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急にロロが窓際から見えなくなった。かと思うと、ガシャン!とわずかに何かが倒れる音が聞こえたのだ。意識していなければ聞きとれないほどの音だった。それでも何だか気になって、私はひとり、病室に向かって走り出す。
「ひより姉さん、どうしたの?」
「ごめん、ちょっと病室に行ってくる!すぐ戻るからー!」
「──……」
走りながら陽乃乃くんに手を振ると、困ったように笑っては手を振ってくれた。あの表情には、どんな意味があったのだろう。
走りながら色んなことが頭を駆け巡っては、あらゆる行動を慌ただしくさせていた。息を切らしてポケモンセンターの中に入り、そのまま階段を駆け上って行く。廊下は速足で歩いて、……やっと、病室の前にたどり着く。
「ロロ、さっきの音、……」
扉を開いて、まず、目に入ってきたのは足を組みながら椅子に座っているロロだった。
白いカーテンが揺れる。それに合わせて私の髪もふわりと後ろに流れては揺れていた。
……ベッドの上。
上半身だけ起こしたまま、私を見つめる青い瞳。黒髪が、揺られている。それから一度、小さく口を開いてから閉じ、もう一度開いてはぎこちなく笑う。
「……おはよう、ひより」
「……、……っ、!」
おぼつかない足取りでベッドの横まで歩いてゆき、すぐ横で立ち止まる。
……つい、さっきまでは全然動かなかったのに。
未だに実感が湧かず、恐る恐る手を伸ばす。……頬に触れ、そっと撫でると、くすぐったそうに目を細めるその姿に。説明できない気持ちがぶわっと湧き溢れては、視界を濡らしてゆく。
「っグレちゃん、……もう、おきて、……大丈夫、なの……っ?」
「ああ。この通りだ」
「……グレちゃん、…ぎゅーって、しても、いい……っ?」
「……お好きにどうぞ、ご主人様」
伸ばされた腕の中に思い切り飛び込むと、ウッと低い声が漏れた。
それに一度素早く顔を上げると、「なんでもない」みたいな顔で片手を私の頭に添えて胸板に押しあてる。息をたっぷり時間をかけて吸い込みながら、私はそっとその背中に手を回す。薬品の匂いで、ますます泣きたくなってしまう。
「グレちゃん、グレちゃん、」
言葉が、何も思い浮かばなかった。
ただ何度も確認するように、抱きしめながら名前を呼ぶ。その度に小さく答えてくれる声に安堵しては涙を零す。張りつめていた糸がぷつりと切れてしまったように、全く涙が止まらない。
「……またお前に辛い思いをさせてしまった。……ごめんな、ひより」
小さく聞こえた震える声に、顔は上げずに埋めたまま、必死で首を左右に振った。
そんなことないよ。そう言う前に嗚咽が漏れてしまう。だめだ、今は何も言葉にできない。
……ふと、私とグレちゃんへ覆いかぶさるように何かが動いた。
少しだけ顔を上げてみると紫色がちらりと見える。片腕は私に、もう片方はグレちゃんの首に回っている。
「……なんだよ、ロロ」
「俺が慰めてあげようと思ってさ。グレちゃんはついでだよ」
「いい迷惑だな」
「意地張っちゃって。……君だって、辛かったのは同じでしょう」
「──……は、?」
「例えひよりちゃんを守るためだったとしても、覚悟ぐらいはしていたはずだ。そうだろう?」
ロロの言葉にグレちゃんは何も答えない。ただ、その鼓動は早く聞こえていた。
「死ぬのは誰だって怖いよ。そういうものでしょう、ねえグレちゃん。……なのに君は、それを抑え込んでまでひよりちゃんのことばかり心配する」
「…………」
「そりゃあもちろん、ひよりちゃんが一番大切だよ。でもさ、同じくらいにグレちゃんのことも大切だって思ってること、……分からない?」
静かに、けれどしっかり呟くロロの声が心地いい。
潤んだ目のまま困ったように微笑むロロを見てから、その肩越しにただ視線を真っすぐ前に向けたままのグレちゃんを見た。茫然としているように見える。ロロがこんなに素直な言葉をグレちゃんに言うのは珍しい、というか初めてのような気もする。そしてそれを受け入れているようなグレちゃんの、あんな表情も初めて見た。
「グレちゃんは頑張った。……頑張りすぎだよ」
「……いや、……俺は、……っ」
抱きしめているから分かる。その肩が、震えている。
──……私の中のグレちゃんは、強くて頼れる存在だ。今もそうだと思っている。けれどそれは、私の理想。グレちゃんにだって感情はある。怖い、痛い、悲しい、辛い。本音を知ろうともせず、私は甘えてばかりだった。
そんなグレちゃんを掬いあげたのはロロだ。感謝と、少しだけ悔しく思う。
「俺はさ。……今が嬉しいよ。すごく、嬉しい。"ありがとう、グレちゃん"」
ロロの言葉にハッとして、そうしてチョンを思い出した。
……ああそうか。素直に"ありがとう"と言えば良かったのか。
私を、みんなを守ってくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。色んな意味を込めて、ただ一言伝えれば。
ぽたり。上から私の頬に落ちてきた雫に目を閉じて、静かに震える身体をずっと抱きしめる。ありがとう、相棒。