15

オレの記憶、つまりリヒトの記憶上のアヤトはとても友好的に接してくれていた。親友だという記録もある。言葉の意味は分かるが、オレには親友がどういう関係を表しているのかよく分かっていない。
リヒトの記憶を引き継いでいる以上、言葉の意味は分かる。が、そこに感情や心情が伴う単語の本当の意味は分からないまま。喜怒哀楽。意味は分かる。しかしどういったときに悲しむのか。どういうときに楽しむのか。
オレにはどうも分からないことばかりなことが、この世界には溢れていた。

「…………」

アヤトが部屋を出て行ってからどれほど経っただろうか。胸元に手を添えたままベッドの端に座っていた。アヤトはなぜ怒っていたのか。オレはなぜ思考回路が鈍っているのか。心臓の辺りに違和感を感じるのはなんなのか。リヒトが言っていた意味が今なら分かる。人の心はとても難しい。……リヒトでさえ分からなかったことを、どうしてこのオレが理解できようか。
……オレ自身は即廃棄でも構わなかったのだが、リヒトと約束をしてしまった以上、そのことについては考えないようにしよう。

「──……あの、」
「失礼するわよ」

遠慮がちにドアを叩く音が聞こえたと思えば、オレが返事を返す前に扉が思い切り開いた。ニンフィアの方はアヤトの手持ちポケモンで、名は祈。ライバル、いい奴と記憶している。そしてもう一人が、色違いのチルット。名は詩。恐ろしいと記憶している。……恐ろしい、とは。

「ちょっと、話いいかしら」
「構わないが、オレはアヤトにしか話すつもりはない」
「……どうして?」

あからさまに表情を歪める詩の隣、祈がおずおずと訊ねてきた。祈とオレの間に立ちはだかる詩は、さながら祈の護衛といったところか。オレのことを警戒しているのが伝わってくる。

「オレはリヒトから、アヤトには全てを話していいと言われている。しかしその他となると、許可は得ていない」
「許可って、あんた自身はどうなのよ?アヤト以外にも自分のことを知ってほしいとか思わないの?」
「思わない」
「……はあ。だめね、これ」

だめ。何がだめなのか。両方の手の平を上に向けて肩をすくめる詩を見ながら思った。祈は、じっとオレを見ていて、ふと、一歩前に出る。

「アヤトがここに居れば、あなたは話してくれるの?」
「そうだな」
「わかった、連れてくる」
「待て。アヤトなら先ほどこの部屋を飛び出していったばかりだ。そこから考えるとここへはしばらく来ないだろう」

オレの言葉に詩と祈が顔を見合わせた。詩は頷きを繰り返しているが、祈は小首を横に傾けて詩を見ている。

「なるほどね。だからアイツ、すぐベッドに逃げ込んでいたんだ」
「……どういうこと?」
「きっとこいつが変なこと言って、アヤトのこと怒らせたのよ」
「何故分かる?どこかで見ていたのか?」
「まさか。あんたたちのやり取りに興味なんてないわ。あんたもアヤトも分かりやすいから、二人にしたらどうなるかなんて手に取るように分かるだけ。エネなんかアヤトが部屋に入ってきた瞬間に何かに気付いているように見えたけれど」
「エネと詩、すごい」

オレは分かりやすいのか。どこをどう見て、そう判断されたのか。分からないが、詩の言っていたことは合っている。リヒトが記憶していた"恐ろしい"とは、観察力がずば抜けていて"恐ろしい"という意味なのでは。いや、そうしたらエネコ、名はエネ。も、十分に"恐ろしい"と記憶するはず。だがリヒトの記憶では、エネについては"女の子のような見た目、近寄りがたい"だけ。……どういうことだ。

「祈、アヤトを連れてきましょう」
「しかし、またアヤトを怒らせてしまうのでは」
「大丈夫よ、今度はわたしと祈であんたの補助をしてあげるわ。ね、祈?」

詩の言葉に祈が何度も頷くと、自身の両手を前で組みながらこちらを見る。

「あなた、わたしと少し似ている」
「似ている?」
「心って、複雑で難しいってわたしは思う。それでも、少しでも寄り添えたらいいなって」
「オレは分からない。自分が他人の心に対してどうしたいと思っているのか分からない」
「……そっか。でも、一緒にがんばろう」

そう言って笑顔を見せてから、詩と共に部屋を出ていく。足早に遠のいてゆく音を聞きながら、先ほど言われた言葉を頭の中でもう一度繰り返してみる。
寄り添いたい。心に寄り添うとは。……よく、分からない。分からないが、アヤトの第一の手持ちポケモンが言うのだから、できるようになったのならばアヤトにとって、それはとても良いことなのだろう。

「……"一緒に"、」

他人と何かをともに行う。想像もしていなかったが、ここでは身近にあるようだ。果たしてそれを自身もできるかどうかは分からないが、努力はしてみようとは思う。





「さ、行くわよ!」
「行こお、行こおー!」

かの有名な捕らわれた宇宙人の写真って知ってるか。俺、今まさにその宇宙人状態。
半ばベッドの中で眠りに落ちる寸前。突然詩と祈がやってきて、掛布団を引っぺがされた。その上なぜかまたもやクソ野郎のいるところへ連行されるという最悪の状況。俺の腕を掴んでいる詩とエネはノリノリだし、横を歩く祈もどこか楽しげな雰囲気を醸し出している。なんなんだ。……しかし祈は本当に可愛い。これが俺の相棒だとか未だに信じられないんだけど。

「……どうしたの?」
「べっ、別に、なんでもねーよ」

思わず合ってしまった視線に慌てる俺。詩とエネにはバレバレだが、本人に知られてなければそれでいい。俺は祈のこと嫌いじゃないですよーってオーラを出しつつ自然に視線を外してから、引っ張られるがまま、とうとうまたしてもあの部屋の前へ来てしまった。……ああ、気が重い。

「今度はぼくたちもいるし大丈夫だよお。アヤトくんは何も話さなくていいからねえ」
「言われなくてもそうさせて頂きますぅ」
「なにふてくされてるのよ。まったく、ほんとガキなんだから」

へいへい。何とでも言ってくだせえ。もはやここまで来たら反抗する気力すらない。
詩とエネの次に部屋へ入ると、アイツははじめ見たときと同じ場所に座っていた。さっき俺が散々言い散らしたってのに、また俺のことを真っ直ぐに見てきやがる。いつもならどちらが先に視線を逸らすか敵対心むき出しに競うだろうが、俺はもう知っている。コイツには勝てやしないと。勝てない勝負なんか端からやらねーっての。

「はい、連れてきたわよ。これから質問すること、話してくれるわよね?」
「ああ、話そう」

なんで俺が居ないとダメなんだよ。舌打ちしかけてやめて、代わりに俯きながら乱暴に片手で頭を掻きむしった。隣、エネが俺の片腕にまとわりつきながらなだめてくる。……分かってる。大人しくここに座っていればいいんだろ。

「貴方は何者なの?詳しく教えてちょうだい」

俺たちが得ているコイツの情報といえば、リヒトのクローンだということだけだ。それから俺が知っていることは、リヒトとしばらく関わっていたこと、リヒトの記憶も引き継いでいること。考えてみれば、まだそれだけしか知らないのにもう関わりたくないと思ってしまっている。それはきっと、コイツが本気でリヒトの代わりになろうと俺に近づいてきているからだろう。……バカじゃねーの。

「オレはリヒトのクローンだが、そもそもオレはリヒトのパーツとして生み出された」
「……パーツって?どういうこと?」

祈が尋ねる。俺はもう聞く前から嫌な予感しかしてなくて耳を塞ぐように膝を抱えてみたものの、完全には塞げるわけがなく。

「言い換えればドナーだ。リヒトが重傷になった際、破損した部位を交換・提供する。それがオレの存在意義だ。そのためにオレの身体は脳から内臓、全てリヒトと同じになっている」
「それって、……なんか、道具、みたいだねえ」
「道具みたい、ではなく道具だ。本来のオレはそういうものなんだ。だから今、オレがここにいることの方が異常だと言える」

全員が黙り込むこの部屋で、一人平然としている当の本人はやはり何も分かっていない。そんな中、祈がアイツに触れてもいいか訊ねてからそっと手を握った。目を閉じて、また目を開けて俺たちを見ながら戸惑った表情を浮かべる。……触れると相手の気持ちが分かる祈がそういう表情をしたということは。
コイツは、本当になんの感情もなくただ淡々と事実を述べている。自分の運命に嘆くこともなく、パーツであることが当たり前だと思っている。

「なぜ、そんな顔をするんだ」

他の誰でもない、俺に向けられた言葉。ゆっくり視線をあげて見ると、無表情から隠し切れない戸惑いの色が滲んでいた。首からぶら下げているペンダントを片手で握りしめながら、俺を見て。

「リヒトもそうだった。オレにはそれがなんという感情なのか分からないが、オレが事実を述べるたびに負の波動を感じる。なぜ、どうしてなんだ?」

本気で戸惑う姿を見て確信した。……コイツは、シュヴェルツェは、生きるロボットだ。人でもなくポケモンでもなければ、ハーフですらない。他人の心情や感情はおろか、自分のことすら分かっていない。そもそもコイツ自身に意思があるのかすら疑うところだ。作り手、そして自分の存在意義であるリヒトに言われたことしかやろうとしない。そんなのもう、まるっきりロボットだ。機械だ。
そんなのに「可哀想」だなんて言ったって、全然分からないだろう。

「……リヒトのヤツ、とんでもないものを俺に押し付けてきやがったな……」
「アヤトくん?」

エネの声を聞きながら、片手で両目を覆って俯いた。
色々考えて、考えた上で色々諦めて、立ち上がる。そうしてシュヴェルツェの目の前まで行って、片手をゆっくり差し出した。それを見て、目を少しだけ大きくすると俺を見上げてやっぱり驚いたような顔をする。……生き物になりかけの段階といったところか。

「……さっきは悪かった。ごめん」
「……いや」
「でも、やっぱりお前はリヒトの代わりには絶対になれないよ。お前はお前だ」
「…………」

黙り込むシュヴェルツェの前に差し出した手はそのままに、言葉を続ける。

「だから聞く。……お前は、どうしたいんだ」
「──……どうしたい、というのは……?」
「リヒトの言葉は無いものとして、お前は何がしたいんだよ」

戸惑う、瞳が初めて揺れる。真っ直ぐに俺を射抜いていた赤い目が大きく揺らいでいた。必死に考えていたのだろう、それでも俺を見上げたままに上下の薄い唇を離したりくっつけたりを繰り返していた。
そうして出てきた言葉は、。

「……そんなものは、──……ない、」

……そうか。……そうなのか。
視線を外して、差し出した片手を降ろしかけたとき。

「「待って!!」」

シュヴェルツェの手も一緒に持ち上げたままの祈の手と、エネの手が俺の片手を思い切り挟み込んできた。驚いたのは俺だけじゃない。詩も、そして一緒に手を握られているシュヴェルツェも目を見開いたまま二人を見ている。

「アヤト、あるよ!シュヴェルツェにも、やりたいことはある!うまく言えないだけで、ちゃんとあるの……!」
「お願いアヤトくん、彼を見捨てないで。道具だなんて、そんなの、……ダメだよ!」

何かシュヴェルツェと自身が重なるところがあったのだろうか。本人以上にどこか必死な二人に、詰まっていた息を深く吐き出す。
……予想はできていた。どうせ答えられないんだろうと。でも少しだけ期待もしていた。俺の予想を外してくれるんじゃないかって。

二人の手に挟まれている一つの手にぐっと力が入る。俺の手を握りしめ、立ち上がってもう片方の手を重ねて。

「オレは、……オレは、リヒトとの約束を守りたい。だから、……アヤトと、共に旅をしたいとも、思っている。と思う……」
「……最初からそう言えっての」
「いい、のか……?」
「お前自身がそう思っているのなら、いいよ」

やはり結局はこうなってしまうのか。いいのか悪いのか分からないが、どうせ俺には何もできやしない。シュヴェルツェがいてもいなくても、俺がやることは変わらない。ただ、真っ直ぐに進んでいくだけだ。

「ありがとう、アヤト。お前が望むなら何でもやる。何でも言ってくれ」
「急に懐くなよ!?た、確かに一緒に旅はしていいとは言ったけど、俺はまだお前のこと認めたわけじゃねーしっ」

俺の手を強く握りしめたまま、俺を見るシュヴェルツェの目は心なしかめちゃくちゃキラキラしている。まさにいつぞやのリヒトのようで、思わずぐっと息が詰まる。そもそも急に懐かれても困るし、リヒトと同じ顔でそういう表情するのはやめてほしいと心底思う。仕方のないことだから余計にどうしようもない気持ちになるんだけど。

「よかったじゃない、アヤト。愛犬にでもしたらどう?」
「冗談じゃない!!」

暢気に言葉を放り投げる詩に吠え返す。これじゃあ誰が犬なんだか分からない。
ふっと横を視線を伸ばすと、嬉しそうに微笑み合う祈とエネが見えた。……どうやら今度の俺の選択は、間違えていないらしい。

視線は横に向けたまま、ひっそりと握りしめられている手を少しだけ握り返すと、微かに動いた手にはさらに力がこめられて。

「ありがとう、アヤト」

その声に、俺は一度視線を上げてから、無言で頷いた。




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