17

彼女が振り返ったとき。扉の前にすでに彼は立っていた。いつの間にいたのか。物音一つ聞こえず、今まで気づくことはできなかったが、別段気にする様子は見せず視線を向けた。闇に溶けるように佇んでいる彼が、片手を胸元にひらりと寄せて腰を曲げる。

「こんばんは、マダム。素敵な夜ですね」
「どのようなご用件かしら」
「まあ、そう焦らずともすぐに分かるでしょう」

スッと目を細める彼の、青い瞳が光って見えた。彼女はそれに少しばかり眉間に皺を寄せながら椅子に座り、ため息を吐く。それから隣にある丸く小さなテーブルの上に置いてある携帯電話をひどく気にしている様子を見せた。何度も視線を向けては、光ることもない鳴ることもない携帯電話の画面を人差し指でコツコツと引っ掻くようにしている。
そんな彼女の姿を、彼は楽し気に見ていたことは言うまでもない。





グネグネと動き回る4本の黒い手を掻い潜り、腕を大きく振り上げると紫色のオーラでできた鋭い爪が棺桶にぶち当たる。ガァン!と何度目かの音が響いた。イオナの背後、襲い掛かる手の前に素早くトルマリンが躍り出て見えない壁を展開して弾く。その間にも赤毛の女の子がデスカーンの後ろから蹴り落とすと、棺桶がぐらりと傾いた。黒い手が縮んで転倒を防ぐ。

「すごい、」

祈を抱きしめながら詩が言葉を漏らす。全くもってその通りで、俺も身体の具合を確認しながら目の前で繰り広げられるバトルから目が離せなくなっていた。
イオナがメインで攻撃をし、トルマリンがイオナに襲い掛かる全攻撃を「まもる」で弾く。女の子は他二人を補助しながら隙あらば鋭い攻撃で確実にダメージを与えている。……つまり、三人の息はぴったりでデスカーンが反撃をする隙がないのだ。

「……よし」

まだ少し痛む腹の辺りを軽く擦りながら、壁沿いに立ち上がる。できることなら、このバトルの華麗なる結末を見届けたいところだが。言っちゃったんだもん、行くしかない。エネの、ところへ。
態勢を低くしながら、どうやって階段まで行こうか考えながら部屋を見回していると、詩が俺を見上げた。

「アヤト、……一人で大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないけど、行くしかないから」
「──……、気を付けて」

何か言いたそうな顔をしているが、結局無難な言葉を選んだらしい。刺々しい態度ばかりしていた詩がやたら丸くなった気がして少しだけ可笑しくなったが、グッと堪えて平然を装った。
祈はまだ気を失っているようだが、顔色は悪くない。それに、詩になら安心して祈を預けることができる。祈を見てから頷いて見せると、詩がスッと目線を動かした。


緊張で心臓が飛び出しそうだ。詩と祈の元から、とりあえず壁際に沿ってゆっくりと距離を縮め続ける。バトルは常に動き続けている。ところどころにある家具の影に隠れながら、どんどん聞こえる音が大きくなる度、手に汗を握っていた。三人の邪魔にならないように。そしてデスカーンにできるだけ気付かれないようにして階段を上らなければ。
……そう思っていた矢先。
物陰からデスカーンが反対側を向くそのときを待っていたのに、突然一本の手が真上から出てきやがった。寒気に襲われたのはそのあとで、気付けばもう目の前に迫っている。
終わった。ああ、俺はいったい、一日に何度終われば気が済むのか。
そんな俺が腰を抜かす直前、俺と黒い手の間で赤く長い髪がふわりと踊る。直後、鉄壁が黒い手を弾いて消えた。その向こう、イオナがまさに今、黒い手を一本切り落として散り散りに裂く。棺桶から甲高く耳障りな悲鳴があがる。

「ルベライト、そのままアヤトが階段へたどり着くまで護りなさい。その後、引き続き援護を頼みます」
「了解」
「トルマリン、アヤトと共に上の階へ。"マスター"の身を護ることを最優先にしなさい」
「了解」

俺の前に腰を低めにして立っていた女の子が振り返り、目で一礼をしてから階段に視線を向けて、自身を盾に俺の進む道を作り示す。急がないと。慌てて立ち上がって駆け出しながら、ふっと女の子越しにイオナの方を見ると目が合った。イオナは別段低く構えることもなく、いつも通り背筋を伸ばしたまま二本目の腕を切り落とし。俺にむかって、目を少しだけ細めてみせた。


階段の一段目を踏む。女の子に礼を言う間もなく、トルマリンと入れ替わるように音もなくまたバトルに戻っていた。
階段を駆けあがる。やたら急な角度だが、トルマリンが先にいるから怖くはない。そこでまた、イオナの顔を思い出す。もしかして、さっきのは俺に笑ってみせていたのか。だとしたら、ぎこちなさすぎて笑えるレベルだ。
そうして上り終えた先に分厚い扉が見えた。その手前に立ちはだかるのは、オーロット。……おいおい、お化け屋敷かよ。思わず顔が引き攣ったことなんて言うまでもない。

「マスター、ご命令を」
「なるべく早く片付けてくれ!お前ならできるだろ、頼んだぜトルマリン!」
「!、はい、了解っス!」

なぜか面白そうに歯を見せて笑ってから、正面を見据える。──……瞬間、目の前にいたはずのトルマリンの姿はなくすでにオーロットと接触していた。赤く巨大なムカデが老木を圧し折る勢いで巨体をぶつけている。もしやトルマリンは単独だと脳筋な戦い方をするのか。いやそれよりも初めてペンドラーの姿を見た。たしか、ヒト型よりも元の姿の時の方が当たり前のことだが本領発揮できるんだったか。

「すげえー……」

壁に張り付くように立っている俺の目の前、狭い廊下をペンドラーなトルマリンが横ぎった。同時に鈍い音がいくつも連なり、木屑がぱらぱらと落ちる音まで聞こえてしまった。階段から落とされたオーロットの姿は見えず。
ヒト型に戻りながら余裕綽々に俺のところに戻ってくるトルマリンに拍手を送ると、照れ笑いを浮かべる。なんとトルマリン、俺の言葉とおりオーロットをカップラーメンができる直前ぐらいの素晴らしい時間で倒したのだ。

一体なんレベぐらいなんだろう。
そんなことを考えながら、トルマリンが蹴り倒した扉の風圧を顔面いっぱいに受けていた。





「……なんですって?なぜ、どうしてそんなことになっているのよ!?」
「おや、マダム。そんなに慌ててどうかしましたか」

もはや苛立ちを隠すことはできなかった。
それもこれも突然連鎖するように起こっている予想外の出来事全てが彼女にとって悪い話だということ、そして先ほどからずっとこの部屋にいる男のせいである。いかにも大げさに心配しているような素振りを見せている男が、内心ではほくそ笑んでいることなど彼女にはすでに分かっていることなのだから。

「店にいたポケモンたちが全ていなくなったことも従業員の一人が国際警察だったことも。……すべて、あなたが仕組んだことなのかしら」
「そうみたいですねえ」
「……あなたの目的はなんなのよ。わたくしの店を潰す気!?」

ガン!、女が勢いよく立ち上がるのと同時にテーブルが倒れた。正確に言えば、倒された。平然としていた女だったが、彼女もまた内心すでに穏やかではないことなど彼には全てお見通しなのだ。ここでやっと、闇に溶けていた彼が少しずつ光の元に出てきた。黒いブーツで床を軽やかに歩き、目元にあった手を降ろしながら歩み出る。
紫色の髪に、黄色の瞳と青い瞳。──……見覚えのあるその姿に、彼女は目を見開いて固まった。そして、思い出す。

「……な、なぜ。どうして、今、ここにっ!?」
「あは、覚えていてくれて嬉しいなあ。でもまあ、あんなに"貴方のために"身体に鞭打って頑張ったんだもの、覚えていてもらわないと俺が困る」
「え、ええ、そうよね。もちろん、忘れるわけがないわ。だってそう、ずぶ濡れで途方に暮れていた貴方を拾ってあげたのはわたくしだもの。そうでしょう?」
「うんそうだね。そして、金のために俺を使い捨てたのも貴方だ」

女の顔色がコロコロと変わる。上唇を軽く噛みながら言い返す言葉を探している女の手前、彼が手を差し伸べた。ゆっくり視線をあげる女に、彼は穏やかに微笑む。

「しかしマダム、貴方にはまだ貴方を支えてくれる人がいるでしょう?」
「……もういいわ。貴方の目的は分かったもの、今回は大人しくしておいてあげましょう」
「その彼が、今下の階にいるのはご存じでしょうか」

一瞬の余裕が、すぐにまた焦りに変わる瞬間を見た。苛立ちからキュッと下がっていた口角が緩み、ぽかんと口が開く。眉間に寄っていた眉がハの字に変わり。意味もなく両手を少しだけ動かした彼女が、忙しく辺りを見回してから彼の横を走り通り過ぎる。扉が鳴いたと思えば、すぐさまバン!と閉められた。

階段を駆け下りる音を聞き、やっと彼は手を太ももの横に戻す。コツ、コツ。靴を鳴らして、香水の匂いが充満している明るければ煌びやかであろう、今は薄暗い部屋を一人歩き出した。部屋の中心で一度止まり、見回して。細かい装飾が施された白いキャビネットの前にやってきた。何個もある引き出しを手早く開けていき、何個めかの引き出しの中からケースをゆっくり取り出す。アーチ状の蓋に小さな脚が4つ付いている、まるで宝箱のような入れ物にはきつく少しばかり錆ついた鎖が巻かれていた。南京錠までついているそれに、彼は鼻で笑いながらニヤリと口角を持ち上げる。

「さて、俺もそろそろ行くとしよう」

無理やり変形して開けられた鍵と一緒に、重たい鎖も床に落とされた。次いで箱も落とされて脚が折れる。そうして最後に彼の手に残ったものは。

随分と前から始まっていた些細な復讐劇は、もうすぐ終演を迎える。




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