17

まさに命がけの脱出だ。
走るのも困難なぐらい、上から落ちてきた瓦礫が邪魔をしている。気を付けながら歩みを進めなければ、すぐにつまずいて転んでしまうだろう。しかしそんなことをちんたらしていたら、確実に落下物の下敷きになる。

『アヤト、こっち!』

もつれそうになる足をなんとか動かしている俺の横、祈がリボンの触覚を使って落ちてくる瓦礫を弾いていた。また空いている触角で進むべき道を指し示している。俺を必死に庇いながら進んでくれている祈だが、明らかにいつもと比べて動きが鈍い。当たり前だ。ここへ来る前も、そして来てからもずっと戦ってくれていたのだ。怪我も今すぐ手当しないといけないほどなのに。……なのに。

「祈……ごめん。こんな俺で、ごめん」

瓦礫を跨いで水たまりを踏みながら言うと、祈が俺を見た。水色の瞳を真っ直ぐ向けられて途端堪らなくなってしまったが、それもすぐに細くなって弧を描く。

『アヤト、わたしは、アヤトがトレーナーで良かったって思ってるよ。今も昔も、これからもずっとそう思ってる。だから謝らないで』
「祈……」
『さあ行こう、早くしないとここも、!』

言葉の途中。祈が俺に向かって走ってきた。と思えば直後、頭上で何かが崩れる音がした。落ちてくる天井の一部に、祈が飛び跳ねてアイアンテールで叩き崩す。頭を腕で抱えながらバラバラと降ってくる瓦礫に耐えてから慌てて上を見上げると、小さな隙間から青が見えた。……いつの間にか、日が昇っている。
瓦礫の上に戻ってきた祈の苦しそうな息の音に、一瞬緩んでしまった気をまた張って視線を戻した。転がるように足を動かし祈を抱えて、爪先をさらに強く踏み込む。

『アヤト!わたしなら大丈、』
「いいんだ、せめて足ぐらいにはならせてくれよ」

腕の中にいる祈が見上げる中、俺はひたすら前を向いて走り出す。もうとっくに体力の限界なんて超えている。それでも今、動かなければ先はない。とにかく力を振り絞って足を持ち上げ瓦礫を飛び越える。……祈だけは絶対に守らなければ。腕に当たる瓦礫も気にせず、何個目かの水たまりを踏んだ時。

「ッあ!」

身体がバランスを崩す。とうとう瓦礫に足を取られた。咄嗟に横向きになって抱きかかえている祈を守るが、左側の痛みが一気に広がり動きを鈍らせる。ヒリヒリと熱を帯びる身体をゆっくり起こして立ち上がろうとした時、横から倒れてくる瓦礫が見えた。注意すべきは上だけではなくて全体だったことを今になって思い出すが、もう遅い。
俺の名前を呼ぶ祈を無理やり懐に押し詰めて、すぐに来るであろう衝撃に耐えるため荒れ果てた床の上に蹲った。

──……その瞬間。

電流の走る音がした、と同時に真横で何かが破裂するような鈍い音が弾けて土埃が立ち込める。一体、何が起きたのか。祈を腕に抱えたままゆっくり身体を起こして咳をする。そうして顔を慌てて上げて見て、目の前に立っているその姿に驚いた。

「──……父、さん、」

我ながら、なんとも間抜けな声が出てしまった。目を見開きながら土埃に揺らされる黒髪と振り返って俺を見る姿を呆然としながら眺めていると、ぬっと目の前に手を差し出される。付けている黒い皮手袋はところどころ破れていて、もう使い物にはならないだろう。太い腕にある傷から今もなお染みている赤を見てから、……おずおずと、手を差し出すとしっかり握られてから勢いよく引っ張られる。

『グレアさん、てっきりもう脱出したのかと、』
「まさか。アヤトがいると分かっていながら、置いていけるわけがない」
「……、……」

一瞬、青い目と目が合ったものの、慌てて逸らして下を向く。だって……どんな顔をしていればいいのか分からないし、俺はまだ隠し事をしていた父さんを許したわけではない。
立たせてもらったくせに、その手を捨てるように放して俯きながら唇を噛んだ。

「行こう、ここももう限界だ。アヤト、まだ走れるか?」
「……ったりめーだ」
「……そうか。落下物は俺が対処する。だからお前は、何も気にせずただ走れ」

言われなくても、そうするさ。顔を見ることもなく、祈をきつく抱きかかえて走り出す。
それはもう、一心不乱に足を動かした。走りながらも背後や頭上で度々聞こえる瓦礫が崩れる音に、やっぱり父さんは人間ではなくてポケモンなんだとひしひしと感じていた。

「はっ、はっ、……ッく、……はっ……!」

息をすることすら苦しい。肺だけじゃない、身体全体が悲鳴を上げている。それでも走り続けた先、──……やっと見えた光に苦し紛れに笑みが出た。

途端、地響きと共に背後から今まで以上の轟音が聞こえた。完全に崩れる音だ。直感で分かった。それでも振り返ることはしないで前を向いて激走する。ここまで来たんだ、絶対に走り抜けてやる……!!

出入口の光が瓦礫に邪魔をされてだんだんと狭まる中。
あと数十歩、
あと数歩、
あと、一歩。

「っうらあああっ!!」

光に向かって飛び込んだ。地面に転がりながら勢いを打ち消してから素早く顔を上げると、やはり建物は崩れ落ちる寸前だった。その中、後ろを走っていた父さんの姿が見えた。俺に構ってばかりいるから自分が遅れているんだ。間に合うか間に合わないか、ギリギリの状況に。
気付いたら、祈を置いて走っていた。俺が行かずとも父さんならば崩れる前に抜けられる。分かっている、そう思ってはいたが、身体が勝手に動いていた。いらない助けかもしれない、不要なことかもしれない。
それでも。

「っ父さん!!」
「ッ!」

伸ばした手に、前のめりに滑り込みながら伸ばされた手が重なったとき。……今度は俺が、思いっきり引っ張った。瞬間、上から押しつぶされたように一気にぐしゃりと建物が潰れた。同時に発生した土埃が舞い上がるが、それもすぐに薄くなって晴れてゆく。

「…………」
「……間に、あった……」

荒い息のまま、二人して並んで倒れるように寝ていた地面からゆっくり身体を起こす。それからついさっきまで居た今はもう見るも無残な建物を見てから、自然と顔を隣に向けていた。手の甲で頬を伝って顎に落ちる汗を拭う姿を、呆然と見る。

「ありがとうアヤト、助かった。危うく下敷きになるところだった……」

肩で息をしながら目を細めると、少し手を持ち上げてから一瞬止まって手を下ろすのが見えた。……よく見たら、手だけじゃない。全身傷だらけだ。血が滲んだからなのか、黒い服もところどころより濃い黒になっている。

「……何、やってんだよ」
「──……アヤト、?」

噛みしめた唇から歯を離して、熱い息を漏らしながら俯いたまま頭だけ傾けて片腕に寄りかかる。
……正直。あの背中が見えたとき。手を差し伸べられたとき。──……ものすごく安心してしまった。思わず泣きたくなってしまった。今もそうだ。無事に出られた安心感だけじゃない、別の何かが胸にある。

「……俺の親父なのに、ボロボロにやられてんじゃねーよ……っ」
「…………」

フッと笑う声に顔を上げて思いっきり睨んでみせると、やっと手が動いて優しく乗っかる。撫で方がひどくぎこちないが、……悪くはない。

「アヤト、おかえり」
「……ただいま」
「アヤト」
「……なんだよ」
「ここまでよく頑張ったな」
「──……、」

思わず顔をあげてしまったこと、今になって後悔した。瞬時に顔をまた下げたが、とうとう父さんにまで見られてしまった。……父親の前だけでは、絶対に泣きたくなかったのに。そう思っていたのに、なぜかボロボロと涙が零れ落ちて止まらなかった。

俺の父親は、人間ではなくポケモンだった。もちろん今も戸惑いはあるし、納得できないことも山ほどある。
……それでも。今も、そしてきっとこれからも、口が裂けても言えないが。やっぱり。父さんが人間ではなくても、俺にとっての父さんは、この人しかいないのだと、……心底そう、思ってしまった。




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