18

壊された大きな扉の先には大きなベッドがひとつ。その上では、俺たちなんかお構いなしに一心不乱に腰を振り続けている男の姿があった。走り出す手前、前にいたトルマリンが急に振り返る。つられて後ろを見ると、階段を転げ落ちていったオーロットがしぶとく舞い戻ってきていた。「申し訳ありません」、トルマリンの言葉が聞こえたと思ったときにはすでにその場にいなかった。

激しい衝突音を背後に、今度こそ走り出す。一応周りを見たが、俺に攻撃してくるポケモンはいない。見えないだけで本当はいるとかいうのだけは勘弁してくれ!なんて思いつつ、あと少しの距離のところからスピードを落として慎重に近づこうとしたものの。さっきまでは細く青白い脚だけしか見えていなかった、男の下にいるエネを見てしまったら"慎重"なんてのはすぐさまどこかに吹っ飛んでいった。

踏み込んで、拳を力いっぱい握って。

「っエネから離れろおおっ!!」

突き出した拳は生暖かく汗ばんだ肉塊に包み込まれたが、瞬時に弾けてゆっくり傾く。本気で横腹を殴った。しばらく痛みに悶えているがいい!思わず口元が緩んだ。が、次の瞬間、男の腕が俺に向かって伸びてきた。慌てて左腕で払い受けの体制を取ると、男の腕が横に弾かれる。その時大きく見開いていた俺の目は、男の表情をばっちり捉えてしまった。……殴られてもなお、笑っていたのだ。
全身に鳥肌をたてながら、身体を捻って左足で蹴り上げると狙ったつもりはなかったが顔面にまっすぐ入った。指先の気持ち悪い感覚にすぐさま引っ込めて、ベッドから転げ落ちる男を見た。

「っエネ、大丈夫か、エネ!」

エネは肢体を放り出したまま、激しく咳き込んでは浅い息を繰り返している。自力で起き上がるのは無理そうだ。慌てて首元と膝裏に腕を入れて踏ん張る。果たして俺の力でエネを持ち上げられるのか一瞬不安になったけど、エネが馬鹿みたいに軽いおかげで難なくベッドから浮かせられた。そのまま横抱きにして壁際まで避難する。幸い、この部屋にはポケモンがいないようだ。が、廊下ではまだトルマリンが戦っている。逃げ道はまだない。

「アヤト、……くん、……ぼく、」
「あとで聞くから今は休んでろよ」

着ていた学ランを脱いでエネに被せてから、パーカーの手首の裾を思いっきり伸ばして手を全部服に仕舞い、エネの顔にかかっている粘ついた白い液体を拭う。正直言って、今すぐ服とエネを丸洗いしたい。
とりあえず顔だけ拭いてやると、エネの目は閉じていた。気を失ったようだ。息をしていれば問題ない。

「さあて、どうすっかなあ……」

エネを壁に預けてから立ち上がる。俺の視線の先には、丸々太った全裸の男。ここは地獄か。今は怖いというよりも気持ち悪いの方が圧倒的に上回っている。さっきから止まらない鳥肌に腕を擦りながら、なんとか考えを変えようと男の胸の辺りだけを見てみる。あれを美人なお姉さんの巨乳に置き換え……られるわけがねえ。やっぱりここは地獄だった。

「君、最高だよ!素晴らしいパンチと身のこなし!君もポケモンなのかな?いやでもやはり人間かな?ああ、どちらにしてもその身体を犯したい」
「あ……ありえねー……」

リアルに吐き気がしてきた。やばい。トルマリンはまだなのか。口元を押さえながらゆらり近づいてくる男をどうしようかと睨んでいると。

「──……あなた!どうしてここにいるのよ!?」
「……」

男の動きが止まり、目線が俺から後ろを向く。それを見てから俺も声がした方へ顔を向けると、この部屋の奥、階段があったらしい。そこから煌びやかなドレスを着た女の人が降りてきた。これからパーティーにでも行くかのようなド派手な髪型と服装にビビる。声の主は彼女だった。全裸の男の手前、なんの躊躇もなく走ってくるのを見てさらにビビった。……遠くからみたら美人かと思ったが、近くにきたら、いや、ただのババアじゃないか。損した気分だ。

「……君こそどうしてここに?今日は別の場所にいる予定だったはず」
「それはこちらの台詞よ!あれほどエネと一緒に別荘へ留まるように言ったのに!これでは何のためにあなたにエネを売ったのか分からないわ!」

ジジババの口論を見せつけられる俺の気持ちにもなってほしい。……が、聞く価値はありそうだ。母親代わりだったであろうこの女が、エネが「お父さん」と呼んでいたこの男にエネを売ったとは一体どういうことなのか。この二人は夫婦じゃないのか?

「俺が教えてあげようか」
「っうおおっっ!?」

突然、耳元で声がしたもんだから驚いて飛び上がった。冗談じゃなくて本当に体が床から浮いた。
尻もちをついて両手を床に押し付けたまま顔を上げると、いつの間にかロロが居た。途端、イラつき度が沸点に達する。

「っお前なあっ!?なんで気配消すんだよバカァ!びっくりしちゃうだろ!?びっくり死するわ!」
「あは、それなら本当に死ぬかまたやってみる?」
「ざけんな!!」

ロロの胸元の服を掴んでぐらぐら揺らすが、やはり暢気に笑っている。……が、ふと、目線が前へ動いた。そこで現状を思い出して俺も前を見てみれば、男も女もいつの間にか口論をやめてこちらをじっと見ていた。ロロへ言おうと思っていた言葉を飲み込み、ロロを盾にして少しだけ後ろに下がる。

「まさか、その少年とお前が知り合いだったとは。偶然、……ではないな」
「ええ、その通りですとも。この子がいたからこそ、俺の計画は成功したんですよ」
「……は、?ロロ?」

俺を見て、ロロがにっこりと笑みを浮かべる。この子とは、エネではなく俺のことだとでもいうのか。訳が分からない。思わず顔をしかめる。

「アヤトくん、君はよく動いてくれたよ。本当に、俺の思い通りに動いてくれた」
「なんの話だよ……」
「つまり、エネくんと君の出会いは俺が仕組んだものだったってことさ。俺がそこの女を陥れるためにね」
「…………は?」

直後。背後から足音が複数聞こえてきた。イオナたちがやってきたのか。振り返って壊れた扉を見ると、茶色のコートを羽織ったスーツ姿の男が入ってきた。隣には茶色のミニスカートを履いた綺麗なおね……いや待ってほしい。服装は女性なのに……あれは……!っガタイの良いオネェだ!!

「下にあった女の遺体を確認した。加えて、違法営業していたこの店に関しても確認済だ。現行犯逮捕する」
「なっ、なんですって!?いきなり何を、」
「国際警察よ。大人しく、捕まってちょうだいね」
「き、貴様あ……!」

手錠をかけられる男がロロを歯ぎしりしながら睨むが、当の本人は変わらず笑顔のままである。
……国際警察。なんかすごいのがどうしてこんなところにいるんだ。ロロの隣にいる、黒髪の男が持っているのは本物の警察手帳っぽい。なんなんだ、本当になんなんだ?

「おいロロ。これぐらいお前だって、」
「先輩、俺がお願いした"彼ら"は?」
「……連れてきた。出てこい、お前らお待ちかねのお仕事だ」

言葉を途中で遮られたことにムッとしながら、国際警察の男が片手をスッとあげた。
──……瞬間、何もない真っ暗闇に覆われていた天井から、スッと二人の少年が現れたではないか。既に腰を抜かしていた俺は、思わず後ろに身体を傾けて喉元から出そうになった声を押さえた。
だって、だって聞いてほしい。警察が被るような帽子を被っているくせに、一人はめちゃくちゃでかい鉈を持っているし、もう一人なんかぱっと見で分かるような大人の玩具を馬鹿みたいに腰のベルトから吊り下げているんだぞ!?確実にヤバイってことだけは分かる。

「はあい、お兄さん。わざわざオレたちを呼んでくれたってことは、つまりそういうことだよね?」

鞭を片手に、紫色の髪を揺らして少年が振り返ってロロを見る。赤い目が細くなってもなお、妖しい輝きを失わない。紫色の赤い目。天井から透けて出てきた……もしかして、ゲンガー、なのか……?お、おおう。ゴーストタイプとかマジ勘弁。もう腹いっぱいだ。

「うん、そういうこと。好きにしていいよ」
「やりい。しかしまあ、あのおじさんにはぼくの躾けはご褒美になっちゃいそう」
「てことは、ぼくがおじさんの方でいいよね?ニシシ、丸々してて、斬り甲斐がありそうだ」

少年たちが構える。大きな鉈を軽々と持ちあげる少年と鞭をリズミカルに床に叩きつけている少年を前に、流石のおっさんたちも身動きが完全に取れなくなっていた。ついさっきまではあんなに大きな敵に見えたのに、今では得体の知れない敵を前に畏縮している姿が哀れにすら思う。

「君、大丈夫か?」
「……あ、ああ、はい……」
「馬鹿猫に振り回されて可哀想になあ。さ、君は早く下の階へ行きなさい。君の仲間が待っているよ。後ろの子は、すまないがこちらで手当させてくれ」

国際警察の人に手を差し伸べられて、素直に掴んで立ち上がる。エネのことは心配だけど、国際警察なら悪いようにはしないだろう。
何が何だか分からないことだらけのまま、目の前の事が起こる前に扉を抜けた。ロロはどうするのか。ふと気になって壊された扉があった壁際に手を添えながら振り返ってみて、思わず固まる。……どう、表現したらいいのか分からない。口元に人差し指をそっと添え、撫でている唇は弧を描いていた。目は形だけ笑っているが、中身は違うように思った。あれは、……ああいう顔が、まさに"したり顔"とでもいうんだろうか。

階段をゆっくり降りているとき、ものすごい声があの部屋から聞こえてきていた。男の声と、女の声。断末魔の叫びってああいうものなのか。何が行われているのか分からないけれど、声からしてただならぬことだというのは想像できる。ぶるり。思わず身体を震わせながら、階段の半分ぐらいのところで慌ててやってきれくれたトルマリンの顔を見上げた。

ロロは、まだあの顔で、事の次第を満足気に眺めているんだろうか。
考えて、思い出す。そういやレパルダスって、「れいこくポケモン」だったっけ。

「っアヤト様!?アヤト様、大丈夫っスか!?ど、どこかお怪我でも……!?」

倒れるようにトルマリンにしがみつき、顔を思い切り埋めながら首を左右にゆっくり振った。背中に回した腕に力を込めて、抱きしめる。手足が冷えて、頭がクラクラしている。とにかく今は、何でもいいから暖が欲しかった。安心できる何かが欲しかった。

「──こちらトルマリン。アヤト様を保護。早急にそちらへ向かいます、オーバー」
『こちらルベライト。トル兄、ボクたちは大丈夫だから心配しないで、オーバー』
『了解。トルマリンが合流次第、撤退致します。いいですね』
「了解」

ジジ。電子音が消えた。同時にトルマリンがしゃがんで、しがみついた俺をそのまま前に抱きかかえるようにして持ち上げた。背中から一旦腕を離して、今度は首元に腕を回してしがみつく。そうすれば、トルマリンが階段をさっさと降り始めた。揺られながら、ふと、泣きたくなってしまった。我慢できず、顔を自分の腕に思いっきり押し付けてひっそり泣いた。

恐怖からやっと、解放された。訳が分からないことだらけなのは変わらないけれど、とりあえず俺は助かった。そう思うと、また謎の感情が溢れてきた。それと一緒に、震えもきた。抑えていた震えが今になってやってきたのか、それとも。
それとも、ロロに対する恐怖感からなのか。俺自身にも分からないが、……できれば前者だけであってほしいと思った。




- ナノ -