16

俺は、間違ってしまったんだろうか。
──あの時、あの瞬間。何が一番正しい選択なのかを必死に考えた。考えた末が、これなのか。爪を突き立てた瞬間、肉を抉って突き破った瞬間、生暖かいものを感じた瞬間。彼に罵られることぐらい覚悟していたはず。分かっていた、はずなのに。

"お前がリヒトを殺したんだッッ!!お前が、ロロが!!リヒトを殺したんじゃないかっ!!"

──……あの言葉と、あの表情が、突き刺さったまま抜けやしない。
言われたあの瞬間、何も、言葉が出てこなかった。とにかく頭が真っ白になってしまって、彼から目を離すことができなかった。明確に向けられた敵意と嫌悪に、どうしようもなく、……衝撃を受けてしまった。

なんと、言えばいいのか。何かが胸につかえたまま、苦しい日々が続いた。
何度もあの白い扉の前に立って、考えた。彼になんと言葉をかければいいのか。なんと、謝ればいいのか。何度も何度も、なんども。考えた。──……けれども。どうしても、かける言葉が見つからなかった。謝罪の言葉が、見当たらなかった。

「──…………、」
「おや、いつもより早いですね」

また。気づいたら、ベッドの上にいた。
……俺は、何度彼に失態を見せれば気が済むんだろうか。片腕を目元に乗せながら息を吐く。うまく、呼吸ができる。自分に言い聞かせるようにゆっくりと呼吸を続けながら、上半身を持ち上げる。
瞳が痛い。冷や汗で肌がベタベタする。あらゆる不快感に顔を歪めていると、ベッド横にいつもの通り、替えのシャツを置いた彼がふっと俺に視線を向けた。いつもであれば、このまま何も言わずに部屋を出ていくというのに。

「……何か、言いたそうだね」

ボタンを外しながら言葉を投げると、意外そうな顔をしながら口を開く。

「聞いてくださるのですか」
「……たまにはね」

色々、世話になってるし。、小声で付け加えると、少し目元を細めて口角を上げていた。視線を外してシャツを脱ぎ、新しいシャツに手を伸ばす。毎度のことながら皺ひとつ見当たらない。

「まだ、悔いているのですか」
「…………」

片腕を袖に通して動きを止める。もう片側はシャツを肩から掛けたままにして彼を見た。翡翠色の目は、まっすぐに俺をみている。
悔いているのか。……自分でも、分からない。けれども、強い罪悪感は確かにある。日に日に増しているような気さえする。

どうにも答えられず、口をきつく結んだまま自分の手元を見た。
──……まだ、手のひらが赤黒く染まっている。
あの日以来、ずっとずっと、染まっている。何度洗い落としても、少しも消えやしないのだ。まるで呪いか何かのように、脳裏に、瞳に、手のひらに。染み付いて、しまっている。
思わず、また咄嗟に拳を握ってもう片方の手で覆い隠す。……大丈夫、大丈夫、……まだ、ちゃんと呼吸はできる。

「……、すみません。……何かあれば、お呼びください」

何か。言いたそうにしながらも、口を噤んで背を向ける。……彼は、大人だ。だからこそ言いたくても何も言わない。励ましの言葉も慰めの言葉も。全部全部、無駄だとちゃんと分かっている。何ひとつとして分からないから、分かれないから、黙るのだ。

そうして部屋の扉が閉まる。部屋にひとり、目元に手を当てて俯く。
誰にも、俺の気持ちは分からない。そう簡単に分かられて堪るか。
その半面、ずっと切に思っている。
どうか、分かってほしい。俺のことを許してほしい。俺がしたことは、……アヤトくんを選び、リヒトくんを見捨ててしまったことは。仕方がなく、どうしようもないことだったのだと。誰かに、言ってほしかった。誰かに、?…………いいや、本当に、言ってほしいのは。

「──……ごめん、リヒトくん、……本当に、ごめん……、」

今日もまた、自分にしか見えない亡霊に許しを乞う。けっして許されることのないことだとしても、ただひたすらに謝るしかなかった。犯してしまった罪は消えない。そう思う度、心が壊れそうになる。
──……ああ、あの時のリヒトくんも、こんな気持ちだったのか。
ふっと思い出し、口から言葉が零れ落ちる。

「──……しにたいきもち、……わかるなあ、」

自分で言って、ハッとする。頭を抱えて左右に振って。駄目だ、ダメだ。
そうしてまた、ふりだしに戻る。瞳が、ズキズキと痛みだす。……このままじゃ、また同じことの繰り返しだ。
痛みに耐えながらシャツを乱暴に着て、ふらつく足で部屋を出る。壁に沿いながら不規則な足音を鳴らして上を目指す。
意味もなく今日もまた、屋上を目指していた。





きまって母さんは、レパルダスを空の背景のボックスに入れていた。
普通、空の背景だったらひこうタイプのポケモンをいれるのに、なぜか毎回レパルダスだけはそこに入っていたのだ。ひこうタイプのポケモンたちに混ざる紫色を見ながら尋ねたことがある。どうしてレパルダスだけ、ここに入れているのかと。そうすれば母さんが何かを思い出すように目線を上に向けてから、面白そうにこういった。

「このレパルダスはね、高いところが好きなんだよ。だから、ここに入れてるの」

何、頭おかしいことを言ってるんだ。ゲーム画面を指差して言う母さんに言えば、"だってそうなんだもん"とやっぱり楽しそうに言っていた。
……レパルダスの名前は、ロロ。
そう、確かに、覚えている。


ロロの部屋に行ったがいなかった。イオナに聞いたら驚いたように"知らない"と言っていた。早く、ロロに会わないと。焦る気持ちを抑えて、一旦足をその場に留めて。
イチかバチか。……俺は、昔の記憶に賭けてみた。

全速力で廊下を走り抜け、長い階段を上る。息を切らしながら屋上へ繋がるたった一つの扉を開けた。荒い息を繰り返して周りをみる。
──空に溶けるような青い柵が規則正しく並んでいる。そこに寄りかかりながら外の世界を眺めている、丸まった小さな背中を見つけた。
ゆっくり足を運ぶ。ゆっくり、……ゆっくり、歩いた。

「──…………」

一度も振り返ることはなく。少しだけ、距離を開けてロロの隣に並んだ。俺も柵に寄りかかって街を見下ろしてみる。
復興が進んでいるところ、そうじゃないところ。場所によって様々だけど、セントラルエリアはすでに綺麗に整備されていた。一番酷いところを、真っ先に綺麗にされたのだ。まるで何事もなかったかのように、綺麗に、……。

「……高いとこ、好きなのか」
「──……そうかも」

姿は見ない。お互いに視線を正面に向けたまま、また無言の時間が流れる。
ロロの白いシャツが柔らかく揺られる音がする。どこか遠く、鳥ポケモンの鳴き声も聞こえる。……どこか居心地が悪く、でも優しい時間のように思う。

「……体、もう大丈夫なのかよ」
「君こそ、……大丈夫なの?」
「俺は、…………、」

思わず、言葉を濁す。ロロは、明らかにやつれていた。傷も多分まだ癒えきってないだろう。……またここで、正直に言っていいものかと悩んだ。悩んで、一度口を閉じてから。反射して光っている海を見る。

「俺は、正直。……まだ、すごく辛いよ。ふとしたときに、急に泣きたくなる。リヒトが、もういないって思うと。……立ち止まっていたくなる」
「…………」

柵の上で、拳を握る。爪が食い込む感触がした。それでふっと力を抜いてから少しだけ視線を横に移すと、ロロの腕にもう片方の手が食い込むようにしがみついていた。紫色の髪が揺れ、ふわりと持ち上がる。唇を、強く噛んでいるのが見えてしまった。
……一度、視線を戻して息を吐く。熱を帯びた息は、風に流れて消えてゆく。それからスッと息を吸い、ロロの方へ体を向ける。まっすぐに、見て。

「、ごめん。……ひどいこと、言った」
「いいよ。──……だって、本当のことだし」
「っあれは!……あれは、…………、」
「……いいんだ。…………いいんだよ」

遠くをみたままのロロを見て、唇を噛みながら腕を掴んで横に放り投げると、やっと身体が少しだけこちらに向く。少しだけ驚いたような表情をしてから、目を細めてぎこちなく笑ってみせた。
……それが、すごく、痛々しくて。何笑ってんだよって怒鳴ってやりたかった。ふざけんなって、言ってやりたかったけど。ここまでロロを追い込んでしまったのは、壊してしまったのは、……俺だって、わかってるから。

「……ロロ、もういいよ。ロロは、悪くない。……仕方のない、ことだったんだ、……」
「──……本当に、そう思う?」
「ロ、ロロ、……?」
「……もしかしたら、他にも何かあったかもしれない。俺がリヒトくんを殺さずとも、二人とも助けられたかもしれない。何か他にも方法があったかもしれない。なのに!なのに、!……それでも、……それでも俺は、!……ッリヒトくんを、見捨ててしまった、……っ!」

言葉を叩きつけ、ロロが自身の手のひらをゆっくりと持ち上げて見ていた。小刻みに震えている手は、……"あちら側"の手で。定まらない視点では、今はもうないはずのものをずっと捉えていた。

──ロロの目には、まだ。あの時ついた血が見えている。

……俺は。全然、見えていなかった。知らなかった。ロロが、こんなにもなっていたなんて。今になって痛いほど詩に言われた言葉が心に響く。悲しいのは、辛いのは、……俺だけじゃ、なかった。

ロロの手を思いっきり握りしめて、顔を無理やりあげてロロを見る。真っ青の目が、ゆっくり俺を捉えて。

「──なあ、ロロ。リヒト、言ってたじゃん……"ありがとうございます"って……!」
「……、」
「っロロはリヒトのことを見捨てたんじゃない……っ!!助けたんだよ……っ!!」
「──……そんな、こと、っ!」
「ロロが、……リヒトの心を、壊さないでいてくれたんだ……。救って、くれたんだよ。……ごめんな、……一番辛いこと、させて……」
「…………、っ」

一度。俺を見てから、きつく唇を噛んで慌てて顔を背けるロロを見る。こちとらもう、情けないぐらいの泣き顔を見せているのに。ぼろぼろ泣きながら鼻を啜って、ふっと、とあることを思い出す。
本当にあの人は、未来予知ができていたんじゃないかと思ってしまった。

「──俺さ。ここまで一緒に旅をしてきたのが、……ロロで、よかった。ムカつくこともたくさんあるし、嫌いなとこもたくさんあるけど。──……でも、何度考えても。やっぱり、ロロでよかったって思うんだ」

ロロでなければ、俺もリヒトと一緒に死んでいた。どちらかが生きる道すらなかっただろう。何度考えても、そう思える。

「他の誰でもなく、ロロだったから──俺は今、ここにいる。ここで、生きていられるんだ。──……本当にありがとう、ロロ」

背けたままの顔を覗き込むように見て言えば、青い目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。

「──……、」

そっと。つま先立ちになって眼帯に手を伸ばす。今まで一度も触れなかった、触れさせてくれなかったものを掴んでゆっくり外すと。
やっぱり、あの時に見た青と黄色が確かにあった。目の縁に溜まって落ちかける涙は、鮮やかな目の色を反射して色をつけて落ちてゆく。──……それはまるで、瞳から宝石がこぼれ落ちているように見えて。

「ロロの目って、こんなに綺麗だったっけ、──」

ロロが、ハッとしたように目を見開いて俺を見る。
それを見てやっと自分でも何言ってんだなんて思ってももう遅い。脳みそが完全に休みモードに入っていた。だからそう、考える前にポロっと出てしまってだな。あー、えーと、つまり。……つまり。

「……今の……嘘だから」

なんともクソみたいな言い訳しかできず。持っていた眼帯をロロに押し付けて背を向ける。いいのか悪いのか、涙も一気に引っ込んだ。
……まあいい。もう、伝えられなかったなんて後悔したくない。言いたいことは言ったし、伝えることもちゃんと伝えた。
言葉なんてものだけで、どうにかしようだなんて考えてないけれど。……少しでも、ロロに。何か、返せることができたのなら。

「──……アヤトくん、ありがとう」

その言葉に。驚きながらまた振り返ると、相変わらず小さな宝石を散らばせていて。
俺に一歩近づくと、思い切り頭を撫でてきた。わしゃわしゃとかき乱す手はどこか優しく。

「……一緒に旅を、続けてもいいかな」
「ダメって言っても、母さんに言われてるから着いて来るだろう?」
「やだなあ。……君だから、一緒に行くんだよ」
「……ならボール」
「それはちょっと」

……やっぱり。ロロは気にくわないけど。
差し伸べられた手を見て、ロロを見て。

「これからも、宜しくね」

ロロと出会ったとき。あのときは、握り返せなかった手を。今になって、しっかり握って。

「……よろしく」

またこの世界で。
俺の旅が、はじまる。




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