13

ハーフによるサンギ牧場とヒウンシティで起きた反乱は、大々的にニュースとなって日夜世間を騒がせることとなる。

一時的に封鎖都市となっていたヒウンシティも次第に規制が緩和され、他の街からの応援者たちの出入りが目に見えて多くなっていた。一時避難所のひとつに指定されていた某ビルも、やっと最後の一人が移送されて大分落ち着きを取り戻しつつある。……しかし。街や人、ポケモンたちに残された爪痕は深い。

それぞれが、それぞれの思いを抱きながら。
今日を、生きていた。





「……ロロさん?」
「──……ああ、祈ちゃんとエネくんか」

真っ白の扉の前。
まだ湯気のでている温かい料理を乗せたトレーを持ったまま、ずっと立っている彼がいた。祈ちゃんが声をかけると、先ほどまで俯いていた顔をパッとあげて微笑むのを見る。頬には分厚いガーゼが貼られたままで、頭にも包帯を巻いている。服で見えないが、きっと身体中に白い布が巻かれているんだろう。ここからでも薬品の匂いが漂っていた。
まだ体調も万全ではないというのに、それでも彼は、毎日。何も持たずに、この扉の前に立って……いや、立ち尽くしていた。

「、……あの、」
「俺じゃあ、きっとまたダメだからさ。……祈ちゃんとエネくんから、渡してくれないかな」
「……一緒に、中に入りませんか」

ぼくたちの答えを聞く前から、祈ちゃんにトレーを押し付けるように渡す彼を見上げる。眼帯にそっと手を当てながらぼくを見下ろしているもう片方の真っ青の目は、今日もまた目元が薄っすらと赤くなっていた。次第に濃くなっている隈もそうだし、やつれてきているのがぼくでも分かる。
彼が今まで上手く隠していたであろう部分が日に日に明らかになってくることは、ひっそりとぼくたちに恐怖を与えていた。

──……ロロさんまで、アヤトくんみたいになってしまったらどうしよう。

そんな恐怖が、じわじわと心に重りを足していたのだ。

「……、──……ごめんね」

ぼくの言葉に間を置いてから、ぽつりとそれだけ言って背を向ける。……彼の背は、あんなに小さかったか。

「……わたし、……なんて言ったらいいのか、分からないよ」

トレーを持ちながらつい先ほどまでの彼と同じように俯く祈ちゃんを見てから、扉を見た。
開けずとも、誰も寄せ付けないような雰囲気を出している。実際あの日以来、みんなこの部屋を避けていた。……避けざるを、得なかった。
この扉の先は。

たくさんの思い出の欠片が造る、
──……ふたりぼっちの、箱庭だ。

他の誰も入ってはいけない。誰も何も言わずとも、きっとみんなそう思っている。
そこへ唯一踏み込んでいるのがイオナさんだったのだけど、今日は彼がアヤトくんのご飯を持ってきたということは何か用事があって出払っているんだろうか。

「祈ちゃん、大丈夫だよ。──……ぼくも、なんていったらいいのか、全然わからないから」
「ねえエネ。さっき、ロロに何か言えばよかった……?」
「……何も、言わないでよかったと思うよ」

扉の取っ手を握るぼくを見て、祈ちゃんが小さくこくりと頷いた。
大きくなっていく心臓の音。……ああ、この先には、大好きなぼくらのアヤトくんがいるというのに。

「………………」

真っ白い部屋には窓は無く、薄暗くてひんやりしていた。家具は何も置いておらず、ただ、真ん中に白い台が佇んでいた。大きな布が被せてある台の上からあの子が座り込んでいるところまで、黒いリオルの手が伸びている。それをずっと握りしめているあの子は、ぼくたちが部屋に入ってもたった一度も顔をあげようとはしなかった。ずっと、もう永遠に動かない手を掴んでいる。

一度ひっそりと震えあがってから、祈ちゃんと一緒に静かに歩き出す。血で汚れた服のままの背中の後ろ。冷え切ったご飯が乗ったトレーを持ち上げて、ロロさんから渡されたトレーを祈ちゃんが静かに置いた。食器が小さくぶつかる音でさえ、この部屋では大きく聞こえる。……また、何も食べていない。

「──……ぁ、アヤト、」

絞り出すように呼ばれた名前は、届くことなく一瞬で消える。キュッと口を噤む祈ちゃんの手を握り、また静かに部屋を出た。扉を閉めて、……無意識に溜めていた息を大きく吐き出した。

「……エネ、……ねえ、わたし、どうしたらいいんだろう……、っ?」
「──……、」

扉を閉めた途端。何も口にしていないあの子の姿に、とうとう祈ちゃんがほろほろと涙をこぼす。それと同時に、先日の出来事を思い出してしまったのだろう。ぼくにしがみつきながら、必死に返事を待っていた。





──……あの日。ここまであの子を運んだのは、アヤトくんだった。

他の誰にも触らせまいと、殺気に近いものを放っていたのは紛れもなくアヤトくんで。気が付いたときそれを見て、……全てを、悟った。

沢山の人やポケモンが避難していたこのビルに躊躇いもなく、背に抱えたまま入ったのだ。その場にいるあらゆる生き物の視線を奪った。非難の声は一瞬で消えていた。ぼくの目には、みんなその時だけすべての感情を忘れているように見えていた。その瞬間だけ、あの子たち以外の時間が止まっているような。そんな気さえ、してしまった。

自然と道を開ける人々の間に血の道を作りながら、ず、ず、とゆっくりと歩き抜けて。人垣を抜けてから一回だけ。少しだけ振り返り、無言でイオナさんを見る。途端。弾かれたように先頭へイオナさんが駆けて行って、とある部屋へ誘導した。……それが、この真っ白い扉の部屋である。

「──…………、」

何もない、薄暗い部屋を見て。一瞬たじろぐ様子を見せたが、すぐに足を踏ん張って台に向かって真っすぐ進む。……何気ないものが、着実にアヤトくんに現実を突き付けている。アヤトくんにとっては今、世界中のあらゆるものすべてが、敵になっていた。
台の前。ゆっくりしゃがんで背から降ろし、また抱きしめる姿を見る。丸まっている背が、肩が、大きく震えていた。

……きっと。彼なりの、思いやりからの行動だったんだろう。もしくは罪悪感からだったのか。ぼくには分からないけれど、真っ先に動いたのは彼だった。
アヤトくんの後ろに立ち、そっと肩に手を乗せるロロさんの背を見た。

瞬間。何かが、弾けるような音がした。
それと同時にロロさんが後ろに一歩、大きく下がる。一体なにが起こったのか。分からないまま視線を移すと、さっきまで顔を伏せていたアヤトくんがロロさんの片腕をきつく掴みながら見上げていた。涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、眉間にしわを刻み込んで鋭く睨む表情で。

「お前が……ッ!お前がリヒトを殺したんだッッ!!お前が、ロロが!!リヒトを殺したんじゃないかっ!!」
「──…………、……、」
「返せよ!!リヒトを返せッ!!リヒトを、……ッ、!!」
「っアヤト、やめなさい!」

噛みつくように言葉を叩き付けるアヤトくんとロロさんの間にイオナさんが割り入った。ふーっふーっと威嚇するように呼吸をするアヤトくんと、身体を石のようにして浅い呼吸を繰り返すロロさん。……二人とも、見ているだけで痛々しい。

「リヒトが殺されることになるなら……っ俺が、俺が死ねばよかったんだ……っ!」

ぼろぼろ泣きながら言葉を吐き捨てるアヤトくんの横。イオナさんが怒鳴る前に、ふっと金色がぼくらの後ろからやってきて、アヤトくんの胸倉を掴む。そして、手のひらを大きく広げて思いっきりその頬を叩いた。パァン!と乾いた音が部屋中に広がる。

「っロロおじさまは!!必死であんたのこと守って戦ってくれたのにどうしてそんなこというのッ!?悲しいのはあんただけじゃない!!辛いのは……っあんただけじゃないッ!!」

大粒の涙を零しながらアヤトに向かって言い放ったあと。詩ちゃんは、ハッとしたように握りしめていた胸倉を捨て放して、一人、泣き声を抑えたまま部屋を飛び出して行った。即座に祈ちゃんが後を追いかけ、部屋を走り出て行く。

「──……リヒトがいないせかいなんて、……いきていたって、いみがない……」

ぽつり。アヤトくんが呟くように言った言葉は、……ひどく、大きく聞こえた気がした。それがロロさんにとってどのように聞こえたのか。
ぼくには、到底分からない。




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