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目の前に出されたマグカップを両手で挟み、揺らめく茶色の水面に視線を落とす。まだ湯気が出ている。
さて、なんと切り出そうか。なんとなく居心地が悪くて視線を下げる。

「大丈夫、ゆっくり話してごらん」

テーブルを挟んだ正面に座っているマハトさんが言う。それにぎこちなく少しばかり頷いてみせると、ふっと口元を緩めた。

「……その、……俺、」
「うん」
「──……俺も、……ハーフ、だったんです……」

マハトさんはどういう反応をするのか。恐る恐る顔を上げると、少しだけ赤い瞳が大きくなっているように見えた。驚いて、いるのだろうか。もしや確信は持っていなかったのか。しかしそれも一時のことで、またすぐにいつもの読めない表情に戻る。

「君はつい最近まで自分のことを知らなかったはずだ。今になってどうして」
「父さんが、……ポケモンになるところを、偶然、……見ちゃって、」
「今まで真実を隠されていたということかな」
「…………はい」
「確かに君ならば誰も君がハーフだとは思わないだろうし信じもしないだろう。……だからこそ、両親は君に真実を隠していた」

顔をあげると、マハトさんも俺を真っ直ぐに見ていた。

「私も親だからね、君より両親の気持ちのほうが分かる。君も愛されているんだね」
「…………」
「"それは親の勝手だ、俺はそんなこと望んでいなかった!"、というところかな?」
「その通りです」
「ふふ、昔リヒトに同じことを言われたよ。やはり君とリヒトは似ている。考えることが同じだもの。だからだろうか、君のことを特別扱いしてしまう」

そんな扱い方をされている自覚は全くない。というか、特別に扱ってくれるのならば有無も言わさず突然友人の首を刎ね飛ばしたりしないでほしいと思った。柔らかい表情を浮かべている彼を見ながら、ムッとして口を閉ざしていた時。
ふと、外から扉を叩く音がした。コン、ココン、といつものリズムとは違う。そうして音は止まり、しかし扉が開くことはなかった。代わりにマハトさんが席を立ち、フードを深く被る。まさか今の音だけで分かったのか……?

「すまないが少し急用ができてしまった。すぐ戻るからここで待っていてくれないかな。話はまたそれからゆっくり聞かせてもらおう」
「はい……。あ、あの、何があったんですか……?」

遠く、うっすらとまたあの警報が聞こえている。しかし以前と若干音が違っていたのだ。椅子に座ったまま振り返り恐る恐る聞いてみると、少しだけ間を開けてドアノブを握ったままの彼が言う。

「なに、少しばかり反抗期に入っただけさ。知識のある家畜は困ったものだ。しかしまあ……そんなに早く死にたいのなら望み通りにしてあげなくてはいけないね」

バタン。扉が閉まる。
一人取り残された俺は、未だ緊張している心臓のあたりを押さえながらゆっくり椅子に座りなおした。ぬるくなったマグカップに小さく震える指先を絡めて口まで近づける。傾けて一口飲むと、やっぱりすごく甘かった。

マハトさん。彼と話せば話すほど、訳が分からなくなってしまう。父さんとはまた違って俺的には話しやすい雰囲気ではあるが……どうも距離感が掴めない。親しみやすいかと思えば急激な差が見え隠れして、それこそ一体何を信じればいいのか分からない。

「……どうしよ」

ぼんやり天井を見上げて呟く。
……ハーフであるリヒトは、迫害されながらも決して人間やポケモンを傷つけようとはしなかった。むしろその逆で、受け入れられたい認められたいと切に願っていたはずだ。みんなと同じ位置に立ちたかったのだろう。しかしマハトさんはどうだ。リヒトとは全く違い、まさに"目には目を歯には歯を"だ。明確な敵意を示し、容易く殺そうとしている。長であるマハトさんがこれだ、村全体が同じ考えだと思っても違いはないだろう。

どうしてこんなにも考え方が違っているのか。むしろ、なぜリヒトだけ考えが違っていたのか。どうしてマハトさんは、自分の家族だけ村の外で暮らさせていたのか……。

「俺、ここに来たの間違いだったかなあ……」

頭を下げてうなだれる。ここには俺と同じハーフが沢山いる。誰にも気を遣うこと遣われることもなく、堂々としていられる。……が、ここでは俺は生きていけない。静かな狂気に支配されていて、外の世界を知っている俺はいつまでも狂気に染まることも出来ずにすぐに心が死ぬだろう。

「……、……」

……確かに、ずっと隠されていたことには腹が立っている。今でも怒鳴り散らしたいぐらいだ。……でも、よくよく考えてみると。
誰も、俺を否定しようとはしなかった。ハーフのくせに人間ぶっている俺を。誰も。見捨てることはなかった。
どうして祈やエネが俺のポケモンになってくれたのか。なぜ詩は、俺に自身のボールを預けたまま取り返そうとはしないのか。
──……それはきっと、。

『ハーフも堂々と生きれる世界を作りたい』

そういったリヒトを、俺は心の底から応援したいと思っていた。そうなればいいなと思っていた。……でも、今になって分かった。あれは上辺だけの思いだったのだと。
なぜなら俺は、俺は。自分がハーフだと分かった瞬間、あの場にいてはいけないと思ってしまったのだ。自分で無意識とはいえ差別化してしまっていた。応援すると言った俺が、リヒトの夢を妨げていたのだ。

「……っくそ」

握った拳で自分の膝に叩き落した時だった。
扉がぎこちなくゆっくりと開く。リヒトんちの母さんが帰ってきたのだ。腕には土のついた野菜を腕いっぱいに抱えている。豊作だ。

「あら、アヤトくん一人?マハトはどこかへ出かけてしまった?」
「は、はい。急用ができたと行って……でもすぐに戻るから、ここで待っていてくれと言われて、」
「ごめんね、何もないけれどゆっくりしてて」
「……ありがとうございます」

にこりと笑う彼女に軽く頭を下げる。するとボトリと音がした。そのままコロコロとじゃがいもが俺の足元まで転がってきた。立ち上がって拾うと、別のじゃがいもがコロコロコロコロ……。

「俺も運びます、待ってるだけじゃ暇なんで」
「そう?それじゃあお言葉に甘えちゃおうかな」

言われたとおり、指示されたカゴを手に取って持っていくとそこに野菜を全部入れた。それから二人で外に出て、家の横にある水道の前まで行く。どうやらここで一度軽く洗ってから、また家の中へ持っていくようだ。腕まくりをして蛇口を捻ると、勢いよく出てきた水が思いっきり顔に跳ねる。

「ふふ、大丈夫?男前が台無しね」
「お、お世辞が上手っスね」
「お世辞ではないわ。背も伸びたでしょう?……男の子って一気に身長が伸びるって聞いたけど、本当にそうなんだ」

……声のトーンで分かる。今彼女は、きっと。俺とリヒトを重ねている。つまり今の彼女は正常だ。
小さくなる声と一緒に隠すように顔を下げて、野菜を水に潜らせている丸い背中を見下ろした。一度視線を外してから、水はあえて出しっぱなしで前に座る。

「あの、……」
「──……あの子、何か言ってた?」
「……前に、進めと」
「…………そう」

肩を震わせながら静かに泣く彼女の前、俺はなんと言葉をかければいいのか分からないまま、その場でただその姿を見ていた。リヒトの言葉は俺だけのものではなく、きっと未だ立ち止まり続けている他の誰かにも向けられた言葉だったのだろう。


それからしばらくして野菜も黙々と綺麗に洗い終えたあと、言葉少なく家に戻ると木の実入りのクッキーと紅茶を出してくれた。一口かじるとほのかな甘みが口の中いっぱいに広がる。美味しい。

「……あの、聞いてもいいか分からないんですけど」
「いいよ、私が分かることなら」
「どうしてリヒトとあなただけ、村の外で暮らしていたんですか」
「あの人がそうしろと言ったの。きっとこの村の呪いから私たちだけでも逃がそうとしてくれていたんだわ」

思わぬ言葉に思わず面を食らってしまった。瞬きを繰り返す俺の顔を面白そうに見てクスリと笑い、ティーカップを片手に隣の席に座る。

「昔はこの村にもたくさんの人が出入りしていたらしいわ。ハーフを保護して一般社会で暮らせるように支援をしてくれる団体の人とか、研究者とか。今となっては有り得ない話なんだけれど」
「人間たちと仲良くしていた時もあったのに、どうして……」
「彼の先代である長が、研究者を殺してしまったって話よ。きっかけが何だったのかは分からないわ。でも、それを皮切りに仲違いしてしまった」

頷く彼女の横顔を目を見開いてみていた。ティーカップを置き、上に視線を向けるとテーブルの上で細い指をゆっくり絡める。

「彼、昔はバトルも進んでやるような人じゃなかったの。争うことや誰かが傷つくことを嫌っていた。……今があんなだから説得力がないと思うけれど。本当は、優しい人なの。でも長を継ぐことが決まってからおかしくなってしまった。……私も含めてね」
「…………」
「わかっているの、自分でも自分が狂っていることぐらい。でもね、狂っている中に正常なまま入ると、正常な方が狂っているように思えてきてね。めでたく私も仲間入りよ」

きっと彼女は俺から言葉を求めていない。多分聞いてもらいたいだけなんだと勝手に思い込んで、頷くだけにする。というか、なんと言葉を返せばいいのか分からないからもはや頷くしかなかった。

「私は信じていたの。他のどのハーフよりも優れていて、尚且つ人間に近い容姿を持つリヒトこそ、ハーフを導く神だと信じていた。いつかリヒトを筆頭に、世界が変わると思っていた。……でも、……そうね、」

大きな間違いだったみたい。、そういってぎこちなく笑ってからさりげなく席を立つ彼女の背を見た。それからカップの中に視線を落として揺らめく自分の顔を見る。

「後悔、しているんですか」

視線をあげて訊ねると、ゆっくり振り返る彼女が小さく頷いてから指先で目元を擦る。

「あの子のこと、……もっときちんと、見てあげればよかった、……特別だとか、神様としてではなく。私の、子どもとして、……見てあげればよかった……っ」

何だって、失ってから気付くものだ。ああすればよかった、こうすればよかったって。俺だって、何度も遅すぎることばかり考えていたから分かるんだ。……彼女の気持ちはよく分かる。だからこそ、慰めも言葉も不要だということも十分分かっていた。

静かに泣く彼女を無言で見ながら、すでに扉の向こうにいるなんてことは露知らず、俺はマハトさんの帰りを待っていた。

それからぼんやりと思う。
研究者や世間との溝をなんとか埋めて、昔のように人間とポケモンと一緒に仲良くすることはできないのだろうか。
──……リヒトの夢を、同じハーフである俺が叶えることはできないのだろうかと。
ふと、思ったのだ。




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