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リヒトくんのことをこの時になって初めて聞き、私はひどく驚いて動揺を隠せなかった。当時は大々的にニュースもやっていたとロロは言っていたが、私とグレちゃんは何一つ知らなかったのだ。それはなぜか。……全部、キューたんに情報を遮断されていたからである。

思えば、テレビは見るな・外には出るなと毎日のように言われていた時期があった。いくら文句を言っても相手がキューたんではこちらが折れるしかない。軟禁生活のようにもなっていたあの時を思い出し、あれはこういうことだったのかと今になって分かった。私たちに心配をかけたくなかったからなのか、それとも私たちがアヤくんのことを知れば飛んで行くことを予想していたからなのか。どちらにせよ、彼なりに私たちのことを想っての行動だったのだろう。

それでも隠されていた事実を知って、どうしてもっと早くに教えてくれなかったのかと強い気持ちが湧いて出ていた。もしも知っていたのなら、自分の子どもがひどく辛い思いをしているときに寄り添えてあげられたのに。例え気持ちを完全に理解できなくても、抱きしめてあげられたのに。
そう思うと、どうしても強い不満を感じてしまった。

「アヤくん……」

ポケモンセンターの待合ソファに座りながら両手の指を絡ませてから握りしめる。みんなを回復させている間にも、考えるのはアヤくんのこと。過保護だとか子離れができないとか言われても、やはり心配なものは心配なのだ。ましてや、初めてあんなに泣いている姿を見てしまった後だ。どうにも落ち着かない。

俯いたまま呼ばれるのを待っていたときだった。通信機が鳴った。慌てて取出しボタンを押すと、灰色が映る。思わず怒鳴りたくなるのをグッと押さえて、言葉を無理やり飲み込んだ。やけに薄暗い背景に映える髪がさらりと流れるのが見える。

『その様子だと、大丈夫だったようだな。思った通りだ』
「キューたん今どこにいるの?聞きたいこと、あるんだけど」
『言われなくても分かってらあ。後でしっかり怒られてやる』
「……分かった。なら今は我慢する」
『それよりテメエ、顔色悪いな。"あれ"、見たんだろ』
「大丈夫だよ」

自分でも分かるぐらい下手くそに笑うと、いつも以上に眉間に皺を寄せて画面越しに睨まれた。
チョンやあーさんに聞いた話、リヒトくんの事件の時も今回と同じくハーフの子たちが沢山駆り出されていたらしい。……ということは、アヤくんたちは今日よりもっとひどい光景を見ていたに違いない。あのロロでさえ、口を固く閉ざしていたのだ。きっと私が想像できないようなとても残酷な出来事だったのだろう。

それでもあの子たちは、乗り越えてみせたのだ。心の傷は残っている。けれど力強く、しっかり前に進み続けている。

「親としても大人としても、あの子たちが頑張っているときにみっともない姿なんて見せられないよ」
『まあ、いいが。シマシマ野郎にでも吐き出しといて、とっととそのツラもとに戻しておいたほうがいいぜ』
「あはは、ありがと。早く帰ってきてね、待ってるからさ」
『…………おう』
「色々聞かれる覚悟もしておいてよね」
『へいへい』

プツン。いつも通り一方的に切られて画面が暗くなる。
……やはり、キューたんは私とグレちゃんを危険に晒さないために隠していたのだと思う。彼なりに色々考えていたこともあるだろう。であれば、私は強く怒れない。結果はどうあれ、すでに過ぎ去ってしまったことでもあるし今さら責めても仕方がない。
なるべく落ち着いて、キューたんの話を聞くように心がけよう。うん、しかし。落ち着いていられるか、今から心配だ。

「ひよりさん、お待たせいたしました。回復終了しました」
「はい」

ジョーイさんに呼ばれてソファから立ち上がる。全てのボールを受け取ってベルトに付けると、久しぶりにその重みを感じた。嬉しい気持ちで外に出て、薄く白い霧に覆われている森を見つめて気持ちを引き締める。
ボールを一つ手に取って、真ん中のスイッチを押す。出てきたゼブライカの鼻先に両手を添えて寄りかかる。

「大丈夫だよ、心配しないで。……でも、後でちょっとだけ。甘えても、いいかな」

切れ長の青い瞳と目を合わせると、返事をするように鼻先が頬にすり寄せられる。もう言葉は分からないけれどなんとなく「お好きにどうぞ、ご主人様」なんて言われているような気がして、目を細めてから抱きしめた。
さあ、今度はアヤくんと交代だ。安心して任せてもらえるように絶対に怖がる素振りは見せないように。
乗りやすいように脚を折り曲げて低くしてくれたその背に乗って、グッと高くなる視線に背筋を伸ばす。

「行こう、グレちゃん」

カツン。蹄の音が鳴り、次第に速度を速めてあっという間に町を駆け抜ける。そうして再び、ジャイアントホールを隠すように覆っている森へと入って行ったのだった。





「陽乃乃さん、本当にごめんなさい……っ!」

頭を深々と下げると、すぐさま声が飛んできた。冷たい川の水でじゃぶじゃぶ洗っていた手を止めてから手を小さく振って軽く水気を払うと、わたしのすぐ目の前にやってくる。言葉をかけられても顔を上げないわたしに気遣うように差し出される手。

「気にすることはないよ。詩ちゃんは間違ったことをやった訳じゃない。それに僕だって怪我してないし」

ね?、のタイミングで泣きそうになりながら顔を上げると、前から変わらない笑顔でわたしを見ていた。思わずそれにはニヤけそうになってしまって慌てて姿勢を戻して一歩後ろに下がる。
……や、やっぱり陽乃乃さんはかっこいい。それに優しくて強いし、大人の落ち着いた雰囲気がまた堪らない。どこかのデリカシーの欠片も無いクソガキとは大違いだ。

「でも驚いたな。まさかあんなに高い壁を一気に作っちゃうなんて!さすが詩ちゃんだよ」
「そ、そんなこと……」

とは言うものの、内心すでにお祭り騒ぎ。だって、陽乃乃さんに褒められたんだもの!嬉しくないわけがない。隠すように火照る頬に両手を添えながら、ハッとした。気付いてしまった。よくよく考えたら今、二人きりだ。……ど、どうしよう。何を話せばいいんだろう。さっきまでは早く謝らないと、という一心だったが、それが過ぎた今、今度は話題に困ってしまう。いや、話したいことは山ほどあるけれど。……そう!陽乃乃さんを目の前にすると、上手く話せない!!

「ねえ、詩ちゃん」
「はっ、はい!なんでしょう!?」
「アヤトくんは、詩ちゃんから見てどんな子?」

一人舞い上がっている中、再び赤くなったタオルを水の中に潜らせている陽乃乃さんがそう聞きながら私を見る。一瞬、どうしてアイツのことなんか。と思いながらも、わたしも最後の一枚のタオルを手に取り彼の隣にしゃがんで川に浸ける。じんわりと赤色が滲み出てきて流れてゆくのを見ながら思い返してみた。

「どうしようもないクソ男ですよ。祈のブラッシングも他人任せですし、弱いし大して外見もかっこよくないくせに妙に粋がっているし自信家だし。それにお母様を欲望丸出しの汚らわしい目で見るし、わたしを見るとき必ず胸を見てから視線を上げるんです。最低だと思いませんか!?」

ごしごしとタオルに八つ当たりをしていると、隣で曖昧に陽乃乃さんが笑う。

「でも、……」
「でも?」
「……ここから先は、アヤトには内緒ですよ」

アイツが知ったら調子に乗りそうなので。、付け加えると陽乃乃さんは大きく頷いてみせた。それから視線を水面に移して、すでに透明に戻っている川にゆらゆらと揺れながら映っている自分の姿を見る。

「確かにダメな点が多いけれど、……人は、悪くない、と思います。意外と責任感ありますし、いざという時に動ける勇気も持っている。案外仲間想いですし、当たり前のことにも感謝の気持ちを忘れないし。辛くても、ゆっくり一歩ずつ進んで行く心の強さも持っている。……そういうところは、す、……嫌いじゃない、です」

すぐ泣いたり、どうしようもなく頼りないときもあるけれど。でも、そういうのも全部まとめて考えてみても、ボールを渡した相手を間違えたとは思えなかった。……まあ。わたしがアヤト以外のトレーナーに仕えたことがないからというのもあると思うけれど!悪くは、ないんじゃない。

「詩ちゃんがそういうのなら、きっとアヤトくんも素敵なトレーナーなんだろうね」
「いっいいえ!?ぜんっっぜん素敵ではないですよ!?ただ悪くはないというだけで、!」
「あはは。でもよかった。詩ちゃんもみんなも元気そうで安心したよ。殿も心音姉さんも、詩ちゃんのことをすごく心配していたんだ。……いつになったら、戻ってきてくれるのかなって」
「お父様とお母様が……」

ぎゅっとタオルを絞って立ち上がる陽乃乃さんの横、大好きな二人の顔を思い出す。……実を言うと、自宅へ帰りたいと強く思うこともあった。今ももちろん、あの優しい空間を恋しく思う気持ちはあるけれど。
今のわたしは、アヤトのポケモンだ。なったからにはトレーナーを支えるのはもちろん、祈とエネを守りたいという自分の意志もある。もう、親に甘えて守られるだけの雛鳥ではない。

拳を握り、立ち上がる。陽乃乃さんに身体を向けて、真っ直ぐに見つめて口を開く。

「今はまだ、戻れないけれど。……きっと、きっと!わたしは今よりももっと成長してから、ご挨拶に伺いますと。伝えてください」

わたしの言葉を聞くと、陽乃乃さんが目を大きく見開いてからふっと笑みを零した。それを見て、わたしはもちろん慌ててしまう。な、何か変なことを言っちゃったかしら!?伝言を頼むなんて調子に乗りすぎている!?再び熱くなる頬に両手を添えて、必死に今の出来事を思い返していると。

「ごめんね、かまをかけてみたんだ。詩ちゃんも、沢山辛いことがあったでしょう。だから戻りたいって気持ちも、どこかにあるんじゃないのかなと思って」
「ない、わけではないですけど……」
「……詩ちゃん、本当に強くなったね」
「いえ。わたしはまだまだです。いつ祈とエネに抜かれてしまうのかとヒヤヒヤしているんですよ」

さあ、そろそろ戻らないと。、タオルを抱えてわたしを促す背中に少しばかり寂しく思いながらその後ろをのろのろと歩き始める。もう少し、二人きりでお話がしたかったな。なんて。
ふと、陽乃乃さんが立ち止まって振り返るとわたしを見ながら微笑んだ。

「あのね、殿たちが心配しているのは本当だよ。でも、二人とも詩ちゃんが戻ってくるとは思っていないみたいだった。"あの子は途中で逃げ帰ってくる子じゃない"ってさ」
「……!」

お父様もお母様も、離れていてもわたしを信じてくれている。それがどれほど嬉しいことか。……そうだ。わたしを支えてくれる二人がいるように、わたしもアヤトたちを支えないと。義務ではなく、わたし自身がしたいこと。

「陽乃乃さん、ありがとうございます。なんだかすごく元気がでました」
「それなら良かった。そんな詩ちゃんに、一つ伝えておくことがあるんだ」
「?、なんでしょうか」

陽乃乃さんの視線がわたしの顔から下に落ちる。……ど、どこを見ていらっしゃるのか。分からないけれどものすごく恥ずかしいことに変わりはない。なんだろう、なんでしょう!?
陽乃乃さんがわたしのすぐ目の前にやってきて、タオルを抱えていないほうの腕を持ち上げる。スッと伸ばされる指先に、もう心臓がはち切れそうな思いがした。思わずぎゅう、と目を瞑ると。首元で服が擦れる音がした。

「詩ちゃんが、さらに強くなりたいと願うのならば。……この赤い宝石を壊すといいよ」
「こ、……これを、ですか……?」
「うん」

陽乃乃さんが摘まんでいたのは、襟の部分。丸い形をした襟に付いている赤い石のことを言っているらしい。でもこれ、お父様からいただいたものなのだけれど……。戸惑うわたしを見透かすように、赤い瞳が細く弧を描く。

「ちなみにこれは殿からの伝言だよ。これで壊しやすくなったかな?」
「ふふ、はい!……どうしてもというときに、壊すことにします」

宝石に手を当て、また歩き出す。わたしはまだまだ、頑張れる。これを壊すときは、そう。自分自身に限界を感じたときだろう。
歩いていくと、うっすらとアヤトたちの声が聞こえてきた。思わずホッとしてしまったのは内緒だ。

「詩ちゃん、これからもアヤトくんと仲良くね」
「それは……い、いえ、!いくら陽乃乃さんのお言葉でも聞けません!」
「そうかなあ」
「そうです!」

笑う陽乃乃さんに向かって頬を膨らましてみせてから、背中を向けて先に祈たちのところへ向かう。
アヤトとは仲良くできないけれど。それでもやっぱり、ここがわたしの居場所で間違いないと、密かにそう、思った。




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