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垂れてきた汗を拭って、息を大きく吸い込んだ。それから吐いて、また汗を拭う。
聞いて驚け。なんと俺は今、……門の、目の前にいる。流石イオナせんせーだ。ここへ来るまで、確かに小さな物音とかにヒヤリとしたことは何度もあった。それでもここまで来れたのだ。まさか、今見えているこの門まで幻術による偽物だとかいうオチじゃないだろう。

「……」

とりあえずロロのボールだけ腰に付けておいて、残りは服の色々なところに隠すように入れておく。無駄なことかもしれないが、見せびらかすようにベルトにつけておくより見えないところに置いておいたほうが、何かあったときに多少時間が稼げるだろう。
さて、ここからどうするかが問題だ。
一番俺にとって嬉しい展開は、真っ先にリヒトの母親が出てきてくれることだ。……まあ、当然期待はしてないけれど。だって村に何人いるか知らないし、ましてや外敵がやってきたとき真っ先に先頭に立つのは男と決まっている。アニメでも漫画でも、実際の戦争でも、女子供は奥で身を寄せ合って隠れているのが当たり前というものだ。

(迷い込んだフリでもしてみるか……?それとも怪我をして弱っているように見せて、……いや、)

いいや。俺は彼らに危害を加えに来たわけじゃない。別に隙を見せて相手を油断させて、どうこうするわけじゃないんだ。何も変に演じる必要はないはず。

顔を上げ、門を見る。門の前には誰もいない。けれど姿が見えないだけで、必ず誰かがいるだろう。ここまで来たんだ。もうこんなにコソコソしなくてもいいだろう。例え幻術をかけられようと、もう一歩進めば村は目の前なんだもの。進む先さえ分かっていれば、必ず村には入れる。

「……っしゃ。行くぞ」

屈めていた身体を伸ばして真っ直ぐに立つ。背の高い草の先端が肩に当たる。それを掻き分けながら、門を目指して真っ直ぐに歩き出す。どくん、どくん。心臓は激しく鳴り響いているが、気配はまだ何もない。行ける。行ってやる。
地面を踏みしめるとパキパキと何かが砕ける音がした。草で足元が見えないけれど、きっと木の枝が何かだろう。これが罠だとしてもこれだけ堂々と歩いていれば逆に怪しまれないかもしれない。とにかくわざと足音を立てながら進んでいくと、。……やっと。久しぶりに道らしい道に出た。地面の間に規則正しく大きな石が埋め込まれていて、久しぶりに人の気配を感じた。姿は全く見えないが、……確かに、この門の向こうには誰かがいる。

「……何者だ」
「!」

急に声が降ってきた。どこから聞こえたかすら分からない。気が付いたときには背後に気配があって、両腕がいとも簡単にまとめて相手に掴まれていた。きつく掴まれて思わず「うっ」と声を漏らしてしまった。すぐ後ろにいる。しかしどんな外見なのかこれっぽっちも見えやしない。耳元で低音が、俺を威嚇するように静かに訊ねる。

「どうやってここへ来た。ここがどのような場所だか分かってきているのか」
「……分かって、ます。ここを目指して、やってきました」
「今度はどのように我々を捕らえるんだ?何に使用するつもりなんだ?」
「ッ違う!俺はそんなことするためにここまで来たんじゃない!」

全身を使って無理やり振り返って叫ぶと、男とばっちり目が合った。深く被ったフードから切れ長で鋭い赤い両目が俺を冷たく見下ろしていた。……視線で、殺されると思った。一瞬にして怖くて震えあがったが、その目はどこかで見覚えがあった。青い髪に赤い目。──……イチかバチか。小刻みにひっそり震えながら、唇を無理やり割って開いて見上げる。

「あなたは、もしかして、リヒト、……リヒトブリックの父親……?」

ぴくり。確かに男は反応を示した。一瞬視線が和らいだが、すぐまたナイフの切先を当てられているような感覚に陥る。フードも被ったまま、俺の腕も離す気配は無い。後ろ手にされたまま、無反応の男の手前でうな垂れる。──……瞬間、違和感が身体を一直線に走った。この感覚、俺は知っている。

「今のは波動、ですね。……リヒトにたまにやられてました」
「──……君、名前は」
「アヤト、です」

うな垂れたまま答えると、パッと腕を離された。驚いて一歩距離を開けてから後ろを振り返ると、丁度フードに手をかけて後ろに投げるときだった。
低い位置で一つに纏められた青く長い髪が流れる。切れ長の赤い目が俺をゆっくりと見て、スッと細まった。

「……確かに。私が、リヒトブリックの父親だ」
「ど、どうも……」
「驚かせてしまってすまない。君のことはよく聞いているよ。随分とリヒトが世話になったようで」
「は、はあ……」
「…………」

前に手を出されたから、おずおずと握り返した。が、いきなりリヒトの父親と会えるなんて。運がいいと思うのが当たり前だろうが、どうもうまく事が運びすぎて逆に怖い。
しっかり握手を交わしてから、その場から動かないままリヒトの父親が俺に言う。

「それで、君はどうしてここへ来たんだ」

瞬間、再び緊張が走る。……分かる。俺はまだ、怪しまれている。
例え俺のことを人づてに聞いていたとしても簡単には村へ入れてはくれないらしい。そういえば、この村はリヒトの父親が頭をやっているんだったっけ。ならば最初に出てきたことにも理由はつく。この人はこの人で、村を守ることに必死なんだろう。信じるよりも疑うことから入っていることが何よりの証拠だ。

「あの、別に、村に入れなくてもいいんです。……ただ、リヒトのことでリヒトんちの母さんに話したいことが、伝えたいことがあって、。……あ、あの、ここってテレビとか、」
「……知っている。もう、知っているさ」
「、…………」

ハーさんの情報は確かだった。……彼女は、この村にいる。そして薄々分かってはいたが、やはり既にリヒトのことは耳に入っているのだろう。それでもきっと彼女は知らない。自分の息子の最期のことを。正直、そこまで話すべきかどうかは会ってみないと分からないが、このことを話すとなると少なからずロロの傷も抉ることになる。事前に了承を得ているとはいえ、俺自身が当たり前のように乗り気ではない。

「君は、わざわざ彼女に会うためにここまで来たというのか」
「……まあ、そうなんですけど。でも、いいです。リヒトんちの父さんに会えたし、……もう、知っているなら、別に、」
「……」

少し考え込むように俯いてから、俺を見て。それから腰に付けているボールを見てから、なんと、全身の色々なところに隠してあるボールの位置あたりに視線を動かしていたのだ。それに一瞬だけだが焦った。なぜかって、そりゃあその内の一つにはシュヴェルツェが入っているからだ。もしもこれで中身まで透視なんかでもされていたらと思うと思わずドッと汗が出る。いや、実際のところボールの中身までは流石の波動でも見えないとは思うが。……というか波動ってこんな使い方もできるのかと正直めちゃくちゃ驚いている。この人、只者じゃない。

「なぜ君が一瞬焦りを見せたのかは、あえて聞かないでおこう」
「……ありがとうございます」
「出会ってから今この瞬間まで、君からは全く悪意を感じない。寧ろ……我らに対して寄り添おうとしている?同情、共感……なんだろう、どれもしっくりこないな。いやしかし、私が言うのもおかしいが、君は変わった子だね」

フッと小さく笑みを見せる彼を見て、釣られてぎこちなく笑って見せた。
……丁度そのとき。ガコン、と。山のようにそびえたっていた門が、ゆっくりと開き始めたのだ。驚いてそれを見ていると、リヒトの父親が俺の横を通り過ぎてから門を背にして俺の前に立つ。

「ボールの中の彼らは我々に対してどう思考しているかは分からないが、トレーナーである君なら彼らが今後どう行動しようが抑止出来るだろう」
「……入って、いいんですか……?」
「ああ。……君は、"特別"だよ」

彼越しに次第に見えてくるその全貌に固唾を飲む。彼が動き、俺の先に門を軽々と通り過ぎた。その後ろ、一人で開いた門の前で立ち尽くしてしまう。
……確かに村だ。家が建ち、畑があり、住人が歩いている。ありふれた中に、何とも異様な光景があった。そこにいる人たちをみて、改めてリヒトがどれほど完成されたハーフだったのかを思い知ってしまったのだ。あの姿かたちで歩いていることが、ありえない。

「驚くのも無理はない。君はずっとリヒトというハーフしか見ていなかったのだから」

俺に気付いた彼が振り返って言う。それに慌てて視線を合わせて、何となく後ろめたい気持ちからすぐさま視線を下に動かす。

「い、いえ……その、すみません、……」
「ハーフをリヒトしか知らなかったのなら、当たり前の反応だ。……そう、リヒトは別格だったんだ。あの子ほど完璧に近い子は、ここにはいない」
「……、……」

立ち尽くしたまま踏み出せない俺の手前。彼に腕を引かれ、とうとう足を動かした。
……境界線を越えた。……越えて、しまった。
がらりと変わる空気に緊張しながら、目から入ってくる情報を「これは現実だ」と頭の中で言い聞かせる。顔は、平然を装うことに必死だった。

「──ようこそ、ハーフの村へ」

両腕を広げて俺を歓迎する彼の手前、もはや作り笑いすら出来ないでいた。
ポケモンであるリヒトの父親が守るこの村は、……未だ俺の目には、この世界のバグとして映っている。




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