15

あれから。世界は、今日も変わらず回り続けている。俺が泣きわめいていたときも、リヒトが動かなくなってしまったあのときも。ずっと、回り続けていた。

街もだんだんと綺麗になって、人もポケモンも普通の生活に戻っていく。……俺は、それがすごく腹立たしかった。俺の大切な人がいなくなっても、何にもなかったようにまた笑って日々を過ごしている人々を見るだけで、怒りの感情が湧いて出た。無理やり他人に感情を共有させようとしていたのだ。
でも分かる。そんなことはできやしないって。……知ってるさ。わかってる。

人という生き物は忘れることで前に進めるらしい。時間が解決してくれるというのは、つまりこういうことなのだ。
きっとみんな、いつかは忘れてしまうんだろう。ハーフたちが街を襲ったことも、リヒトという名のハーフがいたことも。

「……リヒト、ちゃんと俺の話聞いてたんじゃん」

墓標を撫でて、もう片方で唇をなぞる。キスした相手は忘れられないって話。覚えて、いたんだ。

「こんなことしなくても……忘れられるわけ、ないのに」

まだしばらくは、ふとしたことで泣いてしまいそうだ。ちらりと思い出すだけで、ひどく、心が苦しくなってしまう。辛くて辛くて、やっぱり立ち止まっていたくなる。けど。それでも。

「前に……前に、進むから。大丈夫、…………だい、じょうぶ、っ、」

俺だけは。ずっとずっと、忘れないまま。……前に、進んでみせるから。

「──……、よし」

昇る朝日が、また今日を連れてくる。今日が、はじまる。
目元を腕で擦って拭い、熱い息をゆっくりと吐きだして。頬を両手で挟んで叩く。仕切り直しだ。
……俺にはまだ、やらなくちゃならないことが山ほどある。それをまた、今日からひとつずつやっていこう。

「……じゃあ。また、明日」

朝日を反射して光るそれに、ゆっくりと背を向けて。帰るべきところに向かって一直線に走り出す。





「あれがアヤト……」

誰もいなくなった中庭で一人、墓標の前に佇む。記憶と照らし合わせながら走り去った少年の背を目に焼き付け、そっと地面に手を当てた。……ここに、"リヒト"が。
やはりこうなってしまった。だからあの時、入れ替わろうと提案したのに。一緒に逃げようと言ったのに。

「オレには、どうしてリヒトがこうなる選択をしたのか未だに分からないが。約束は、必ず守ろう」

リヒトに言われていたとおり。匂い、波動。その全てを覚えて。……彼のあとを追った。





ビルに入ると、フロントにイオナが立っていた。気を遣ってくれているのか。たぶんそうだとは思うが、あえて何も言わずに合流すると、俺に集まっていた色々な視線がサッと散った。もちろん、すでにこのビルも普通に仕事を再開している。

「朝食はすでに準備できておりますが」
「……そろそろ祈たちと一緒に食えっていうんだろ」
「ええ。もうだいぶ長いこと、一緒に食事をしていないでしょう」

廊下を歩いてエレベーターに乗り込みながらイオナを見る。確かに、思えばもう半月ぐらいみんなと一緒に食べていない。それどころか会話もしていない。
それ以前に、俺自身が誰かと会話をする気力がなかったのだ。だから常にイオナに部屋までご飯を持ってきてもらっていたし、俺が部屋を出るのは大抵みんなが寝静まった真夜中から早朝の間だったから、みんなの姿すら見ていなかった。
そうなってくると、いざこうしてやっと話せるところまで気力が戻ってきても……こう、なんといえばいいのか分からなくなってしまう。長いこと休んで行きにくくなった学校みたいな感覚だ。自分だけ取り残されている感じがしているからなのか、はたまた別の感情からなのか。俺自身にも分からない。

「祈はあれ以来、進化を考えているみたいですよ」
「進化……?」
「ええ。イーブイは多種多様に進化できます。ですので、まだどのタイプに進化するのかは決めかねているようですが」
「そう、なんだ……」

最上階。エレベーターを降りて、長い廊下を二人で歩く。他に足音はなく、聞けばみんな下の階にある別室で朝食をとっているらしい。俺が他との関わりを断っていることを察し、下の階で過ごすことが多くなったという。今になってイオナに聞いて知り、何とも言えない気持ちになる。

「エネですら、詩にバトルを教えてもらっています」
「エネが?あんなに戦うの嫌がってたのに」
「一人だけ戦えなかったことが相当悔しかったのでしょう。最近はほぼ丸一日、バトルフィールドにいますよ。疲れ切って倒れているのを回収するのは詩がやっているようです。アヤトの代わりに、詩が二人を支えています。三人ともアヤトのために何ができるのか、今もなお必死になって考えているのです」
「…………」

俺のため、だなんて。イオナは口も上手い。真実はどうかは分からないが。
……この、何もできない俺のためにみんなが何かをしてくれているのなら。俺はみんなに何を返せるだろうか。考えて、考えて。やっぱり何もできることはなさそうで。

「イオナ、俺……、」
「昼食からで、いいですよ」
「……え?」
「祈たちと、食べなさい。それだけできっとみんな嬉しく思うでしょう」
「で、でも……、」
「無理に笑わずとも元気なフリをしなくとも、普通にしていればいいのです。三人とも、今のアヤトに会いたがっているのですから」

無言で俯いている俺に向かって、イオナが最後にこういった。「それでは、お昼に迎えにきます」、と。……結局のところ、俺の答えがどちらであってもイオナは俺をみんなのところに連れて行く気満々だ。
扉を閉めて、ため息をひとつ吐く。確かにイオナに引っ張ってもらわなければ今の俺ではどこにも行けそうがないけれど。今日からはなるべく、また自分の足で進めるように頑張ってみようか。

……あっという間に、昼になった。
というのも今まで昼夜逆転の生活をしていた俺は、あれから眠くなって寝てしまっていたのだ。ベッドに寝っ転がったら即寝落ち。迎えにきたイオナに起こされるまですっかり寝ていた。……ただ、寝起きはやっぱり気分が悪い。

「……かなりうなされていたようですが」
「……平気。準備するからちょっと待ってて」
「──……ええ」

べとべとの頬と潤む目の縁を乱暴に拭ってから、早足で洗面所へ向かう。蛇口を捻って水を出す。排水溝までまっすぐに流れ落ちる水を見て、慌てて両手で掬って顔面にぶちまけた。
……本当に面白いぐらい、毎日のように見てしまう。
繰り返される悪夢はどうしようもなく、辛くて苦しい。心に重りがどんどん乗せられているような感覚だ。

いつ振りだろうか。ヘアーワックスを取り出してみたが、やっぱりそこら中にふっとリヒトを思い出してしまうものがありすぎて、泣きそうになる前に口が大きく開いたままの薄汚れたバッグに向かって放り投げた。

「では、行きましょう」

結局、顔を洗っただけで他は特にやることもなく。以前と違うところといったら、服装ぐらいだろうか。もうあの制服は血の臭いが染み付いてしまって着れないため、同じようなものをイオナが発注しているところだ。それまでは以前トルマリンに選んでもらった黒いパーカーとジーンズというラフな格好でいるわけだが。そういえばトルマリンやルベライトはどうしているだろう。
──……それから。あいつも。

「こちらです」
「……」

色々考えていたら、あっという間にひとつの扉の前にやってきた。両開きの扉になっていて隙間からはほんのりといい匂いが漂ってきている。……微かに、声も聞こえる。
ド、ド、と心臓が走り始める。何をそんなに緊張することがあるか。中には知っている祈たちしかいないのに。いや……知っているからこそ、緊張してしまうのか。じわりと手汗が出てくる中、イオナの片手が俺の肩をぽんぽんと叩く。

「普通で、いいのです」
「……分かってる」

クスリと笑うイオナにムッとしてから。扉が、開けられる。同時に美味しそうな匂いがふわっとやってきて、次いで大きな窓から差し込んできている光に目を細める。部屋には大きな丸いテーブルが一つ、真ん中に置いてあった。その横に料理がずらりと並んでいて。
──……ガタリ。
座っていた祈とエネが、ほぼ同時に立ち上がる。少し遅れてもう一つ椅子が後ろに下がる音がした。視線は全てまっすぐに、……俺に向けられている。

「──……アヤト……」
「アヤトくん、……、」

いつもならすぐに駆け寄ってくる二人が、その場に立ち尽くしたまま名前を呼ぶ。小さく震える声が聞こえた瞬間。光が二人の背を照らすのを見て、……ふと、どうしてか泣きたくなってしまった。悲しくもない、嬉しいというわけでもない。それでも、どうにも気持ちが抑えられなくて。
潤む視界に二人を捉えて。開けっ放しの扉の前に膝をついて、ゆっくり片手を伸ばした。乾いた唇を開け、何とか言葉を紡ぐ。

「……俺のこと、……ずっと、待っててくれて、……ほんとうに、ありがとう、っ……!」

涙が落ちるのが早いか。伸ばした腕を通り越して、……気付いたら、祈に抱きしめられていた。首元に細い腕を回して顔を埋めて、何も言わずに抱き着いてきている。一瞬驚いて止まりかけた涙が、微かに耳元に聞こえる祈のすすり泣く声を聞いた途端に溢れ出て。背中に腕を回して抱きしめる。

「……やっと、ぼくたちのこと、見てくれるんだね、」

ゆっくり歩いてきたエネが、俺の前にしゃがんだ。膝に手を当て、覗き込むように見上げる。紫色の丸い目は、潤んで余計にキラキラして見える。

「ぼくには、アヤトくんの悲しさや辛さは分からないけれど。……寄り添うぐらい、許してくれる?」
「こんな、俺で、よければ、……、」
「アヤトくんだから、寄り添いたいと思うんだよ」

エネが言う。にこりと前と変わらず同じく微笑んで、俺の半身にそっと覆いかぶさる。ピンク色の細い髪が頬を撫でるように滑り落ちた。くすぐったく、気持ちよく。
……その先。コツ、コツと靴の音が鳴る。すぐ目の前で止まり、見下ろしている金色。詩には色々と言うべきことがある。鼻を啜ってから見上げると、詩がそっと膝を曲げて床に座った。ふわりとスカートが膨らんで床に黄色い花を咲かせる。

「詩、……俺、」
「…………ごめんなさい」
「──うた、」
「わたし、アヤトにひどいこと言っちゃった……アヤトが一番つらいってこと、ちゃんとわかってたのに、……っ、それなのに……っ!」

碧眼から涙がこぼれ落ちるのを見て、思う。……詩は俺なんかより、ずっと大人だ。あれは俺が悪いのに、それでもこうして真っ直ぐに謝ってきて。すごいと、素直に思った。
片手を伸ばして、床に着いている手にそっと触れると両手で優しく掬われる。俺の手を挟みながら指を絡ませて、祈るように視線を向け。

「……死ねばよかっただなんて。もう、絶対に言わないで、」
「…………、」
「こんなにもアヤトのことを大切に思ってくれている人がたくさんいるのに……あんなこと、言わないでよ……っ!」

泣きながら言う詩に、ふっと自分を重ねてしまった。
……あのとき。俺がリヒトへ必死に伝えた言葉が、ここにもある。届いたけど、届かなかった言葉。リヒトが拾いかけた言葉を、……今ここで、俺が、拾いあげて。

「──言わないよ。……みんなと一緒に、いたいから。頑張って、生きてみるよ」
「……っ、……、」
「……ありがとう、詩。辛い思いさせて、……ごめんな」

泣きながらぎこちなく笑ってみせると、……詩が目を細めてから大粒の涙を散らばせて。腕を伸ばして抱きついてきた。祈とエネもまとめて抱きしめ、声をあげながら泣いていた。

人とは。ポケモンとは。生き物とは──……こんなにも、あたたかいものだったのか。
もしかしたら、ずっと知らずにいられればいいものだったかも知れない。
けれども今は、それ以上にあたたかさを知れた喜びの方が大きかった。

……すごく、すごく、嬉しかった。




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