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「グレちゃん!グレちゃん……っ!」
震える声で呼びかけてみるが反応は無い。私に寄りかかったまま、ぴくりとも動かない。
抱きかかえながらその背中を支えている自身の手を恐る恐る見れば、指の間から零れた彼の血が手の甲までも濡らしている。きつい鉄の臭いにむせ返りそうになる。どんどん冷えてゆく身体に、いよいよどうしたらいいのか本当に分からなくなってしまった。
「グレちゃ、……っ」
ゆっくりと回転を始める視界がぼやけ、頭を思い切り振る。それから唇を思い切り噛みしめながら乱れる呼吸を整えようとするも、一向に動悸が治まらない。
どうしよう、どうしよう。早く手当てをしないといけないのに、目の前にはまだ"彼"が居て一歩も動くことが出来ない。ましてやこのままグレちゃんを動かしていいのかどうかも分からないし、ボールに戻そうにも未だ凍ったままで開かない。
「ほらほら、お望み通りにしてあげたよ。叶った気分はどうかなあ?」
ぱちん。彼が指打ちをした瞬間、グレちゃんの背に刺さっていた氷のナイフが砕け散った。目の前に振るダイアモンドダストが、今もなお床に広がり続けている生温かい血だまりに輝きながら落ちてゆく。
「あはは、ボールの中の奴らも必死だね。……おっと、危ない。また溶かされるところだった」
揺れているボールのひとつだけ、分厚い氷に覆われていた。湯気があがっているそのボールはマシロさんのものだ。この氷を溶かせるのはマシロさんだけだということを知っているのか。
「……ッ!」
「そんなに睨まないでよ、怖いなあ」
ニッと歯を見せ笑う彼の横、──……ふと、何かが勢いよく通り過ぎた。それと同時に灰色の髪が数本散って宙を舞う。頬を擦ったのか、白い肌に細い線が入り血が浮かぶ。彼は人差し指で払うように頬に触れてから、視線を後ろへと向けた。
私もゆっくり視線を動かすと、……氷の扉に、細長く青白いものが刺さっている。すぐにフッと消えるそれは、見覚えのあるものだ。
「……、」
「──……チョン、」
私の横。ふらりと立ちあがっては、ゆっくり、しかし堂々と彼と対峙する。視線は一瞬向けられただけで、私にはただ背を向けていた。……静かな怒り、とでも言えばいいんだろうか。
「なぜワタクシの氷が解けている……?」
「……さあ、どうしてだろうね」
確かに、チョンの翼は片方だけ凍っていた。しかし今、その腕には氷の欠片すら付いていない。……いつの間に溶けたのか。けれどもう、今はそんなことを考えている場合ではない。一秒でも早くここからグレちゃんを出さなければ……!
──目の前、スッと伸びた片腕の先には細長い針のようなものが握られている。氷の壁に刺さっていたものと一緒だ。……エアスラッシュにこんな使い方があったとは。しかし消えるのも早く、すでに少しずつ薄くなっている。
……そうして、素早く体勢を低く構えたチョンが彼に向かって走り出す。すぐに交わり刃物がぶつかり合い、甲高い音がキイン、キインと鳴り響く。
『……ひよりちゃん、』
「っ!」
思わず、セレビィくんの声ですら驚いて飛び上がってしまった。咄嗟に視線を向けると、未だ床に伸びきった状態ではあるけれど話せるぐらいの元気は戻ってきたらしい。
『ひよりちゃん、マーさんのボールを両手で包むように握っていて』
「え?で、でもボールは、」
私の言葉の途中、セレビィくんが私にマシロさんのボールを押し付けてからそっと視線を合わせては見つめる。
『……いいかい。チョンの氷を溶かしたのはキミだよ、ひよりちゃん』
「私?そんなこと、できないよ……?」
『いいや、ひよりちゃんにはマーさんの力がある。だから溶かすことが出来たんだ。伝説ポケモンの力だからできれば使わないほうがいいけれど、今は使うべき時だ』
「…………どうすればいい?」
『想像するだけでいいよ。氷が溶けて、ボールが開く様を想像するんだ。……大丈夫、ひよりちゃんならきっとできるよ』
それだけ言うと、セレビィくんはまた眠るように目を閉じた。近くに不思議な光が漂っているのを見ると、きっと回復中なんだろう。セレビィくんの時渡りに賭けるためにも、今はそっとしておこう。
そうして私はセレビィくんに言われた通り、グレちゃんを支えながら真っ赤な手のひらでボールをぎゅうと握りしめた。血で濡れているおかげで容赦なく皮膚に張り付いてくる氷もそれほど辛くはない。……こんなことでも守られてしまうなんて、私は、。
「……ああ、そういうことか」
小さく聞こえた言葉に勢いよく顔を上げると、今まさにナイフが投げられようとしているところだった。
私が今できることは凍っているボールを溶かすこと、そしてこれ以上グレちゃんに傷を負わせないことだ。ボールを両手で握ったままグレちゃんに覆いかぶさるようにして身を屈める。彼からは、きっと許しを乞うような姿に見えるだろう。それでもいい。その切っ先が私に向いていたって構わない。グレちゃんにさえ、当たらなければ。
「君の相手はオレだよ」
「……っはは。やるねえ」
キイン。再び音が弾けた。それと同時に少し手前にナイフが落ち、またと細針が消える。
……早く、早く。
チョンが時間稼ぎをしてくれているうちに、ボールに蔓延る氷を溶かさなければ。
早く、早く。
慌ただしい足音と絶え間なく鳴り響く金属音。床に落ちる刃物の音は、もう何度聞いただろうか。
……早く、早く……──!
「──……ねえ、ひよりちゃん」
……その声が、私の心臓を握り潰すように掴む。
身体の奥からやってくる震えに全身を震わせながら、うずくまっていた体勢を元に戻してゆっくりと顔をあげた。食いしばっているはずの歯はガチガチと音を鳴らして、恐怖で顔が引き攣る。
「キミは知っているかな。とある少年の、飛翔と墜落の話。……神に近づきすぎたとある親子が塔に幽閉されてしまうんだけど、彼らは蝋で集めた鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出するんだよ」
「ぐっ、」
チョンから小さく呻き声が漏れる。両腕を後ろ手に掴まれ、身動きが取れないようだった。
……まだ、ボールの氷は溶けない。
「……けれど、イーカロスは父の警告を忘れて高く高く飛んでしまう。……太陽に近づきすぎた彼の羽は、熱で蝋を溶かされ墜落死……──」
「おやおや、知っていたんだね。へえ、少年の名前は"イーカロス"っていうんだ」
たまたま覚えていた私の話を聞いたあと、彼は興味深そうな様子で数回上下に頷きを繰り返す。
……まだ、もう少し、。早く、早く……っ!
「そうさ、彼は警告を忘れるほど飛ぶことに夢中になってしまった。つまり、調子に乗りすぎたんだ。だから翼を失った。……──これってまるで、キミのお話みたいだね?」
「……──ッ、」
"キミ"。……目線は、チョンに向けられている。
そうして殺気が増長し、彼がナイフを高く振りかざす。
「このお話にも、そろそろ終わりが必要だよね。ね?」
「……だめ、……やめて、……っ!」
……違う。どうして、どうして?どうして私に切っ先が向いてくれないの?
もうずっと震えが止まらない。座っているのもやっとだ。グレちゃんが腕の中にいるからまだ私は自分のやるべきことを見失っていないだけで、いなかったら正気を保っていられる自信が無い。
「なら、ひよりちゃんが、代わりになってくれるのかな」
鉄の味がする唇を噛み、必死に頷いてみせる。何度も何度も頷いた。
……それなのに。
それを遮るかのように、声がした。
「……いいよ。翼ぐらい、失ったってどうってことない」
咄嗟に視線を向ける。後ろ手にされたままのチョンは俯いたままそこにいる。……今のは、本当にチョンが言ったのか。信じられず、そのまま見つめていると彼が楽し気に笑みを見せた。
「そう?それじゃあ、キミもお望み通りにしてあげよう」
「だめ!やめて!……ねえ、チョン、もういいよ……っ!もういいから……っ!」
「──ひより」
……そっと顔を上げて私を見るその表情に、目を見開く。
チョンは、微笑んでいた。心配させまいと、強がる笑顔。
……正気?、いや、もうそんなものは、すでに無くなっていたのかもしれない。
血に塗れた服を握りしめてもグレちゃんが起きてくれるはずもなく、手を伸ばしても振りかざされたナイフが消えることは無い。
──私は、また何もできないのか。
「これは罰だ。──翼を切り落とされても、文句は言えないよね」
風を切る、音がした。瞬間、叫び声が爆発する。悲鳴、叫喚。肉の切れる音。粘りを帯びた赤い液体が雨のように床に降っては血だまりを揺らす音。次第に左右で高さが異なってくる肩。
残虐な光景が、今、私の目の前にある。
……もう、いやだ。もういやだ。もういやだ。もういやだ。
こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。……いいや、これはもしや夢なのかもしれない。そうだ、きっとこれは悪夢だ。悪夢なんだ。だってこんなの、おかしいよ。おかしい。絶対に、おかしい。ああ、どうか早く目を覚まして。お願いだから。早く目覚めて。
──いつの間にか手のひらから落ちた白いボールは、床を転がり赤く染まる。