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山盛りだった夕食が、今では綺麗に無くなっていた。そうして広いテーブルの上も大方片付いたところで、ゆるやかな時間が流れ出す。
ある者は酔い潰れる寸前で、ある者は未だデザートを噛みしめるように味わっている。またある者は愚痴を零し、ある者はそれを笑い話に変えてしまう。各々が色んな方向へ向いているのに今同じ空間にいるというのは……なんだか不思議に思うし、嬉しくも思う。
『ひよりちゃん、ワタクシ、今が絶好のチャンスだと思うんだけどなあ』
「…………」
『ま、ワタクシには関係ありませんがねえ』
居心地がいいはずのこの空間で、私はひとり、眩暈がしそうなほど緊張していた。
すぐ近くの笑い声が小さく聞こえ、目の前の空っぽになっているお皿やジュースを右から左へ手渡しする景色が遠退いてゆくような。……悟られないよう、平然を装いつつ時折話にも混じる。一緒に笑い、ジュースを飲む。
──…………駄目だ。話を切りだすタイミングが分からない。
今、この幸せな空間を壊したくは無い。けれども遅かれ早かれ、絶対に言わなければいけないことだ。けれど、でも、。
すぐに乾いてしまう口の中に何度も何度もジュースを入れる。あまりの甘ったるさに舌が馬鹿になりそうな気さえしていた。
「……なんだよねー」
話が、途切れる。数秒の沈黙が流れ、グラスの音やフォークがお皿に添えられる音だけになった。
……急に心臓が大きな音を鳴らし始めた。どくん、どくんと全身に鳴り響く。手にかく汗を誤魔化すようにテーブルの下でスカートを思い切り握りしめた。目線をあげ、ようやく、やっと、口を開く。
「──……あのっ、!」
勢いで椅子を引いてその場で立ち上がると、一気に視線が私へ集まった。緊張でふらつく身体をしっかり二本の足で支えて、両手もテーブルに添える。張り裂けそうな心臓を落ち着かせようと間を開けると、「なになに?」とか興味深々な相槌や目線が飛び交う。……今はそれが余計に緊張へと繋がるし、正直、……とても、辛い。
「実は……私から、……みんなに、話があって、……」
言葉を区切り、声の震えを最大限に誤魔化した。誤魔化しきれて、いるんだろうか。不安しか残らない。どくん、どくん。心臓の音に合わせて俯いている顔の横で自身の横髪が小さく揺れていた。
「実は、俺たちからも話があるんだ」
「──……、え、?」
どくん。
──ふと、向けられた言葉に、一瞬心臓が止まった気がした。一度大きく音を鳴らした心臓は、次の瞬間から緊張と畏怖で小刻みのリズムに変わる。
……バッグから取り出される、何かの音。柔らかに微笑む表情と、期待の込められた複数の視線。そうして。
テーブルいっぱいに広げられた地図に、力を無くした膝がそのまま下へ落ちてしまいそうになった。
「ひより。……もう一度、旅をしよう」
喜びが、絶望へと変わる瞬間。
使い古したイッシュ地方の地図の隣には、真新しい地図が数枚。カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ、カロス……。沢山の地図が、ここにある。丸まっている地図を広げる手たちはみんな楽しげに広げては、私に視線を戻すのだ。
「あのね、わたしたちで話したの。今度はわたしたち"みんなの"旅にしようって」
水色の瞳が照れくさそうに細くなる。それを見ては、込み上げる感情を抑えるためにひっそりと舌を噛んでいた。
「ひよりちゃん、こっちに来てからこの世界のためだけに俺たちと旅をしてたわけでしょう?」
「どんな理由であれ、旅をしていたことに変わりはないが……やはりみんな、どこか心に余裕が無かったなと思ってな」
「オレもねー、まだみんなと一緒に見てみたいところとかー行きたいところ、たっくさんあるんだよー!」
「……だから、今度の旅はゆっくりにするんだよ。ひよりが行きたいところに行くの」
震えていた手をゆっくりと持ち上げ、胸元に当てる。それから唇を思いっきり噛んで、淵に溜まる涙を零さないよう目元に力をぐっと込めた。
……お願いだよ、もう、これ以上は言わないで。
「今まで会ってきた人たちによぉ、もう一度会いに行ったりな。……おう、そうだ!何ならまたアオたちのとこまで案内してやるぜぇ!」
「ウツギ博士に、ニコとちーも、ひよりに会いたいって言っていたよ。殿も寂しがっているだろうしね」
今まで出会ってきた人たちの顔が浮かぶ。浮かんでは消えて、頭の中で無理やり真っ黒いぐしゃぐしゃの線で上塗りしてゆく。
……駄目だ、考えるな。考えては、いけない。そう思う度、胸を締め付けるような感情が込み上げた。
それにとうとう抑えきれず、テーブルに涙を落としてしまう。
「……ひより……、?」
突然泣き出す私にグレちゃんが呼びかける。
両手で顔を全て隠しながらも、みんなの戸惑う様子が伝わってきている。当たり前のことだ。楽しい話をしているのにどうして泣いているのかなんて、──……誰にも、分かるはずがない。
それでももう、やっぱり、私にはこの場を壊すことなんてできる勇気はどこにもなくて。必死に涙を拭っては、何とか取り繕うように笑顔を作ってからゆっくりと顔を上げる。
「ごめ、……あのね。また、みんなで旅ができるって、……すごく、しあわせだなあって……っ、思ったら、……思わず、泣けてきちゃって、……」
……安堵の息が零れるのを聞いた。その中、泣いている私を無言で見ている三人と人形二体。
そう。彼らを除いて、誰も私の"本当の"涙の意味は分からない。
「ってことは、これからまた旅をするということで、決定ー!?」
「「決定ーっ!」」
わーっ!と盛り上がる中心で、顔を覆ったまま椅子に座りこむ。
この地方のここが綺麗だとか、あそこのお店がどうだとか、強いジムリーダーは誰だとか。手を伸ばせばすぐにでも届きそうな夢が大きく膨らみ、話が進む。
そんな声を聞きながら、私はまた顔を上げられずにいた。
──……もう、後戻りはできない。