16

デスカーンを目の前に考える。唯一対抗できるあくタイプの技「かみつく」も、口を包帯できつく覆われてしまっている今、出すことができないとみていいだろう。物理技が効くと思うか?あれに?

「どうする、詩」

唇をきつく噛み締めて、相変わらず実体のない二つの黒い手に捕まれている祈を見る詩。祈も必死に身をよじってなんとか逃げ出そうとしているようだがびくともしない。デスカーンは一言も発しないが、男の手持ちポケモンと見ていいだろう。

「祈ちゃん、……どうして……、」

詩の後ろに座り込んでいたエネが呟く。顔は青白く、目を大きく見開いたまま一点を見つめている。様子から見るに、エネもデスカーンの存在は知らなかったようだ。
対峙する俺たちの間、男がエネの言葉にくすりと笑った。デスカーンの動きを警戒しながら少しだけ男に視線を向ける。

「どうしてだって?そんなのこと決まってる。全てエネ、お前のせいだ」
「──……ぼく、の、?」
「っ違、「ッアヤト!」

詩の声に視線を戻すと、黒い手がギュンッ!と俺に向かって伸びて来ていた。慌てて顔の前で両腕をクロスさせて受け身を取った瞬間、強い衝撃がぶち当たる。身体が斜めに浮いた。次。すぐ、背中に激痛が走る。激しく咳き込みながら目を開けると、詩が随分と前にいた。……いいや、俺が黒い手に弾き飛ばされたんだ。すぐ後ろは薄汚れた壁があって、まだ止まらない咳に涙目になりながらようやく今起こったことを理解した。
……人間にも容赦無しかよ。マジでヤバいやつだ。腹部を片手で押さえながらゆっくり立ち上がり、らしくない表情で俺を見ている詩の横まで歩いていく。

「エネ、お前がもう少し早く私の元に戻ってきていれば、そこの女は死ななかった。私の愛に耐えられなかったから死んだんだ」
『……ホンジツ、三ニン、ケイ32タイ』

デスカーンの無機質な声にエネだけじゃなく俺も顔を上げた。聞き間違いか。この際聞き間違いであれと願ってしまう。楽し気に目を三日月にしてゆらり揺れるデスカーンを見ると、目が合った。射貫くように見られ、思わず足が止まる。

直後、男が手に持っていた縄を離した。同時にぶら下がっていた人らしきものが真っ逆さまにベッドに落ちて、スプリングを軋ませる。デスカーンの黒い手の一部がすぐさま人を回収し、金色の棺桶に近づけたと思えば蓋が外れて中に乱暴に入れられた。宙には踊るように包帯が浮かんでいる。

「エネ、やはり私の愛を受け止めてくれるのはお前しかいない。けれどそう、さっき私に言ったね。もう抱かれたくないと。ならばまたエネが私を受け入れてくれるまで代わりを探さなくてはと思っていたが……わざわざ連れてきてくれるとは、流石だよ」

もがいていた祈が動きを止めた。祈だけじゃない。エネも詩も、そして俺すらも凍り付く。
……デスカーンの中から、音が聞こえてきていたのだ。何かをかき混ぜるぐちゃぐちゃとした音。つんと鼻を突く匂いと、棺桶の下から流れ出る深紅色の液体にまたもや吐き気に襲われる。
楽し気に揺れている包帯の横、祈の顔が蒼白になっているのを見た。横にいる詩を見る。同じく顔色が悪いうえに、足元が震えている。情けないことに俺も完全にビビってしまい鳥肌が止まらないし身体が思うように動かない。

『ナカミ、空ッポ、ホウタイ巻イテ、完成ダ』
「さて、もうそろそろで処理が終わるかな。デスカーン、終わったら今手に持っている子をいつも通り縛ってベッドに降ろすんだよ。わかったね」
『デキタ、デキタ、作品、マタフエタ』

デスカーンは宙に躍らせていた包帯を棺桶の中に入れていくのと一緒にまた別の縄を浮かばせている。会話は成立していないが、どうやら男の言う通りにはするらしい。……となれば、本格的に祈が危ない。奥歯を噛む。詩を見れば、いつの間にか俺の服の裾をまた思いっきり握りしめている。そんな俺の腕は見て分かるぐらいに震えていた。
どうにかしなければ。どうにか、しなくちゃいけない、のに!祈を助けなければいけないという気持ちと、どうにかして逃げ出せと命令を送っている脳みそのせいで身体の中で矛盾がおきていて今もなお動けずにいる。

「──……ごめんなさい。……ぼくが、間違っていたよ」

エネの声にハッとして後ろを見ると、さっきまで座り込んでいたエネが俯いたまま立ち上がっていた。両腕は身体の横で力なくぶら下がっているだけ。
……ダメだ、エネ!、乾いた唇を割って開いてみたものの、声が出て来ない。重たい腕を動かして首元に当てる。俺は"まだ"この空気に支配されているんだ!

「お父さん、ぼくが間違っていたんだよね、やっとわかったよ。……ぼくが、いけなかったんだ」

一歩、一歩。暗闇に近づいていくエネを、浅い息を繰り返しながら見る。後方にいたエネが小声で俺に向けて言葉を言って横を通り過ぎ。……拳を握って力を入れようとするが、指がうまく曲がらない。力が、入らない。

「ごめんなさい、もうあんなことは言わない。ぼくはお父さんの子だから、お父さんの望む子になるよ」
「ああ、エネ。やっと分かってくれたのかい」

男の目の前まで歩いていったエネが顔を上げる。それを見下ろしながら、男がエネの頬に手を添えて撫でた。直後、その手を後ろに引いて振りかざす。バチン!という音に思わず肩を飛びあげて、目を見開く。頬を思い切り叩かれたエネは床に倒れてからゆっくり腕で身体を起こしていた。

「そうだよエネ。お前は私の可愛い人形だから、私の言う通りにしていればいいんだ」
「お父さんの言う通りにする。痛いことも苦しいことも、全部"愛"だって受け入れるよ」

男がしゃがみ、エネの頭を優しく撫でてからそのまま髪を思い切り掴んで無理やり立たせる。そうしてまた、頬を撫でてから思い切り叩く。その繰り返しで、軽々と床に叩きつけられているエネは本当に人形のように見えてしまう。……歪んでる。歪みすぎている。

冷え切っていた身体が沸々と熱くなる。拳を握ってみると、ぎゅっと力が入った。デスカーンを見る。怖い。けれど、そのあとにじっと何かに耐えるように眉間に皺を寄せながら目を閉じて静かに泣いている祈が見えた。横を見れば、詩がエネから顔を背けて俯いている。耳を塞ぐ両手は未だ震えていて。

「詩」

片腕を掴むと詩がびくりと飛び上がって顔をあげた。ひどく驚いた顔をしていたが、いや俺も驚いた。泣いてる、と思ったら詩が俺の胸元に縋りついてきたのだ。思わず両手を横にあげてみたが、精神的に追い詰められているのか顔を埋めたまま離れる気配がない。……どうしようか。悩みに悩んで、後々こっぴどく怒られることも覚悟した上で両腕を詩の背中に添える。

「詩、」
「アヤト、どうしよう、どうしよう……っ!?エネが、っ、祈も、助けないといけないのに、っ」
「詩、落ち着け。落ち着いてくれ。俺もめちゃくちゃ怖い。けど、今動かないと。……頼む、今は詩しかいないんだ」
「わ、私、……怖くて、なにも、できない、」

詩の肩に両手を置いて引きはがすと、涙を縁に溜めたまま驚きに目を見開いて俺を見る。目の前にいるのは、か弱く泣いている美少女か?……いいや、まさか。俺の前にいるのは、クソ生意気な猪突猛進の馬鹿女に決まってる。

「お前にできないことなんてないだろう」
「っでも、私……っ、」
「お前は誰の子どもなんだっけ?」
「……世界一、かっこよくて強いお父様と、世界一美人で強いお母様……」
「ならお前は、世界一可愛くて強い娘じゃないのかよ」
「……」

あとひと押し。エネが逃げるための時間を稼いでくれているうちに戦うための準備をする。祈と、そしてエネをおいて逃げたら一生後悔する。そうだろう。何度も言い聞かせて、俺の脳みそもやっと納得したらしい。今は"助ける"、その一心だ。

しばらく俯き加減だった詩が、腕で目元を力強く拭うと顔をあげて俺をみる。両手に拳を携えて、きつく俺を睨みながらも口元にうっすら笑みを見せている表情に口角を上げる。

「──……言ってくれるじゃないの。アヤトのくせに」
「怖くて何もできないだなんて、女の子ぶってんじゃねーよ」
「……本当に怖いんだから、仕方ないじゃない」

こちらに向けていた身体を正面に向け、仁王立ちする詩を笑ってみる。ひこうタイプも持ち合わせているうえにバトルセンスがいい詩ならあのデスカーン相手でもそこそこやれるだろう。倒すまでしなくていい。祈を助けられさえすれば。それは詩も分かっているようで、俺の言葉も一言で遮る。

こちらの準備は万端だ。
詩と目配せをしてから。……思い切り床を蹴って走り出す。まずはエネを目指して駆け抜ける。手前、俺が走り始めたと同時に黒い手が襲いかかってきた。もしやエネと男の邪魔をしようとすると黒い手が来るのか。そう思うのが早いか、目の前に迫りくる黒い手にまた吹っ飛ばされるかと思って腕を盾にした瞬間、俺の耳元を冷気が走る。目前でピキピキと音が聞こえて止めていた息を吐きだしながら顔を上げると、黒い腕が凍っていた。咄嗟に後ろを振り返ると、金色のチルットが叫ぶ。

『早くエネのところへ!』

慌てて態勢を戻して走った。何度目か、太い腕が振り下ろされる瞬間、男とエネの間にスライディングで入って左腕で弾いて右腕を捻って拳を入れる。手の表面から生ぬるい暖かさを感じて気持ち悪さに鳥肌がたってしまった。よろける男には目もくれず、すぐさまエネを見ると、頬は真っ赤に膨れ上がっていて口の端から血が出ていた。思わず顔を歪めると、涙目のエネが怒ったような表情をみせる。

「アヤトくん、……っアヤトくん、後ろっ!!」

怒ったような顔が驚きから恐怖に変わり。エネの言葉に反応する前に、俺の身体の周りに黒い手が伸びていてあっという間に絡みつき身体が宙に浮く。すぐそばにいたエネがまた離れていき、急激に上に持ち上がる速さが速くなったと思ったら天井に背中から叩きつけられた。パラパラと落ちてくる埃と衝撃と痛みに再び思い切り咳き込む。

「っやめて!!お願い、っぼくになら何をしてもいいから!……お父さん、お願いだよお……っ!アヤトくんたちには何もしないで……っ!」

ぶら下がっている自分の腕越しに、立っている男を目の前にエネがぼろぼろと泣きながら叫んでいるのが見えた。その横、黒い手二本を相手に詩が一人で戦っている。まもる、れいとうビーム、りゅうのはどう……あっちはしばらく大丈夫だろうがこちらを助ける余裕はないことは見て分かる。自分でなんとか抜け出さなくては。苦し紛れに肩で息をしながらグッと力を入れるが、びくともしない。

「エネがこんなに泣いているところを見るのは初めてだ。……しかし、ああ、やはり泣き顔が一番可愛いね」
「お父さんがぼくにしたいこと、なんでもしていいからっ、お願いします、アヤトくんたちは見逃してください、お願いします……っ!」
「そうかい、じゃあエネ、上に行こうか。ここでは騒がしすぎてお前の愛らしい声が聞こえないからね」
「お、お父さん、っアヤトくんたちは、っ!?」

座ったままのエネの腕を強く掴んで引っ張り、無理やり立たせるとそのまま最奥にある階段へ歩いていく男。エネの言葉には何も答えず、一段目を登り始める。―……つまり、そういうことだ。力なく引っ張られるがままのエネが泣きながら宙に囚われている俺を見上げる。

「アヤトくん……っ、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……っ!ぼく、こんなことになるなんて、っ!」
「──……エネ!絶対、ぜったい助けに行くから……っ!!それまで待っててくれっ!!」
「―っ!」

思い切り頷いて見せたのが最後、エネは男とともに暗闇に消えた。
……エネは何も悪くない。エネに関わった俺が、エネに踏み込んだ俺がいけないんだ。ならばこの場をどうにかしなければいけないのも、俺だ。
だがしかし。黒い手に捕まってしまってどうすることもできない。いくらもがいてもびくともせず、殴っても通り抜けてしまう始末。祈も再びもがいているが、やはり先ほどと何も変わっていない。どうしよう、どうするべきか。考えて、焦って、力を入れる。……が、。

「っぐあっ、!」
『……アヤト!?』

急に。黒い手の力が強くなった。身体全体が押しつぶされ、息をするのさえ苦しい。祈に対しても同じようで、甲高い声が聞こえる。きつく締め付けられて、脂汗が出てきた。内臓さえも飛び出してしまうんじゃないかと思うぐらいキツイ。目の前もチカチカしてきて、本格的に危機を感じる。
……このまま俺は握りつぶされて死んでしまうのか。祈を助けることもできず、詩一人に任せて。エネを迎えにも行けず。ロロには馬鹿にされたままでイオナにはいつまでも見下されたままで、お姉さんとえっちなこともできず!美玖さんの美味しい料理を食べることもなく!!……リヒトと一緒に旅をすることもできないまま、死んでしまうのか!!

「っっいやだあああっ!!誰が死んでやるもんかバカ野郎おおおっ!!」

全身に力を入れて、俺を締め付けている黒い手を両手で思いっきり握りしめた瞬間。
バリバリィッ!、すごい音と一緒に電気が走った。目も開けていられないぐらい光ったと思えば、ふっと身体が楽になって落下していく。床に落ちる直前、白い綿毛が落下地点にスライドしてきたおかげで骨を折ることもなかった。

しかし、一体なにが起きたのか。さっきの電気は、なんなのか。こちらを見ているデスカーンの様子を伺うと、多分俺がやったんだろう。……電気。そういえば祈を助けたときも俺から電気が、──……

『アヤト!今がチャンスよ!デスカーンの片側が麻痺している間にあんたが祈を助けなさい!道は私が作ってあげる!』
「っ!」

黒い手からギリギリで避けながら、詩が真っ直ぐデスカーンに向けてれいとうビームを放つ。相手に当てるためではない。言葉通り、俺が"滑る"道を作るためである。思いっきり助走を付けて走り出す。
「アヤくんが体当たりすればいいじゃん。体当たりぐらいできるでしょ?」、いつだったかロロに言われた言葉を思い出す。ああそうだ、俺だって、体当たりぐらいならできる。やってやろうじゃねーか!クソ猫め!テメエに見せてやれないのが残念だ!

「うおおおらああっっ!!」

ガァンッッ!!、金色の棺桶の部分に思い切りぶつかった。少しだけ跳ね飛ばされた俺は後ろに倒れて、半身にじわじわ広がる熱と痛みを紛らわせるため片手で肩から下に向かって何度も擦りながら祈を見た。……が、なんと、まだ黒い手に捕まったままだった。なんでだ。棺桶の部分も倒したのに。慌てて詩を見れば、まだ黒い手と戦っている。ということは……本体も、まだ。

『オマエ、ナンダ?ニンゲン、ポケモン、チガウ。……マ、ドッチデモ、イイケド』
「っクソッ!」

黒い手がまた絡みつく。しかも今度は最初からきつく締めあげてきた。さっきと同じく身体に力を入れてみるが、一向に電気が走る気配がない。なんでだ、さっきと同じことをしているはずなのに。どうして、っ!!?
祈はすでに気を失っているようだ。そして俺も、今度こそまずい。意識だけは飛ばすまいと歯を食いしばってはみるものの、頭がガンガンしてつらい。とうとう身体に力が入らなくなって、両手足がぶらりと下がる。詩が何か言っているが、耳が急に遠くなったようで聞こえない。視界が狭まり、ああ、もう閉じる。そう思った直後。

扉が、開いた。

何かが、風を切る音がした。

ふっと身体が落ちて、誰かに抱きとめられる。横を見ると、俺と同じく祈も抱えられていて、その後ろには赤い色の誰かが二人いる。

「トルマリン、ルベライト。二人は背後へ回りなさい。私は正面から斬ります」
「「了解」」
『ワタシノ手ヲ切レル、悪タイプ……ッ!!』

床に静かに降ろされると、すぐさま詩がやってきて祈をぎゅうと抱きしめる。俺は息を整えながら、前に立ってこちらに背を向けているやつを見た。その向こう、トルマリンと……赤毛のツインテールのような髪型の女の子がスカートをひらひらさせながらデスカーンと戦っている。

「──……イオナ、どうしてここに……?」
「"ヒーローは遅れてやってくるものだ"と、アヤトに教えて頂いたので」

背を向けたままそういうと、手を鉤爪のような形に構えると紫色のオーラを纏った黒い手が生まれる。シャドークロー……だろうか。
直後、音も無くデスカーンに向かっていったイオナを見て、壁に背を預けて脱力する。
イオナがヒーローってか。聞いて呆れる。ヒーローよりも悪役タイプだろうって言い返してやりたかったが、……仕方ない。今回だけは、認めてやろう。




- ナノ -