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ゆっくり目を開けると、真っ先に変な匂いが鼻につく。次に身体中の痛みに顔を歪めて、最後に寒さを感じた。起き上がろうと手を動かすと、鎖が固い地面とぶつかって音を鳴らす。じくじくと痛む腹部を片手で押さえながら上半身だけ起こしてやっと、俺は実験台の上で寝ていたのだと気づいた。その事実だけで一気に心臓が爆音を鳴らし始めて、焦りが押し寄せる。

「くそっ!なんだよこれ……っ!?」

コンクリートのように固い実験台の左右の端から伸びている鎖の先には頑丈な手錠があり、当たり前のように俺の手首が嵌っている。両足首にも同じようについていて、逃げ出すには両手両足首を切り落とさなければいけないぐらい、隙間なくぴったり嵌められていた。まるで俺のためだけに作られた物のようにも思ってしまう。

「やあ、少年。やっとお目覚めかな」
「お前っ!!ふざけんな、これ外せ!」
「さて、始めるぞ」

俺の言葉になんて耳も向けず、男が呟いた瞬間、台の両端から伸びていた手錠の鎖が勝手に収納し始めた。もちろん足枷も同じく両端に戻ってゆき、必然的に大の字で台に張り付くような恰好になってしまった。いくら暴れてもびくともしないし、変な歩き方で近づいてくる男に眩暈を覚えるぐらい心臓が音を鳴らす。
パッ!と俺の真上にあった機械の電気がつき、急に白が広がった視界に目を細めた。暗がりからやってくる男を殺す勢いで睨んだが、パーカーの裾を捲り上げられて腹に静かにあてられる冷たく固いものに思わずひるむ。咄嗟に目玉を下に向けると銀色の刃先が見えた。

はさみの刃先と刃先が交わって、服をなんの躊躇も無く断つ。中に着ていたTシャツも一緒に切られていて、肌に刃先が掠める度にぞくりと粟立つ。それを知っているかのように、刃先がこちらに向かってくるのはやけに遅くてまたジャキンという音の後には毎回冷たい刃先が肌に当たっている。

「先ほどまでの威勢はどうしたんだ」

言い返してやりたい気持ちはたくさんある。しかし今、確かに恐怖を感じてしまっていた。怒りよりも恐怖が勝ってしまったのだ。声を出そうにも喉が詰まっているような気がしてうまく出せないし、抵抗しようにも両手両足が固定されていては、もうどうにもできない。
それよりもハサミが問題だ。わざと肌に当てているのは間違いなく俺の恐怖心を煽るためで、それにまんまと引っかかってしまったのだ。でもこんなの誰だってひるむだろう。一番弱い部分、つまり内臓が詰まっている腹を鋭利な刃物が舐めるように沿って上がってくるのだ。男が少しでも刃先を傾ければ、柔らかい皮膚なんて簡単に突き破られてしまう。
そう、もはや俺の命は男の手の中にあるといっても過言ではない。

「ずいぶん大人しくなってしまったものだな」

ジャキン。顎の真下で音がした。歯を食いしばりながら何とか睨んではみるものの、男からしたらきっと今の俺は、ぶるぶる震える小動物か何かにしか見えていないだろう。切られた服が乱暴に両端へ弾き飛ばされて、上半身が露わになる。それからゴム手袋をつけた手が暗闇から伸びてきて、脇腹あたりに触れて何回か撫でる。

「この傷跡はいつどのようにできたものなんだ?」
「…………」
「どうした、話せないのか。会話能力はあるだろう」

瞬間、頬を殴られた。一瞬何が起こったか分からず、痛さと引っ張られる首をまた正面にゆっくり戻してから瞬きをする。視線を戻して上の方で握られている拳を見る。下手をしたら舌を噛んでいたかもしれない。次第に熱を帯びてくる頬を感じながら黙っているとまた同じところを殴られた。思わず唇を噛んでしまい、血の味が口に広がる。……俺が言うまで殴るつもりなのか。一度ぞくりと震え上がる。

「もう一度聞こう。これはいつ、できたものだ?」
「──……前。ヒウンシティで、……リヒトに……」
「ああ、あの時のものか。その傷跡がまだここにあると……なるほど、確かにマハトの言っていたとおりかも知れない」

拳を解いてペンを握り、もう片方の手で固定している板の上にペン先を走らせる。こんなものを書いて何になるのか。鉄の味に顔をしかめながら見ていると、おもむろに持っていたペンを置いて横で手を動かし始めた。カチャカチャと器具同士がぶつかって鳴く音に、いよいよ血の気が引いてくる。

「安心したまえ、今は殺しはしない。簡単に殺すものか」
「……っ」

何とかしてここから逃げる方法はないのか。無駄に暴れてみるものの、手足を固定されているからただ身をよじっているようにしかならない。そんな俺を男は満足そうに見ながら細い針がついた注射器に変な液体を注入している。あれが麻酔ならまだいい。でも明らかに色がついているし、絶対なんか変なやつだ。どうしよう。
無意味にバタバタ暴れて最後の抵抗をしてみるが、やはりどこもかしこもびくともせず。……そんなとき。ふと、横に視線を向けて、"それ"に気づく。青白く怪しく光っている電子画面の横、ぼんやりと浮かび上がるようにそこに佇んでいる写真立て。

「──……あの写真、……」

ぴたり。一瞬音が消えた。それから俺の顔を見てから視線を追って、戻ってきてはまた動き始める。確かに今、動きを止めた。俺の言葉に耳を傾けた。……時間稼ぎには、ならないか。

「隣にいるのは、女の人……?」
「なんとも目ざといな。私は何体もこの台の上で実験解剖してきたが、あれに気が付いたのは君で二人目だ」
「……一人目は?」
「リヒトだ」

そういうと、注射器の底を指で押して液体を針から少し出しながら俺に視線を向ける。乾ききった喉に無理やり通した唾が痛い。

「まさか少年、君も追及してくるのではないだろうな」
「……したらどうする」
「どうもしない。実験を続けるまでだ」

何かある。あの写真には、何かがある。俺の右腕の向きを変える男の行動に焦りながら、何かないかと考える。写真に写っているのは若い時の男だろうか。今とは全然雰囲気が違うのは、写真の中の表情を見るだけで分かる。隣の女性は、普通に考えれば恋人か。しかし今、彼女はここには確かにいない。となると鍵はあの女性で、それから、……あれ。写真の下、不自然に破れてないか?それに二人が立っている背景、俺も見たことがある気がする。どこだ。どこだっけ、ええと、最近だ、そう、あれは確か……。

「ハーフの村の、入り口だ……」
「…………」
「あの写真、村の門の前じゃないか?」

腕に刺さらず、当てられた針から液体が皮膚の上に零れ落ちる。眼鏡の奥で細められた目が鋭く俺を見てから、苛立ったように注射器を置いて写真立てのところまで片足を引きずりながら歩いてゆく男。
……否定はしない、ということは。やっぱりあの写真の背景はハーフの村の門の前だ。どうして男は昔、あんなところで和やかな幸せそうな表情で写真なんか撮っていたのか。殺したいほど憎んでいるハーフがいるあの村で、……。

隣に並んでいる女性、ハーフの村、研究者の男。
村の呪いのはじまり。
──……もしやと思った途端、全てが線で繋がれてゆくような。

カタン。男の背の向こう、音がした。写真立てを倒したのだろうか。しかし振り返ってまたこっちに戻ってくる男の向こう側では、写真立てが後ろ向きになっていた。うつ伏せにすることすらできない大切な写真。

「今、その写真の女の人はどこにいるんだよ」
「……少年、何やら急に元気になってきたな。そんなに慌てずとも実験は辞めな、」
「もしかして、──……もしかして。その人も、ハーフに殺された、のか……?」

瞬間。
弾かれたようにつかつかと早足で台の横までやってくると、おもむろにメスを掴んで俺に向かって振りかざす。光が反射して目を細めた直後、真っ直ぐ振り落とされるのが見えた。咄嗟に顔を右に向けると、左の耳元でカタカタと金属が揺れる音がした。力強く握られたメスはまだ台に垂直に刺されていて、いつ刃が折れるか分からない。左頬がじわじわ熱くなってゆく。どれぐらい切ってしまっただろうか。

「──君はどこまで知っているんだ」
「……昔、こんなことがあったという話を聞いただけで、……お前のことは何も知らない。……勘で、聞いた」
「……そうか。ならばこれ以上踏み込むな。いいや、踏み込ませはしない」

真横にあったメスが離れ、ついでに男も上体を起こす。……何も答えてもらえなかったが、もう全て答えが出ている。メスを握り締めて俺に振りかざした表情も、静かに怒りを抑える声色も。全てが答えに繋がっている。

「大切な人を殺された……だからお前は、復讐のためにハーフを何人も殺しているのか……?」
「…………」
「あの時からずっと、そうなのか……?」
「……黙れ」
「長い間、ずっと……?誰も、お前を止めてくれなかったのか……?」
「──黙れッ!」

手が勢いよく首を掴む。それだけで喉元が圧迫されて体が跳ねるが、そのままグッと容赦なく絞められ口を大きく開けた。言葉にならない言葉がうめき声のようになって無意識に出てくる。苦しさで必死にもがいても力は圧倒的だった。視界が次第に暗くなって目を開けているのかすら分からなくなってきた。酸素が、足りない。

「彼女はお前たちを愛してお前たちが自由に生きられる世界を必死に作ろうとしていたのに!!なぜ、なぜ殺されなければいけなかったのかッ!?」
「──……、」
「ハーフさえいなければ、ハーフさえ、いなければ……っ!!」

気を失う寸前に聞こえた声は、まるで慟哭のようだった。
生憎どんな表情なのか分からなかったが、きっと男が今ここで涙を流すことはなかっただろうと、なんとなくそう思ったのだ。




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