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だんだんと近づいてくる彼に、思わず一歩後ろに下がる。そうしてまた一歩、ひっそり後ずさりをすると、とうとう背中が壁にぶつかってしまった。
ニヤリと笑みを浮かべながら、私の顔のすぐ真横に勢いよく手を押しあてられる。それから脚の間に私より遥かに長い片足が割り込まれては、身動きすらとれない。……これが、壁ドンとやらか。正直、ドキドキはしているけれどその意味合いは恐怖の方が近いだろう。
「え、えっと……具体的には、どう、するの……?」
ゆっくり顔をあげると、やはりキューたんは楽しそうに笑みを浮かべている。……恐ろしい。何を考えているのだろう。
「なに、簡単なことだぜ。俺様がテメエにキスするだけで、」
「はい?……今、なんて言った?」
「だから、俺様が、ひよりにキ、」
「ちょ、ちょっと待ってッ!?」
こんなの、動揺するに決まってる。しかも私が「待て」と言っているのにさらに近づいてくるし、もう一体何なんだ!?慌てて腕を伸ばしてキューたんの口を両手で覆い、押し返しても距離はそのまま。
「ちょっと!?もう一人のキューたんはどこ!?お人形はどこ!?」
『はい、ここですよ』
キューたんのポケットからのそのそと人形が一体出てきた。そうして暢気に私の横を飛ぶ人形をキッ!と睨むと、即座に私から逃げるように彼の後ろへ隠れる。
『なな、な、何か僕に用ですか……?』
「ねえ!?キューたんが私に、キ、……キスするって、本当に正しい方法!?他に何か無いの!?」
『そ、そうですね……他、にもあることにはありますが、……ええと、』
「何!?そっちがいい!」
人形に向かって噛みつくように答えると、ふと、キューたんの人差し指が私の胸元の中心を指すように触れる。それに一度びくりと肩を飛び上がらせ、両手でその口元を押さえたまま恐る恐る視線をあげると。その目が、悪戯に細くなっていた。
「なんだ、そんなに俺様に抱かれたかったのか?」
「は、…………、?」
「なんならゆっくり服を脱がすとこから始めてやってもい、」
「却下ーッ!!却下、却下ッ!!」
顔が熱い。今度は自分の顔を両手で隠すように覆っていると、ケラケラと心底楽しそうな笑い声が聞こえてた。ああ……これからジョウトへ行くというのに、なんだって朝からこんなに疲れなくちゃいけないんだ。
「…………はあ」
つまり、……キス以外だとそういう方法しかないのね。うん、ならば……潔く諦めよう。
両手を力なく落とし、半目で目の前の彼を見る。……彼無しでは実行できないことだ。諦める他ない。
「なんだよ、もう抵抗はお終いか?」
「ええそうですよ、だから早くして」
半ギレで答えると、また楽し気に笑みを浮かべながら私の顎に手を添える。クイ、と持ち上げ、視線が絡まる。
「お前……よく見ると、案外可愛いな」
「…………」
「ああ、やっぱりブスはブスだった」
「……早くしてよ」
殴りたいところを我慢して、太腿の横で拳を握る。……いいさ、キューたんの力さえ貰えればこっちのもんだ。終わったら思い切りその唇に噛みついてやるんだから。
「大人しくしてろよ」
「わ、……分かってるよ」
目を瞑り、その時を待つ。さっさとすればいいものを、焦らすようにゆっくり近づいているのか、服が擦れる音がした。次いで聞こえる呼吸に思わず緊張してしまう。
顎に添えられていた手が、一度するりと頬を撫でる。それにびくりと肩を震わせると、……額に、熱を感じた。
それからケタケタと笑うキューたんの声で思い切り目を見開き、片手を額に当てつつ唇を噛みしめる。
「口にされると思って目まで閉じたんだろう?なあ、ひより?」
「だっ、だってキスっていうから……っ!」
「モヤシ野郎だってテメエに力やるときは額だったろうが。それと同じだ。まあ、俺様は口でも良いけどな?もう一回やっとくか?」
「断固拒否します」
やっとキューたんが動いて身動きが取れるようになる。それから無意識に溜めていた息をゆっくりと吐きだした。
……とにかく、これで準備はできた。
一度、両方の手のひらを広げて見る。力を、感じる。目には何も見えないけれど、どうやらちゃんと機能はしているようだ。
「あとはテメエ次第だぜ。……うまくやれよ」
それだけ言うと、キューたんはソファに倒れ込むように座ってから横になっていた。……まあ、これだけ私に力を移せば疲れるのは当たり前か。
鞄を肩にかけてから、通りすがりに気だるそうに腕を目の上に乗せたままのキューたんの頭を撫でる。それに少しだけ腕がずれると、私を無言で見つめていた。
「ありがとう、キューたん。……行ってきます」
離れ、ドアノブを握りながら今一度振り返ると。ソファの背もたれからゆらりと上に伸ばされた腕が左右に一度揺れてからすぐに落ちるのが見えた。
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「俺は旅を続けるよ。それでもっともっと、強くなるんだ」
「僕はヒオウギに戻るよ。ソウリュウシティ復興の手伝いもしないと」
「あたし、アララギ博士に呼ばれているの!研究のお手伝いの続きがあるからねっ!」
お見舞いに来てくれたトウヤくんたちに、これからのことを聞くとそれぞれすぐに答えが返ってきた。彼らの未来は、どれも輝かしく思う。
……振り返ってみれば、彼らともまた長い付き合いだった。
「……よしよし」
「ど、どうしたの、ひより?」
「突然何をするかと思えば…。もう僕らは子どもじゃないんだけどな」
三人が横並びになっている手前、腕を伸ばして順番に頭を撫でるとトウヤくんとチェレンくんがわずかに照れたようにそう言っていた。ベルちゃんはというと、満面の笑みを浮かべながら、お返しだと言って私のことも優しく撫でてくれる。どこまでも可愛い。
「ほらベル、そろそろ行くよ。アララギ博士から着信が入ってる」
「ほ、ほええ!?ほんとお!?ま、またね、ひよりー!」
「それじゃあひより、また」
「うん。……またね、ベルちゃん、チェレンくん」
チェレンくんとベルちゃんに手を振り、その姿が見えなくなってやっと手を降ろした。それから最後、トウヤくんがボールからコバルオンを出すと軽々飛び乗り、私を見る。
「僕もそろそろ行くよ。またね、ひより」
「うん。──……またね、トウヤくん。ありがとう」
また今度、なんて。苦笑しながら、姿が見えなくなるまで手を振っていた。
ごめんなさい、ありがとう。
「…………よし」
ベルトからボールを手に取り、ボタンを押す。光が弾け、白い羽が大きく広げられた。
……さあ行こう、ジョウト地方へ。