14

扉を前にノックをする。当たり前のように返事はなく、また今日も無言で中へ入った。
……異臭がする。当たり前だ。いくら部屋の温度を調節しようが、遺体の腐敗は進むのだから。衰弱しきってもなおこの場に居座り続けているアヤトは、どうやら本当に死にたいらしい。

「アヤト」

呼びかけても返事がない。気絶に近い眠り方をしているようだ。

昨日の晩のこと。
祈が泣きながらすがり付いてきた。どうすればアヤトを元気にできるのか。自分は何をすればいいのかと、ひどく思いつめていた。祈だけではない。エネも詩も。……そして、彼も。みな、塞ぎこんでしまっている。

そんな私はどうなのかと聞かれれば、それほどではないと答えよう。
いつだったか、マスターに言われたことがある。"お前はまるで、機械のようだ"と。その時はどういう意味か分からなかったが、今になってようやく分かった。
感情が、鈍いのだと。感情がないわけではない。しかし、それほど大きく揺れ動きもしない。
それがけっして良いことだとは言えないが、……正直、今だけはとてもありがたく思う。

「──そろそろ、潮時でしょうか」

黒い手に縋り赤子のように寝ているアヤトの横。静かに膝をついてから座り、横顔を見る。

大変、可哀想だと思っている。きっと私には想像もできない悲しみの中にいるんだろう。ここまで至るアヤトの気持ちも分からなくはない。……しかし。
もう、いいだろう。
たくさん待った。これでもかというほど待ったが、それでもアヤトは変わらなかった。
このまま死んだものに執着して、生きている祈たちを一切見ようとしないのなら。
──……命をかけて戦った、彼の想いを無下にするというのなら。


立ち上がり、寝ているアヤトからそっと黒い手を離す。するとすぐさま目を覚まし、黒い手に手を伸ばそうとするではないか。これだけでもう気が付いてしまうのだ。それほどまでに大切な存在だったということは認めるが、それとこれとは別である。

半目状態のうちに両脇に腕を入れ、後ろまで引きずり離すと、あっという間に暴れだす。それでもお構いなしに後ろから抱え込むようにアヤトを押さえながら二人して床に座り、自身は壁に背を付ける。アヤトの片手を軽くひねって後ろ手にし、もう片方で事前に近くに置いておいた、どろどろの流動食が入った皿をひったくるように取る。暴れる脚も後ろから脚を絡ませ、無理やり床に押さえつけた。普段ならば、逃げられる可能性もあったが、弱っているいまならば簡単に押さえつけられるというものだ。

「っ何すんだよ!?はなせ、離せッ!!」

抱えるようにしているアヤトが、首を少しだけ後ろに回してこちらを睨む。それに唯一空いている片手で、動きを封じられている今もなお、絡ませている脚を退かそうと躍起になっている。まだ、逆らう気力はあるようだ。
その事実にひっそり嬉しくなりながら、後ろから皿の縁を無理やりアヤトの口に押し当てる。当たり前のように空いている片手で皿を退かそうとしたり、こちらの手首を思い切り握って動かそうとしていたが。それでも押し負けることはない。負けるわけには、いかなかった。

「食べなさい」
「っん、……んぐ、……っ!」

暴れるアヤトの口元を皿で押しながら、頭を自身の胸板に押し付ける。そこで皿を傾けて、有無を言わさず流動食を流し込む。だがここでも、アヤトの逆らう気力は大きくて。
ぼたぼたと、口の端から液体が流れて落ちていた。飲み込まず、そのまま吐き出していたのだ。これではもはや、本当にただの赤子ではないか。呆れながら、仕方なく後ろ手に押さえていた手を離してから、アヤトの顎を掴んで持ち上げる。無理やり上を向かせれば、やっとお互いに目があって。

「これをアヤトが食べ終えたら皆を呼びます。……彼を、埋めましょう」
「っ!!!」

驚いたついでに喉元が動いた。そうすればすぐにせき込み、顎を離すと前のめりになって苦しそうに息をする。それをいいことに逃げようとしたところを、すかさず肩を掴んでこちらに引き寄せ、また顎を持ち上げ皿を押し当ててから斜めに傾けて流し込む。涙目が、こちらを睨む。そこにはどこか、懇願も込められていた。
どうか、埋めないでくれと。
言われているような、気がした。

「アヤトは、このまま貴方の大切な人が腐敗していく姿を見たいのですか」
「……、……っ、」
「いつまでもここに置いて、穏やかに眠ることさえ、させないつもりですか」
「そんなこと…っ!!……でも、……でも、……ッ!」
「……いくら望もうとも、もう時間は戻りません。……残されたものは、どれほど悲しくても辛くても、……前に、進まなければなりません」
「──……前、に、……っ、」

ハッとしたように目を見開いたアヤトがこちらを向く。それから一度、白い台の上を見て。
……ゆっくり顔を戻してきたときには、また涙をぼろぼろと落としていた。背を向けて、足まで抱えて俯き震える。まるで自分自身を抱えているような小さな姿にそっと手を伸ばして頭を撫でると、さらに縮こまって小さく声を漏らして泣く。


──……これから彼は、親友を埋める。





地上は瓦礫の撤去やビルの再建、復興支援により沢山の人がいる。そんな中、柩を抱えては歩けない。
ビルの地下から密かに作られていた、今はもうほとんど使うことの無くなったトンネルを歩いてゆく。ただ誰のひとりも言葉を発することはなく、ひたすら無言で目的の場所へと向かっていた。足音だけが響き、どこか遠くの方で水滴が落ちる音までも聞こえてしまう。

そのまま下水道を抜けて、階段を抜ける。……ヒウンシティのはずれにある、とある場所にたどり着く。昨日のうちに買い取って整備もすでに済んでいるここは、何年か前までは私有地だったが、所有者の好意から常に一般開放されていて誰もが立ち入り自由の場所となっていた。ヒウンシティの中庭と呼ばれ、親しまれていた。

「こちらです」

芝生を踏んで、地面に大きくくぼみができているところまで進む。……普段は色々なポケモンたちがいるのだが、あの事件以来姿をめっきり見かけなくなった。いなくなったわけではなく、きっとどこかに潜んでいるのだろう。
柩をくぼんでいる地面へ静かに降ろさせ、一旦部下たちを下がらせる。ここからは、私たちだけで十分だ。

柩をじっと見つめているアヤト。その数歩後ろに、祈とエネ、詩の三人が寄り添うように並んでいる。皆視線の先にはアヤトがいるのが、いつものように駆け寄る気配はどこにもない。そして、三人のさらに後ろ。一人、彼は離れて立っている。眼帯も再び着けて、前髪で目元を深く隠しているため表情は窺えない。

「……これで本当に最後です。蓋は、どうしますか」

足元に置いてあるスコップを見てから、アヤトに視線を向ける。
開けるか、開けないか。
アヤトが、唇を噛み締めながら視線を落とす。それからしばらく間が空いた。……そうして。アヤトがふらりと一歩踏み出して、私の目の前までやってくる。

「──……開けない、ままで、」

震える唇から出てきたのは、悩みに悩んだ末に出した、いまだ迷いのある弱々しい答えだった。今すぐにでも答えが変わってしまいそうな雰囲気を感じつつ、腰を丸めてスコップを二本拾う。一本は自分、そしてもう一本は。

「…………」

私から受け取って、握りしめてから土が盛ってある横まで行く。
スコップの先を土に差して、ゆっくり、ゆっくりと掬い上げる。土を一塊のせたまま一度動きを止めてから、アヤトは柩を見つめた。丁度、顔の辺りだろうか。

鼻から息を吸う音がした。直後、大きく腕を横から振って。
──……ザッ。
視線の先。棺の上に、土が被さる。
これを皮切りに、一人、まるで機械のように土を掬い上げては放り投げるを繰り返し始めた。

「……っ、ごめん、ごめんなリヒト……っ、!おれじゃあ、お前のこと、……助け、られなかった……っ!やっぱり、なんにも、できなかったよ……っ!!」
「──……、」
「お前ばっか、言いたいこと、おれに言ってきてさあ……っ、ずりぃよ、──……おれだって、おれだってっ!リヒトに言いたい事、……ったくさんあったのに……っ、!まだ!なんにも、伝えられてなかったのにぃ……っ!、」

土をかけながら。大粒の涙を散らばせて、柩に向かって言葉を投げる。
私でも直視できないぐらい辛い姿に、そっと視線を外して反対側から土を掬ってゆっくり流すように埋めてゆく。
泣き崩れながらも土をかけ続け、どんどん土に埋もれて見えなくなっていく柩に向かって言葉を投げ続けていた。意味のないことではあるが、……今だけは。どうか、何かに繋がってほしいと。柄にもなく、思ってしまった。

「……、……」

夕暮れ。赤く熟れた夕日が立てられたばかりの墓標を照らす。かけられている花冠も、今はオレンジ色に染まっている。その前にアヤトが座り、指先でそっと墓標をなぞる。愛しさ、切なさ、……色々な感情が込められているようなやんわりとした触れ方だった。

「……おやすみ、リヒト」

ぽつり。優しい言葉が消えてゆく。
アヤトが鼻を啜りながら立ち上がり、後ろをゆっくりと振り向いて顔をあげた。夕日に赤くなった目を細めてから、視線をさげる。
そこでやっと、ハッとしたように辺りを見回していた。声を抑えて静かに泣いている祈たち、そして、……ロロさんの姿を捉えて。
一瞬、何か言いたそうに口を小さく開いたが、……そっと、気づかれないように閉じて。

「……帰りましょう」

私の言葉にこくりと頷き、歩き出す。それに合わせて全員が墓標に背を向ける。……そんな中、最後に一人振り返ったアヤトが、墓標に向かって片手を振っていた。

「……またな」

泣きたくなるような声色に答えるように、花冠が、揺れていた。




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