7

こんなにも早く現実のものとなってしまうのか。真っ先にそう思った。
村中が騒がしくなるのはあっという間で、また燃え盛る炎が行く手に迫るのも光のごとき速さだった。下準備がなければここまで早く火は回らないだろうとも思ったが、火元の原因となった彼らを見ればすんなり納得できてしまった。

「まさかここまでやってくるとはね……」

黒い煙をできるだけ吸い込まないように腕で顔半分を覆いながら、揺れる青い髪と数多の赤い瞳を見る。……何度、彼らと戦えばいいのだろう。悪夢のようなあの日の出来事がふと頭をよぎってしまい、慌てて頭を左右に振った。
まずは約束を守らなければ。借りていた家から各々飛び出して、逃げ惑う村人を手助けする。腹から声を出して、以前アヤトくんと一緒に村を見渡していた高台へ誘導する。彼がそこへ村人を集めてほしいと言っていたからだ。

『ロロ、ハーフを優先しろ!』

怒声に似た声に振り返り、言葉の意味がすぐ分かった。遠慮なしにバリバリと雷を放っているゼブライカの後ろにはハーフの我が子を抱えた人間がうずくまっていた。手前には大鎌を振りかぶっている人造ハーフがいて、横を走って通り過ぎて行く人間には目もくれていない。ヒウンシティではハーフを驚異だと思い込ませるために人間とポケモンを襲う対象にしていたようだが、そうだ、あれらは元々ハーフを狩るために造られていたものだった。

「こっちだ、早く!」

言葉が伝わるように擬人化したまま戦っているグレちゃんの後ろに滑り込み、うずくまっている女の手を引いて走らせる。救えなかった命が横たわっているのを目の端に捉えてすぐ心を無にする。甘えるな、ここはまだ戦場だ。いちいち同情なんかしていたら、今繋いでいる手も離れてしまう。

「あ、ありが、」
「礼はいらない!いいから上を目指して走るんだ!」

階段まで連れて行き、上を指さすと一度頭を下げてから慌てて走る女を見送る。その途中、姿がふっと見えなくなった。
これこそまさに、今まで村を人目から遠ざけていたトリックルームというものだ。しかもただのトリックルームではない。トリックルーム自体がマトリョーシカ人形のように何重にもなっている上、波動や虫ポケモンが放つ糸が練りあわされている特別製ときた。普通のポケモンにはできない、ハーフたちだからこそ作れる空間というわけだ。

安全を確認してから再び走って戻る。村人はまだいる。とんでもないことを頼まれたと今更歯ぎしりしながら、未だ姿を見せないあのルカリオの姿を思い描いていた。その時だった。

──……波動が、脳内に直接言葉を伝える。
その言葉にすぐさま顔をあげて奥に森が広がっている小高い丘を見た。それから視線を落として辺りを見回す。悲鳴はまだ聞こえている。視線を動かして、同じく言葉が伝わってきたであろうみんなを見た。同じく葛藤しているのだろう、動きが一瞬止まっていた。

選択を、迫られている。
必死に助けを乞う村人を助けるためにここに留まるか、今すぐ連れ去られたアヤトくんを追うか。

「…………」

こういうとき、一番早いのは俺だ。
向けられた救いを求める視線を振り払い、レパルダスに戻って一直線に駆け抜ける。冷酷ポケモンだと定めた人間は、きっとよく俺たちの種族のことを分かっていたに違いない。いいや、もしかすると俺にだけ当てはまるのかもしれないけれど。
襲われている村人の横を走り抜け、血だまりを踏む。──……アヤトくんを優先するのは当たり前だ。俺が悩む理由はない。

だって俺は。彼の大切な人を見捨ててでも、アヤトくんを選ぶヤツだから。

『……っ祈!』
『うん……!』

俺が通り過ぎた後。
金色のチルットとニンフィアが一斉に雲一つない夜空を仰ぐ。瞬間、遠吠えに似た高音が聞こえた。すると突如、灰色の雲が現れてポツポツと雨を降らせる。あまごいだ。村一帯にのみ降っている雨は、次第に雨足を強くしてゆく。ろくに舗装されていない地面はぬかるんで足元を悪くするが、肺を殺す勢いで燃え盛っていた火は一気に落ち着いてきた。

二人の判断は正しい。土砂降りの中、水たまりを飛び越えた先ではエネくんとグレちゃんが人造ハーフと対峙していた。まだ葛藤しているのか、随分と鈍い動きで攻撃を避けている。きっと二人もここに留まり、伸ばされた手を振りほどくことができない優しさで村人を救うのだろう。

『…………』
『…………』

グレちゃんの横。一瞬だったものの、あの青い瞳と視線が交わった。その時だけやけに時間が長く感じたが、通り過ぎればあっという間にその姿は小さくなる。

──……だから、グレちゃんはアヤトくんに嫌われるんだ。我が子ならば真っ先に助けに行くのが当たり前だろうに、やっぱり彼はここに残る方を選んだらしい。思っていたとおりの選択に、走りながら思わずフッと笑ってしまった。
確かにグレちゃんはアヤトくんにとったら父親らしくない面が沢山あるだろう。けれどきっと、アヤトくんも分かっている。甘いと言われても仕方のないような優しさと正義感を持っている彼のこと。だからこそ、アヤトくんも本当は好きなんだ。そんな父親が、大好きなんだろう。

『俺がパパじゃなくて良かったね』

"お前が、ロロが!!リヒトを殺したんじゃないかっ!"

『……また怒られちゃうかな』

あの時に向けられた視線や声は、傷が癒えてもきっと忘れはしないだろう。いいや、忘れてはいけない。罪の重さを、そして現在進行形で背負うものも。

それでも、俺は君を選ぼう。ひよりちゃんに頼まれたからではなく、彼女の子どもだからではなく。
一緒に旅をしてきたのが、俺で良かったと言ってくれた君のためならば。
他は捨てても構わない。

……だから俺は嫌われるんだと、ずぶ濡れのまま見えてきた丘の上を眺めて走りながら笑った。





丘に近づくにつれて、耳鳴りがひどくなる。正直これ以上近づきたくないが、そんな場所に転がって這いつくばりながらも機械を壊している姿を見てしまったら行くより他ない。……やはりアヤトくんの姿はもうどこにもないけれど、彼ならばまだ居場所を掴めるかもしれないという可能性も期待して。

なるべく早く近づいて倒れない程度の場所で立ち止まり、前足にぐっと力を入れた。思い切り息を吸い込んでから吠える。機械の音波を打ち消すつもりでバークアウトを繰り出す。瞬間、横たわっていたそれがびくりと動いて耳を塞ぐ姿が見えるが、遠慮するつもりは毛頭ない。

バークアウトを続けながら近づいて、やっとの思いで機械を切り裂く。耐久性は考えていなかったらしい音波を発する機械は、あっけなく壊れてくれた。途端、耳鳴りも消えて擬人化してから背中から地面に倒れた。仰向けになりながら肩で息をしていると、目の端でのろのろと起き上がる青を捉える。

「耳が壊れるかと思ったよ。私は何か君に恨まれるようなことをしたかな」
「さてどうでしょう。それはともかく、君には似合わない可愛らしい耳が出ているよ。あ、尻尾も。あはは、相当弱っているらしいね」
「それはお互い様ではないかな」
「残念、俺は尻尾だけだ」

真っ直ぐに伸びた青い耳がぴくぴくと動いている。赤い瞳は俺ではなく、どこか遠くへ向けられている。この人はどこまでも責任感が強いらしい。自力では立てないぐらいになってもなお、咄嗟に感知をし始めるのだから。
俺もいつまでも寝転んでいる場合ではない。腕をついて上半身を持ち上げて、雨粒をぶら下げている前髪を掻き揚げる。

「──……見つけた。南南西の方向に蛇行しながら進んでいるものと、南南東へ進んでいるものがいるな。私を惑わすつもりか」
「で、どっちが本命か分かるの?」
「勿論だとも。南南西が本命だ。本拠地は南南東の森の中、以前キュレムが潰した研究所だが、彼の研究所は各地に点々とあるんだ。その一つが、南南西の森にある」

俺を見る目がぎらりと輝く。……この人、どこまで知っているんだ。もしや俺が時間稼ぎのためにキューたんに頼んで潰してもらったことも知っているのか。とりあえず鎌をかけられていることも考えて、知らないフリをして礼を言う。

「しっかし波動って便利だね。誰がどこにいるかまで分かるなんて」
「そうだろう、と言いたいところだけど。私も把握できる範囲が限られている」
「?、ならどうして今、」

俺の問いにフッと目を細めると、視線を別に移す彼。その視線の先を何となく追っていくと、ゼブライカが走ってきた。背中にニンフィアとエネコを乗せている。その隣あたりの宙にはチルットが羽ばたいている。みんな俺とおなじくずぶ濡れだが、頭上の真っ黒い雲はいつの間にか消えかけていた。

「……村人たちを助けてくれてありがとう」

駆け寄ってきた祈ちゃん、詩ちゃん、エネくんに支えられながら立ち上がると、彼が三人の頭を撫でて礼を言う。その横、すぐに擬人化して俺のところにやってきたグレちゃんが手を差し伸べてきた。褒められてもあまり嬉しそうではない三人を見てから視線を外して、手を握ると引っ張られる。少しふらつきながら立ち上がると、今度は俺たちの前に彼がやってきて、あろうことか頭を下げてきたのだ。

「君たちのおかげで、被害を最小限に留められた。本当に、ありがとう」
「気にするな、約束を果たしたまでだ」

そう返すグレちゃんに曖昧な笑顔を見せると、少し離れてからマントを脱ぎ捨てた。そして腰に付けていた鞄から傷薬を出して祈ちゃんたちに渡し始める。戸惑いつつも受け取るのを見ていると、なんと、三人は真っ先に彼を座らせてあらゆるところから傷薬を吹きかけていたのだ。その時の、彼の驚いていたあの顔は一生忘れないだろう。……祈ちゃんたちもまた、トレーナーに似た優しい子に成長しているというわけだ。

「ロロ」
「グレちゃんなら知ってるだろうけど、俺はこういうヤツなんだ。何とでも言えばいいさ」

捨てるように言葉を吐き出した。瞬間、横から手が伸びてきたと思えば俺の頬をぎぎぎ、と抓る。驚きと痛みでその手を叩きはらって頬を片手で押さえながらグレちゃんを睨むと、なぜかため息を吐かれた。

「急に何!?痛いよ!」
「本当にお前の馬鹿猫っぷりは変わらないな」
「なっ、」
「──あの場にいた村人は、みんな無事だ。祈と詩、そしてエネが頑張ってくれたんだ」
「……、え……?」

思わず、目を見開いてしまった。グレちゃんの優しい嘘なのか。
いいや、違う。目が違うと言っている。なら、ならば、俺が見て見ぬフリをしてしまった彼や手を伸ばせなかった彼女も、無事だというのか。冷え切った手が無意識に震えるのを隠せないまま、片手で口元を覆う。

「お前はとことん俺には弱みを見せたくないようだが、昔言っただろう。"俺もお前の背負ってやる"、と。忘れたのか?」
「──……はは、……まさか。忘れないさ。でも……有効期限が、あるもんだと、」
「馬鹿。無期限に決まっているだろう」

ツンとする鼻先と熱くなる目頭を前髪で隠すように俯いた。……ああ、そうだよ。俺は本当に、いつまで経っても馬鹿猫のままだ。思わず漏れそうになる熱い吐息を手で塞いで、震える肩を抑える。
ふと、空いている片手に手が滑り混んできた。小さくて温かいそれに驚いて下に向けていた視線を少しだけ横に移すと、そのまま下に引っ張られて自然とその場に尻から座り込んでしまった。驚きで引っ込んだ雫をさりげなく指先で拭ってから顔を上げると、いつのまにか祈ちゃんと詩ちゃんとエネくんに囲まれていた。その手には彼から貰った傷薬が握られている。

「な、ど、どうしたの……?」
「あの時は私、ロロにもなんて言葉をかけたらいいのか分からなかった」
「わたしは自分のことでいっぱいいっぱいで、気にすることもできなかった」
「ぼくもね、祈ちゃんに答えられなかったよ。……でも、今なら言える」

三人がそっと俺の前に座って視線を合わせる。それだけでどうしようもないのに、さらに柔らかく向けられる笑顔にもう、堪らなくなってしまった。じわりと滲んで世界をぼかしてゆく視界を手で塞いでしまう前、そっと渡された三人からの言葉にとうとう涙を零してしまう。

「一人で抱えなくていいんだよ。隠さないでいいんだよ。辛かったら、辛いって言っていいんだよ。……一緒に、がんばろう」

一緒に、がんばる。ありきたりな言葉がどうしてこうも沁みるのか。
様子を窺うように見ているであろう三人の気配を感じながら何とか答えようとしたのだが。……情けないことに、声ひとつを絞りだすこともできなかった。代わりに俯いたまま無言で大きく頷いて見せると、小さく安心したような声がぽつぽつ漏れる。

それから立ち上がった3人は、俯いたまま座り込む俺の真上から傷薬を振りかけはじめたらしい。一緒に嬉しそうな声が聞こえる度、また感情が溢れてしまう。

いつだって、与えられる本当の優しさはあたたかいものだ。人はきっと、これを幸せとも言うのではないだろうか。
俺には勿体ないぐらい降り注ぐそれに、しばらく顔をあげることができなかった。




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