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俺は生まれてこのかた牧場というところに行ったことが無かった。が、実際に来て見て歩き回るとまあ広いのなんのって。遠く、木と木の間にすっげーー小さく見える茶色い平行線みたいなのが柵。つまりあそこまではこの牧場の敷地だということだ。反対側、これまたすっげーー向こうに川が流れていて、その川までが牧場となっているらしい。……いや、ほんっとにここの牧場は俺の想像を遥かに超える広さすぎてヤバイ。

『あらあら、なんだか不思議な匂いのする子ね』
『どおれ?あらあ、本当。僕ちゃん、ひとりい?手持ちポケモンはどうしたのお?』
『それより一緒にお昼寝しましょうよ。すっごく気持ちいいんだから!』

「…………いえ、結構です」

メエメエ。耳障りな高い鳴き声と一緒に副音声のように女の声が沢山聞こえる。うるさい。うるさいが、……正直、悪い気はしない。目を瞑れば。鳴き声をシャットアウトすれば。
……俺は歩き疲れて、ただ草の上で膝を抱えながら座っていただけなのに。一匹だったはずのメリープが二匹に増え、三匹、四匹……。膝を埋めていた俺が次に顔を上げた時、俺はメリープに囲まれていた。

始めのうちは、そりゃ俺だって珍しく張り切って草むらを慎重にゆっくりと歩きまわっていたさ。が、しかし。今現在での一番の収穫と言えば、牧場に来るまでの道中とは違く野生のポケモンと何度も会ったというところか。それでも俺が気付いてポケモンと目が合った瞬間、真っ先に逃げ出して行く奴ら。それを繰り返してもう何度目になるのかも分からないから、多分すごく遭遇率は高いんだろう。でもまずはどうにかして野生のポケモンをその場に留めなければ、捕まえようにも俺が体当たりをしようにもどうにも出来ないのだ。またその方法もあるわけがなく……あ、また詰んだわ。俺もう駄目だ。あー、駄目だ。やる気なくなった。駄目。

「ていうかリオル一匹もいねえしよお……」

芝生の上に寝っ転がろうと両腕を伸ばして後ろに傾いた瞬間。今までにないぐらい柔らかすぎる何かに俺の身体が埋まった。驚いて一度飛び起き後ろを見れば、いつの間にか俺の真後ろで一匹メリープが寝ていたらしく面白そうに笑いながら俺を眺めているではないか。

『あらあらあ、僕ちゃんもリオルちゃんたち目当てだったのねえ』
「……あの。……やっぱりリオルって人気なんですか」
『そうよお。ここに来るトレーナーちゃんたち、殆どがリオルちゃん目当てなのよお。だからねえ、あの子たちも警戒してなかなか出てこないのよお。諦めて帰るトレーナーちゃんもたくさんいるわよお。僕ちゃん、頑張れえ』
「…………」

普通にメリープと話す俺。何故かメリープに励まされる俺。……いや、意味分かんないから。
確かにゲームでもリオルは本当に出現率が低かった。だからって現実でも同じって、そりゃねえよ。ゲームとは違って現実では数に限りもあるだろう。もう他のトレーナーに捕まえられて全然いねえとかありえそう。……うーわ、また頭痛くなってきた。

『ほら、やっぱりお昼寝するのね!わたしが枕になってあげるう!特別よ!』

メエメエ。頭を抱えていると、正面にいたメリープの毛に押し倒されて半ば強制的に再び身体が羊毛に埋まってしまった。頬に綿みたいなのが触れては撫でるように擦れる。……やばい。超気持ちいいし、獣なのに臭くない。いや、いい匂いもしないけど臭くないのは不思議だ。なんでだ。メリープといえど、擬人化すれば女の人になるからなのか。分からん。

『ねえ、そういえば。貴方、どうして私たちの言葉が分かるの?』
「え?」
『あらあ、本当。僕ちゃん、どうしてえ?』

ボタンみたいな丸すぎる沢山の目から放たれる視線が、俺に向かって一気に集中する。おかげで毛の気持ちよさに思わず緩んでいた顔もきゅっと引き締まってしまったではないか。

「ど、どうしてって、……」

そういえば、初めてポケモンセンターで出会ったポケモンでもあるタブンネにも同じことを言われていた。あの時はロロも無言で"話すな"って感じだったけど、結局どうしてなのか聞きそびれていた。どうして?なんでそんなことを聞くんだ?

「どうしてって、ポケモンも人間になれるし人間の言葉を話しているじゃないですか。だから俺でも、あなた達が何を言っているのか分かっているんじゃないっすか?」

ポケモンがポケモンの姿でいてくれないと、ほんと人間と区別がつかなくなりますよ。、と言葉が続くはずだった。……そのはずだったのだけれども。メリープたちが一瞬静まり、次にはざわざわと互いに顔を見合わせ小声で何かを話しはじめたのだ。つい先ほどまでの平和だった時間が一転、何やら不穏な空気になったのは俺でも分かる。

「あ、あのお……?」
『──……貴方、ポケモンの匂いでもないし人間の匂いでもないわね』

一斉に鼻先を向けられて匂いを嗅がれるのは流石に恥ずかしい。ていうか俺の匂いが人間の匂いじゃないって、多分それお前らメリープの匂いが俺の服にも付いたからだろーが。二つが混ざればそりゃ別の匂いになるわ。
慌てて立ち上がるも鼻先は向けられたまま、囲まれ続けて身動きもとれずに途方に暮れる。

「あー、あの。……俺そろそろ、」

──……ふと、また別の視線を感じて顔をあげた俺の先。鬱蒼とした森の中、さらに木々に隠れて身を隠すようにしていた何かとばっちり目があった。
あかい、あおい、目。……多分、視線を交えていたのは一秒足らずというぐらいだろう。なのに、何故かものすごく長い間見ていたような気がしたのだ。
直後、それが林の中に飛び込むように姿を消すと葉が擦れる音が素早くどんどん離れてゆく。

「……赤い目と、青い目……?……いや、青い耳、──……ッああー!」

メエ!、俺の大声と共に短い鳴き声が聞こえ、沢山の丸い目がさらに丸くなっていた。俺の声に驚いたんだろうが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。そう、さっきのは多分!俺が昼間っからずっと探していたリオルだった!リオルが俺のことを見ていたんだ!

「ちょ、退いてください!退いて!」
『僕ちゃん、ちょっと待ってえ!大切なお話が、』
「すみません、今それどころじゃ無いんです!リオル、リオルいた!」
『そんなはず、──……もしかしてえ、』

もしかして、その言葉の続きを聞く前にバッグを急いで肩に掛け、メリープの間を無理やり掻き分け走りだす。メエメエ。離れてゆく鳴き声の中に何か俺に向かって言っているような声も聞こえるけれど、聞こえないフリをして速度をどんどん上げていく。

──……走って、走って。リオルであろうあれが走り去って行った方向に向かって、俺はとにかく走った。邪魔な枝は腕で払い、背丈の高い草も足を思い切り上に持ち上げ踏みつぶす。猪突猛進。まさにその言葉が、今の俺にぴったりだ。

「はあ、はあ……、」

そうしてじんわり額に滲む汗を手のひらで拭い、すぐ手前で揺れ動く林をじっと見た。体勢を低く構え、とりあえず手にはクソ猫から貰った空のボールを握りしめ。
……林の揺れが一時止まった、次の瞬間!

「うおらあああっ!」
『うおっ!?』

体当たり、なんて出来るわけがなく。両腕を広げて素手でとっ捕まえるポーズをしながら全速力で走っていけば易々とかわされた上に、勢い余ってそのまま林にダイブする。そうして俺は両腕いっぱいに植物を抱きしめ、俺を拒否するように伸びている沢山の枝たちに地味に痛い傷を負わされた。

『な、何をしているんだね、君は……』

垣根のような林に覆いかぶさったまま伸びている俺の後ろ。……バフゥン。なんて、ハーデリアの呆れたような声が聞こえた。
前途多難。まさにその言葉が、今の俺にはぴったりだ。




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