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「アヤトくん、アヤトくん」
「──……エネ、?」

揺さぶられて目が覚めた。カーテンが閉まっている向こうはぼんやり明るい。それを見てから、俺の顔を心配そうにのぞき込んでいるエネに目を向ける。目を擦りながら上半身を起こすと添えていた手をゆっくり戻すエネ。顔を伏せたまま、いつもと同じことを言う。

「また、うなされてたから、……」
「……ごめん。起こしてくれてありがとな」

俯いたままこくりと頷くエネの頭にそっと手を乗せて撫でる。……いや、思わずエネコのときみたいにやってしまったが、……まあいいや。
ベッドの縁に座って欠伸をしながら洗面所に向かう。……しばらくはエネとも別の部屋で寝たほうがいいかもしれない。正直、これ以上心配をかけたくない。しかしまあ何度平気だと言っても聞かないエネもどうかと思うのだが、……さてどうやって説得しようか。
そんなことを考えながら、鏡の前に立つ。下まぶたを人差し指で引っ張りながら鏡に近づいて見てみれば、眼球が血走っていた。姿勢をもとに戻してから、微かに赤い目尻を眺めてため息を吐く。……はたして俺に、リヒトを忘れずして泣かずに朝を迎えられる日はやってくるのだろうか。いまはまだ、分からないけど。

「……大丈夫。心配すんなって」

鏡越しに開きっぱなしの扉から顔だけ出しているエネに向かって言葉を投げると、一度迷った様子を見せてから笑顔で頷き返していた。それから俺の隣までやってきてエネ専用の小さなブラシで鏡を見ながら自分の髪を梳かし始める。

「アヤトくん。今日、祈ちゃんと再戦してもらうでしょう」
「そうだな。俺もエネにその時に合った指示だせるようにするから」
「それでね……、ぼくが勝ったらアヤトくんにお願いがあるんだ」
「おねがい?」

整えていた前髪から視線を外してエネを見ると、丸い目もこちらをじっと見ていた。なんだろう。思い当たることがない。──……ふと、エネが人差し指をさす。その先には、俺のバッグが置いてある。ずっとあの場所に置きっぱなしの、血が染み込んでしまった汚いバッグ。あれ以来、中身には何も触れていない。

「アヤトくん覚えてる?ジム戦に挑む前……リヒトくんから、メッセージが届いていたこと」
「…………」

覚えている。けれど今まで忘れていた。そうだ、エネの言うとおり、たしかにリヒトから届いていた。一度目の返信はいつもと違く、とても短かったから覚えている。しかし二度目の返信は……。

「バトルが終わったあとのお楽しみ、……ぼくも一緒に、見たいんだ」

エネの手前。……俺は、迷ってしまった。一人で見たい気持ちと、一人では見れないかもしれないという不安。どちらも同じぐらいの大きさでなんと答えようか迷っていれば、エネがそっと俺の唇に人差し指を押し当てる。

「答えはいつでもいいからねえ」

にこり。微笑んでから指を離して一人先に洗面所を出て行った。足音が聞こえなくなるまで見送ってから、金縛りがやっと解けたように目を動かしてみる。隅っこに置きっぱなしにしてあるバッグ。その手前までゆっくり歩いていき、静かにしゃがんで開きっぱなしのバッグへ恐る恐る手を入れた。この前放り投げたヘアーワックスがバッグの中で滑り落ちてきて手の甲に当たったとき。……腕時計を、掴んだ。

どうしてかやけに緊張しながら腕を引き抜き手のひらを広げてみると、画面の割れた腕時計が乗っかっていた。ボタンを押すと、割れてもなお光る画面にホッとして。"未読メッセージ 1件"の通知にどきりと心臓が一度飛び跳ねる。

「……」

ボタンを押して電源を切り、……ズボンポケットの奥へ、仕舞いこんだ。





もっと、強くならなくちゃ。もっと、もっと。……もっと。

『祈。何をそんなに焦っているのですか』
『……っ、……、』

あいかわらずイオナはきびしい。少しでも判断がおくれると、こうして遠くまであの長いしっぽではじき飛ばされてしまう。全身痛いし、息がうまくできなくて苦しい。でも、それでも、あのときと比べればこれぐらいぜんぜん辛くはなかった。……あのときは、そう。体よりも心が、われてしまいそうなぐらい、どうしようもなく苦しくて辛くて。

『わたし、いつまでたってもアヤトの力になれてない……!いつも足手まといで……っ』
『……祈。皆、貴女がどれほど努力しているのか分かっています。誰も足手まといだなんて、』
『みんなが思ってなくてもわたしがそう思うのっ!──……そう、思うから、!だから、もっと、もっと強くなりたいの、』
『…………』

立ち上がってイオナを見ると、何も言わずにこちらを見ていた。……ふと、人間のすがたにもどって目の前までやってくる。歩きながら服に手をいれて、何かを取り出すとわたしの前に片ひざを立ててしゃがみこみ、その何かをそっと置いた。
イオナが置いたのは、とてもきれいな石が3つ。赤と青と、そして黄色。

『イオナ、これは……?』
「ほのおの石、みずの石、かみなりの石です」
『──……それって、』
「以前、祈と出会う前、アヤトに持っていてくれと頼まれていたのです。何に使うかも決まっていないのに持たされていたのですが。まさかこうして、本当に使用するかもしれない日が来るなんて思ってもみませんでした」

指先で石をそっと押すイオナから一歩後ろに下がる。なぜか、下がってしまった。それを見て、イオナは石から手をはなして話を続ける。

「私の指導に不備はありません。祈。もう私はイーブイに出来うるであろう全てのことを教えました。しかしどれもまだ未熟でまだまだ伸ばすこともできますが、……どうしても。早く強くなりたいというのならば、進化という手もあります」
『しんか、……』

イーブイは、他のポケモンと比べてとても不安定な遺伝子を持っています。そのため、他のポケモンよりも多種多様な進化を遂げることができるのです。石で進化できるシャワーズ、サンダース、ブースター。時間帯に影響されるエーフィ、ブラッキー。場所に影響されるリーフィア、グレイシア。そして、トレーナーとの絆と覚えている技によって進化できるニンフィア。

「進化をすれば確実に今より強くなれるでしょう。しかし祈、貴女は選ばなくてはいけません」
『……、……』
「本を貸しましょう。よく読んで、よく考えてみなさい。進化したら、もう二度と選び直すことはできないのですから」

石をまた服の中にしまって、代わりに本を取り出した。……もしかするとイオナは、前からわたしの進化について考えていてくれたのかもしれない。だって、そうじゃなければ、こうやってすぐに本を出せるわけがないもの。
わたしも人間のすがたになって、イオナから本を受け取る。教科書よりも重たい。
本をだきしめて、少し考えてみた。進化、……姿が、かわる。今とはちがう、自分になる。

「……なんだか、……少し、こわい、ね」

小さな声でつぶやくと、イオナがそっと頭をなでる。アヤトとはまたどこかちがう、やさしくて大きな手。

「進化するもしないも祈次第。無理に進化をしなくてもいいのです。……といっても、きっと祈もアヤトと同じく聞かないのでしょうけれど。イーブイはトレーナーに似やすいと言われていますが、全く、アヤトの変なところまで似ないでもいいのですよ」
「?、変なところじゃないよ。いいところだよ」
「ふふ、そうですか」

手がはなれて立ち上がる。今日の練習はここまで。
いつもと同じようにキズ薬を取りに行くイオナの背中をみて、本をぎゅっとだきしめながら呼び止める。そうすればすぐにわたしの方へ体を向けて立ち止まり。

「どうしたのですか」
「あの、あのね、……イオナはわたしが進化しても、イオナより大きくなっても、……ずっと、わたしの先生でいてくれる……?」

一度。イオナが目を丸くしてから、わたしを見ながら面白そうに笑った。それから。

「ええ、もちろん。祈が私より大きくなっても、強くなっても。いつまでも、貴女の先生でありましょう」

そういって、また背を向けて歩きはじめるイオナを見て。わたしは、少しおくれて走って追いつきついて行った。
アヤトは以前、よく、イオナは何を考えているのか分からないから少し苦手だと言っていたけれど。わたしは、イオナのことを苦手だと思ったことがない。それはもしかすると、わたしとイオナはどこか似ているところがあるからかもしれないし、……わたしにとってイオナは、強くてやさしい先生だからかもしれない。


『―……だから、エネにも負けない』

……バトルフィールドに立って、向かい合う。
相手はエネ。その後ろにはアヤトがいて、わたしの出方を伺っている。

以前は、戦うのはあまり好きではなかった。アヤトが望むなら戦うと。アヤトのためだけに戦っていたけれど、今はちがう。アヤトのために、仲間のために、……そして、わたしにバトルを全力で教えてくれる先生のために。

『本気で、いきます』




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