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ポケモンセンターの一室。
ピ、ピと規則正しい機械の音が聞こえる。ベッドの上に横たわっている彼のところから、アヤトはずっと離れることなくそこにいた。これではまるであの時と同じ光景ではないか。死にそうな顔をしながら、今か今かと目覚めるときを待ち続けている。……正直今は、峠を越えたロロさんよりもアヤトの方が心配だ。身体的な傷は癒えても、精神的な傷となると完治するのは難しいだろう。

「……イオナ」
「祈?」

病室から出たところ、祈が通路を歩きながら私の名前を呼ぶ。扉をゆっくり閉めながらふと思う。一人で行動しているだなんて珍しい。エネと詩はどうしたのかと聞くと、二人は別室にいると言う。エネはまだしも、詩が祈を一人で出歩かせるだなんて、ありえない。
……そして、気付いた。祈が小脇に抱えている本は、私が以前祈に渡したものだった。イーブイの進化にまつわる、祈のための本。

「──……そうですか。もう、決めたのですね」

ゆっくり頷く祈を見る。石は私が持っているが、どうやら必要ないらしい。

祈が分厚い本を抱えたまま病室の前に立ち、じっと見つめる。そして、扉に手を伸ばして時間をかけて静かに開いた。中に入る祈に迷いはない。スッと、一度も振り返らずに一歩大きく踏み出す。
閉まる扉の間、祈の背を見て。……病室を、後にした。





あの時。どうしようもない恐怖に襲われた。思い出してしまった。……結局俺はまた、口だけで何にもできなかった。悔しいよりも先に、失う恐怖が真っ先にやってきてしまう。
──……ロロまで死んでしまったら、俺は、。

「アヤト、」
「っ!」

うたた寝に近い状態のままどれほど経ったか。急に誰かに話しかけられて思わずうつ伏せになっていた上半身を飛び起こしてみたが、……相変わらず、ロロは眠ったままだった。そうか、そういやロロは、俺のことは"アヤくん"って呼んでいたんだっけ。
深くため息を吐いてから目を擦りながら横を見ると、祈が一人、立っていた。

「……どう、したんだ、?」
「……アヤトが、心配だから」
「俺はどこも怪我してないよ。……だから、大丈夫」

答えながら視線を祈からロロに移して、ベッドの上に乗せたまま指を絡めて握りしめている両手にさらに力を込める。
正直、ロロが俺の盾となって撃たれた瞬間からそのあとの記憶が曖昧になっている。脳みそがこれ以上精神に負担をかけないようにと記憶をぶっ飛ばしてくれたらしい。それでもやっぱり、生ぬるいどろりとした感触や鼻を突くきつい鉄の臭いは嫌でも忘れられずにいた。

「…………」

目を閉じて、ベッドの端に寄りかかりながら絡めた両手を額に当てる。決して神に祈っているわけじゃない。それでもやっぱり、何かに祈らずにはいられなかった。何でもいいから、……どうか、ロロまで連れて行かないでくれ。

「──……アヤト」

祈が俺の膝の上に両手を乗せる。俯いたまま薄っすら目を開けてみると、床に座り込んで俺に寄り添うようにしていた。……祈に、また心配をかけてしまっている。俺は本当に、ダメだなあ。
乾いた喉にゆっくり唾を通してからやっとの思いで絡ませていた手を解き、片手を祈の頭に添える。大丈夫だから心配すんなって。、ちゃんと言葉にして出したかったが、今はきっと声が震えて示しがつかないだろう。だから何も言わずに片手で目元を覆ったまま、もう片方の手で祈の頭を撫でていた。

──……ふと。手から柔らかい髪の感触が消えた。代わりに小さな両手に包まれて、ぎゅうと力強く握られる。

「……あのね。エネが言ってたの。アヤトはボロボロのまま進んでいる最中なんじゃないかな、って」
「──……、」

やっと。顔を少し持ち上げて祈を見ると、心配そうな泣きそうな顔で俺をじっと見ていた。それには何も答えられず、無言を返す。
俺は大丈夫。大丈夫なんだ。だってどこも怪我してない。あの時だって、今だって。俺なんか比べ物にならないぐらい傷ついている人なら沢山いる。だから俺は大丈夫。……大丈夫で、なければいけないんだ。

「ねえ、アヤト。本当に、大丈夫だって思っているの……?」
「……どういう意味だよ」
「わたしでも分かるよ……!?アヤトは、ぜんぜん大丈夫じゃない……!」
「そんなの、……、分かんねーよ……」

ぼろぼろ涙を零す祈から顔を背けた。すると祈はなぜかイーブイに戻って、俺の膝の上に乗る。イーブイの姿でも目から小さな雫が零れていて、思わず唇を噛み締める。
まん丸の瞳に映る自分の顔を少し見ながら訊ねてみた。お前は大丈夫じゃないのか?もちろん、答えは返ってこない。

「……分かんないんだよ、……大丈夫なのか大丈夫じゃないのかすら分からない」
『…………、』
「なんて言ったらいいのか分かんないんだよ。……ぐちゃぐちゃで、まとまらないんだ……っ、」

両手で顔を覆って思い切り目を瞑る。
沢山の人に待っていてもらって支えてもらって、言葉をもらって。大丈夫に、なったはずなんだ。俺自身の足でまた進んでいるんだ。……でも、それでもやっぱり毎日嫌な夢は見続けるし、ずっと何かが胸に閊えている。言いようもない何かがずっとある。それが何なのか自分でも分からないし、ましてやどうすれば無くなってくれるのかも分からない。

「……ごめん。余計なこと言った。……今のは忘れて、」

こつん。顔から両手を離したとき、祈が額を俺の額に当ててきた。ふわふわの毛並みの感触と熱さを感じる。目を閉じながら今もなお涙を零しているのを間近に見て、俺も目を閉じる。

──……瞬間。祈の身体が、光り出した。
目を閉じていてもひどく眩しく感じるぐらいの光に、思わず椅子の背にべったりもたれかかる。仰け反ったまま膝の上で光り続ける姿を見ていると、だんだんと光が大きくなってついには目も開けていられないほどになっていた。

そして、部屋いっぱいに広がった光が一気に弾けて。
おそるおそる目を開けると、……水色のガラス玉のような大きな瞳に、俺の顔が映っていた。そこから零れる涙もひどく透き通っているように見える。
真っ白の身体に、ピンク色の長い耳と尻尾。そして、まるで片耳と首元にリボンを着けているような外見のこのポケモンは。

「──……ニン、フィア、」

イーブイが、……進化した。あの祈が、進化した。ずっとまだまだ先だと思っていたのに、まさか、どうして。
突然すぎて未だ目の前にいるニンフィアが祈だなんて信じられない。目を見開いて見ている俺の前、ニンフィアが長く伸びているリボンの先を動かして俺の指先に遠慮がちに触れる。

『……ニンフィア。むすびつきポケモン。このリボンの触角で触れると、触れた相手の気持ちが分かるんだって。──……わたし、いくら考えても、他の人がどんなことを考えているのか全然分からなかった。心に全く触れることができないから……少しでも、知りたかったの。アヤトの心を、気持ちを、知りたい』
「…………、」

ゆっくり。伸ばされたリボンを、握る。すると他のリボンが片腕に巻き付いてきて、その部分がふっと暖かくなった。そっとニンフィアが胸元に寄り添うと、一度顔をあげて俺の顔を見る。大きな目からは止めどなく涙がぼろぼろと零れている。

「俺、そんなに泣いてる?」

無言で祈が頷く。どういう風に祈に伝わっているのか分からないが、祈が俺の代わりに泣いているように見えていた。そっと頭を撫でると、長い耳が頬に当たる。

『アヤト、すごく苦しいの、わかるよ……っ、……わたしも、お母さんのとき、すごく、辛かったから、』
「……そう、だったな」
『ごめん、なさい、わたしじゃ、何も、できないよ……っ、アヤトの気持ちが分かっても、……どうしたらいいのか、全然分からない……っ』

涙を飲みながら途切れ途切れに言葉を繋げる祈の言葉に、喉元がぐっと詰まる。
俺の気持ちは、俺自身でしかどうすることもできない。そんなことは分かっていたし、他の誰かに分かってもらおうなんてのも思ってはいなかった。……それでもこうして、少しでも寄り添おうとしてもらえるのは。

「すごく、……嬉しい、なあ……」

毛並みを涙で濡らしてもなお、俯いて泣き続けている祈を抱きしめる。
何がどうなったわけではない。
それでも確かに、心は今を喜んでいた。




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