさい。理不尽に負けてはいけない。運命を簡単に受け入れるな。なぜかって?それは、君たちは生きているからさ。生きている者には皆、奇跡を起こせる力がある。滅多に起きないからこそ奇跡というが、可能性はゼロではない。……その奇跡こそ、神を撃ち落とす一手となる」
「おれは神を撃ち落とそうだなんて考えていませんよ」
「ああ、失敬。私情が入ってしまったね」

スー、と姿が消えて行き、また闇に溶けてゆく。……ギラティナ。生きているうちに彼に会うのは、これが最初で最後になるだろう。完全に消える手前、小さくお辞儀をすると赤い瞳が細くなる。

「リヒトブリック。せいぜいその短い人生を大いに楽しむがいいさ。良い旅を」
「──……はい」

そうして戻る静寂と暗闇を見つめてから。となりで寝ているアヤトを起こさないよう、静かに毛布の下に身体を滑り込ませて息を吐く。握られたままの手は暖かく、また自分の心臓の音を聞いて目を瞑る。……正直、村に行くのは本当に嫌だけど。それでもアヤトがいるのなら、いつかは笑い話にできるだろう。

言われずとも、すでに人生を楽しんでいる。
もう一度、アヤトに会ったその日から。……おれの人生は、すでに幸せなのだから。




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