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「はい、これでおしまい」
「ロロさん、ありがとお」
エネにガーゼを貼って救急箱の蓋を閉じるロロは、やはり眼帯を着けたままだった。手当を受けたエネは反対側のソファに座っている俺の横にゆっくり座ると、前かがみになりながら両手を絡ませてこちらを見る。眉を少し下げて、苦笑い。
「……やっぱり負けちゃったあ。祈ちゃん強いなあ。すごいや」
ぽつり呟いてエネが顔をゆっくり伏してゆく。ふと落とした視線の先、膝上でひっそりときつく握られている拳が見えた。負けた悔しさをまさに今、噛み締めているところなのだろう。俺だってもう何回も経験したことのあるどうしようもない感情だ。
……本当に、あと一歩というところだった。もう少しエネに体力があれば、ひょっとすると祈にも勝てたかもしれない。それはエネも分かっていることで、だからこそ余計悔しいんだと思う。なにはともあれ、エネにとっても俺にとっても良いバトルだった。
「エネだって十分すごいよ。つい先日まで全然戦えなかったのにさ、いつの間にか祈と渡り合えるぐらい戦えるようになってるし。……ほんとすげえよ」
「……そう、かな。……えへへ。負けちゃったけど、アヤトくんにそう言われると嬉しいなあ」
両手で頬を挟んで嬉しそうに言うエネを見て、ふっと面白くなって口元を緩ませる。それから今度は自分の手元に視線を落として、手のひらを広げてみた。
……俺も先に進まなければ。やるべきことを、やらないと。わかってはいるが、なかなか動けず早何日。一刻も早く伝えなければいけないのに、思い出すのも辛くて結局は立ち止まってしまっている。進めと言われたのに。
──言われたから、やるのか?言われなければ、立ち止まっていてよかったのか……?
「……くん、アヤトくん」
「ご、ごめん。ぼーっとしてた」
エネに肩をつつかれて意識が戻ってきた。心配そうに向けられる視線から逃げて、足の間で指を絡ませる。握り、昨日イオナが言っていたことを思い出す。
"サンギ牧場からこちらに問い合わせがありました。アヤトとリヒトが無事か、教えてほしいと"
……イオナは、なんと答えていたのか。聞いてはいないが、きっとイオナのことだ。俺が直接ハーくん先輩たちに伝えなければならないような答え方をしたに違いない。ニュースでだって大々的にやっていたんだ。きっと、牧場のみんなも察しているだろうけれど。
「別に、急がなくてもいいんじゃない?」
その言葉に顔をあげると、ロロがエネの頭を撫でながら俺を見ていた。明らかに俺に向けられた言葉だ。……ああ、そういえば俺は顔に出やすいタイプだったっけ。にしてもロロは変なところで鋭い。
「アヤくんはアヤくんのペースで進めばいい」
「……でも、……、のんびりなんてしてらんねーよ」
俺のペースで進んでいいと言われてしまったら……俺はきっと、ぐずぐずと立ち止まったままになってしまう。今はそう、リヒトの言葉に無理やり動いている感じなのだ。自ら進んでいるわけではない。でも、それでも少しずつ進んでいるつもりだから、今はそれで十分だと言ってほしい。
ポケットから画面が割れた腕時計を取り出して、親指でそっと撫でる。画面は割れているものの、変わらず時を示していた。その上、未読通知。
「いつ、牧場へ行こうか」
「…………」
ロロの問いに、答えられない。
今すぐにでも行くべきだ。分かってる、分かってる!……でも俺は。ハーくん先輩たちに合わせる顔がない。俺ならリヒトを助けられると信じてくれていたハーくん先輩に、どういう顔で合えばいいのか。なんと言ったらいいのか。あれからずっと考えてはいるけれど、本当に何も思いつかないのだ。
「君が言えないのなら、俺が言ってあげようか」
にこり。青い目を三日月型にしながら、ロロが俺の前にしゃがむ。……一瞬だけ。頷きそうになったけど、半開きになった口をきゅっと閉じて首を横に振る。
俺が。この俺が、言わないと意味がない。そもそもロロなんか俺よりもっと言いにくいに決まってるじゃないか。そこまで分からない俺じゃない。
「つーかさ。なあーんかお前、最近俺に甘くない?」
「あっ、それぼくも思うなあ」
「え、そう?別に甘くしてるつもりはないけど、……まあ、前よりはだいぶ可愛く見えてきたかな」
「おげえっ気持ち悪……」
いつだったか、母さんに向けていたような目が俺にまで向けられてきたからゲロを吐くマネをしながら片手でロロの顔面を押し返すと、ひらりと避けて立ち上がりエネの横に座るロロ。それからエネに少し寄りかかり、エネ越しに俺を見ながらにやにやする。
「本当は嬉しいくせに〜。まったく素直じゃないんだから〜。ねえ、エネくうん」
「ねえ、ロロさあん」
「結託すんなバカ猫ども」
パーソナルスペースがほぼないであろうロロとエネは、やはり隙間を開けずに二人してぴったりくっつくように座りながら俺を見ていた。似たようなタイプが二人……あーあ。にゃんにゃんうるさい猫どもを相手にすると、どっと疲れる。
「で、どうするの?」
ソファから立ち上がったところ、またロロが俺に言う。逃さないつもりだ。
やはりこいつは、いつでも俺を進ませようとする。遠回しに進めという。
前言撤回。ロロは決して、俺を甘やかしてなんかいない。
身体を向けて、拳を握る。
今度こそ、ロロの問いに答えてやろう。
「……明日。明日、サンギ牧場に行く」
言葉に出してしまった。もう変えられない、戻せない。
それでも、満足げに頷くロロを真っ直ぐに見て、口を閉じる。
明日、言うんだ。伝えなくちゃ、知らせなくちゃ。
俺の無事と、あの日のこと。……それから、。