15

祈がこの部屋へ入る前。少しもの反抗にと食らわせた頭突きのせいか、まだ頭がクラクラしている。それに無理やり動かした手首足首が激しく痛んでいる。反抗したはいいものの、その分の反動が思っていた以上に大きかった。多分、というか絶対、その前に色々訳の分からない液体入りの注射を打たれていたせいもあると思うが。

「アヤト……っ!!」

土埃が立ち込める、もはや半壊の建物の中。真っ直ぐに走ってくる祈の姿が見えた。ニンフィアの姿から、人の姿になって走ってくる。霞む視界を頭を振って紛らわして、囚われたままどうしようもない俺は情けないほど何もできずにただ祈の姿を見ていた。……祈は、なんというだろうか。勝手に絶望して勝手にいなくなってこんなにも迷惑をかけている俺に、なんと言葉をかけてくるだろうか。怒るのか、泣くのか、それとも。

──……目の前。
枷が急に外れて前のめりに倒れる寸前。祈が膝から崩れるように落ちたと思えば、両腕が伸びてきて思い切り抱きしめられる。しっかりと、俺を抱きしめていた。暖かく、やわらかい。それだけでこんなにも安心してしまうのか。

「祈……、」

目の端に映る淡いピンク色を見ていると、首筋に顔を埋めていた祈が顔をゆっくり上げて俺を見る。久しぶりに見るガラス玉のような透き通る青い目は、いつかの日のようにただ俺だけを映していた。それから桜色の唇がそっと持ち上がり。

「……会いたかった。……会いたかったよ、アヤト」

目を細めて笑うその表情が、あまりにも優しすぎて。……思わず、涙がこぼれた。
どうして俺なんかのために、こんな危ないところまで来たんだ。もう俺とは関わらないほうがいい、すぐに帰れ。、流れる映像を見ていたときはそんなことさえ思っていた。
それでも今。土埃で汚れた服に傷だらけの身体を無理やり動かしてでもここまで来てくれた祈の姿を見て、全てがどうでもよくなってしまった。

「迎えにきたよ、アヤト。一緒に帰ろう」

帰らない。強い覚悟があれば、意地を張って突っぱねることもできただろうに。微笑みながら涙を零す祈の前で、俺は悩むこともなく。ぼうとしたまま涙を散らばしながら、ゆっくりと頷いてしまっていた。
祈は俺がハーフだと知っていたのだろうか。どう思っているのだろうか。不安や疑心はまだある。……でも、信じてみたいと思った。

祈ならば、どんな俺でも一緒にいてくれるのではないかと、そう思ったのだ。

「アヤト、早くここから、」
「──……どうして、なんだ。どうして上手くいかないのだ」

俺と祈の横。崩れた壁の破片を踏みながら、男がふらりと現れる。さっきまで祈が飛ばしていた岩を警戒して端に座っていたのは見えていたが、どうやら研究所が半壊になってまでも未だ俺を、ハーフを、始末することを諦めていないらしい。

「ハーフが憎い、彼女を奪ったこの世界が憎い……!!どうして彼女がいなくなってもハーフはいなくならない?どうして、どうして皆、邪魔ばかりするのだ!?」

いつか、ロロを撃った銃が右手に握られている。銃口は真っ直ぐ俺に向けられてはいるが、震える手はまだ照準が定まっていないように見える。

「アヤト、下がって」
「……いや、」

小声で言って俺の前に出る祈に目配せをして、万が一でも祈には当たらないように片手で祈を庇いながら前に出る。……これは俺と、そして"俺に似た"男との問題だ。

「なあ、お前。間違ってるよ。全部、間違えてる」

過去の出来事、そして男とハーフとの因縁を、彼女と男が記録していたノートで少し触れて不思議に思っていたことがある。……悲劇の始まりである根源はすでに死んでいなくなったというのに、どうして男はこんなにもハーフを憎んでいるのだろうかと。確かに、彼女が亡くなった原因はハーフたちの反乱が原因だろうが、憎むべき相手を明らかに履き違えている。それはどうしてなのか。今、さっきの言葉ではっきり分かった。

「感情をぶつける前に相手がいなくなってしまって、でもどうしようもなくて、結局ハーフに向けるしかなかったんだ。……悲しむより、恨むほうが心は楽だから」
「……違う」
「ならどうしてお前はハーフをそんなに恨むんだ?お前も一緒に保護しながら仲良くしていたはずのハーフをどうして?元凶は人間側なのに!」

瞬間、パアン!と乾いた音が響いた。後ろにいる祈が咄嗟に俺の服を掴んで後ろに引っ張ったが、踏ん張って留まる。頬を掠めた銃弾は壁にめり込んで止まった。一緒に弾かれた少量の髪が宙を舞う。ちり、と頬が急激に熱を帯びてゆく。痛いよりも熱い。視線は逸らさず、白い煙が出ている銃口越しに男を見る。

「俺はお前じゃないから絶対理解なんてできないけど、でも……お前も苦しんでいるということは分かる。お前も被害者なんだよな。傷つけられた側だったんだ」
「何を言っても無駄だ。私が変わることは何一つとしてない」
「……そこが俺と、お前の違いだ」

パアン!、今度は威嚇ではない。真っ直ぐに俺へ向けられた銃弾は、……急に角度を変えて崩れかけの天井を突き抜けた。その衝撃で小さなコンクリート片が上から降ってくる。

「……何をしている、ゴチルゼル」

俺の前、盾になるようにそこに現れた黒髪の少女に男が言う。先ほどのバトルで祈と同じくボロボロの姿の彼女だったが、凛と立つその後ろ姿には美しさがあった。……男のポケモンであるゴチルゼルが、なぜ俺たちの側に立っているのか。内心驚きながらも彼女を見ていると、少しだけ振り返って祈を見てから俺に視線が向けられる。

「時期にこの建物は、私のみらいよちで完全に崩れるわ」
「なっ……!」
「だから、崩れる前に早くここから逃げなさい。彼のことは私に任せて」
「でもそしたらお前は、!」

一度目を瞬かせてから、ゴチルゼルはクスリと笑って前を向く。祈が支えてくれている方の体はすでに引っ張られつつあるが、足がなかなかそちらへ向かない。トレーナーが悪いのであって、そのポケモンである彼女になんの非はない。エネのときと同じだ。だからこれから彼女がどうなるのか気になってしまうのか。
ふと、急に体が少しだけ浮いたと思うとくるりと扉の方へ向けられた。動こうとしても体がまったく動かない。きっとエスパータイプの技だ。

「ポケモンはトレーナーに似るんですって。本当に、その通りね。……優しい貴方たちに会えてよかった。ありがとう」

ふと、扉の向こう。ここから出ていく俺たちと入れ替わってやってくるであろう、青色が見えた。
一人はマハトさんで、もう一人は。……リヒト、ではなく。シュヴェルツェ。並べてみればそのまま親子のようだが、今の二人にそんな言葉は当てはまらない。雰囲気がそう物語っている。それを見て二人がどうしてここまで来たのか、なんとなく、察してしまった。

「……おい」

ぎぎぎ、と無理やり顔を横に向けて男を見る。きっと言葉を交わすこともその姿を見ることも、これで最後だと思うから。

「同情はする。でも、許したりなんかしない。ハーフも、造られたハーフも、人間やポケモンと同じように生きているんだ。感情だってあるし、悩んだり考えたりすることもある。同じなのに、……それを、軽々しく扱ったお前のことは絶対に許さない」
「結構。私は恨まれるのを覚悟でここまで来た。今更、誰に許しを乞うものか。罪は罪だ、それぐらい分かっている。分かっていて、落ちるところまで落ちたのだ」
「……質悪ぃ」

すでに銃は降ろされている。撃っても無駄だと思ったのだろう。少しずつピシリと壁に入る亀裂を見ながら、ひとつ息を吸い込む。

「……いなくなってから、その存在がいかに大きかったかに気付くんだ。大きすぎるほど絶望して、またどこまでも求めてしまうけど。……お前もさ、周りをもっとよく見たほうがよかったんだ。彼女以外にも、お前のことを想っている人はたくさんいたはずなのに」
「……そんな者、いるものか」
「いるよ」

今まで何も発しなかった祈が、間髪入れずに答えた。──……瞬間、体に自由が戻る。一時的だろうが技が解かれたのだ。どうしてだろうと思っていると、なぜか隣にいた祈がスッと動く。どこへ行くのか、俺が訊ねる間もなく。
祈はゴチルゼルの横に並び立ち、彼女の手をそっと握りながら男を真っ直ぐに見る。

「いるよ、ここに。ずっと、あなたのそばに居たんだよ」
「…………」
「気づいていて、見て見ぬふりをしていたんでしょう。優しさに触れると彼女のことや復讐心でさえ忘れてしまうのが怖くて、ずっと闇にいたんでしょう。それでも、ずっとあなたのそばに居たんだよ。ううん、これからも。ずっと、あなたのそばに居るって、……」

黙り続ける男に、そっとゴチルゼルから祈の手を放す。それから一度祈を見て、大きく頷いて見せていた。一言二言交わしてから、祈がまた俺の隣に戻ってくると急かすように腕を引く。
前を向き続ける祈に、俺もやっと諦めて足を前へ踏み出した。それからなんとなく顔を横へ向けて祈を見ると、ほろほろと静かに涙を零しながら歩みを進めていたのだ。その涙は、誰を想ってのものなのか。

「ねえ、アヤト、知ってる?」

前を見たまま、祈が訊ねる。だんだんと近づいてくる青を見ながら聞き返すと、祈が下手に笑みを作りながらこちらを向く。

「ゴチルゼルは、トレーナーの寿命も視えるんだって。……わたし、さようならって、……言わなくちゃだめかな……っ?」

作った笑顔がゆっくり崩れて、くしゃくしゃの顔で唇を噛みしめながら速度を落とす祈の隣。立ち止まり、動く方の片手を持ち上げてから祈の頭に優しく乗せた。そこから左右に動かして、少し乱暴に撫でてから祈を見る。

「他に言いたいことがあるんだろう?」
「……うん、」
「なら、祈が言いたいことの方を言うんだ。もう会えないかもしれない相手なら、尚更言わなくちゃダメだ。伝わるかどうかは分からないけど、でも、言わないよりはよっぽどいい」

ぎこちなく笑って見せると、祈が大きく頷いた後、突然腕でぐいと自分の目元を拭ってから振り返って大きく息を吸う。
ガラガラと崩れ始める騒音の中、届くかどうかも分からないが。……それでも、伝えたい言葉が、ここにある。叫びに近い祈の声が、雑音に交じりながらも響いて。

「……っわたしも、っわたしも、ありがとうっ!あなたと出会えてよかった!」
「──……、」
「またね、って、言ってもいい……っ!?」

男の傍に歩み寄る彼女が一回立ち止まってこちらを見て。静かに手を、振っていた。
あの笑顔はどういう意味なのか、俺には分かることはないだろう。そしてきっと祈にもはっきりは分からない。

それでも再び俺の腕を引く祈は、ただ前を向く他なかった。




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