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「あっ、猫だ!かわいいー」
ふわふわした気持ちと足取りのまま、偶然歩道を歩いていた猫を触りたい一心で追いかける。時間は……ええと、分からない。
"送って行こうか"、同僚にそう言われたものの、ここから家まで距離もそんなに無いし何より飲み会終わりでただでさえ遅い時間なのに、私のためにさらに時間をかけさせるのは申し訳なく思って丁重にお断りをしておいた。
そんなわけでひとり夜道を歩いていたが、翌日が休日ということもあり、私と似たように足取りが覚束ない飲んだくれたちがちらほらいたおかげで、さして何も思わず家までの帰路をゆく。
「いやあ、今日は涼しいなー!」
注がれたものは、飲まなければいけない。……つまり、私はそんなにお酒にも強くないくせに飲み過ぎたおかげで、ハイなテンションになっていた。ふらふらしながらマフラーを乱暴に外して、しゃっくりをする。先ほどの猫のことはすでに頭の中からすっかり消え、今は早くベッドで寝たい一心だ。
「……あっれー?」
空を見上げたついでに自分が住んでいる部屋を見ると、なぜか電気がついていた。いつもなら確実に不審に思い、慌てて友人に電話をかけるところではあるが。……今日の私は、ただの酔っ払いである。
今朝は急いでいたし、"多分電気を消し忘れたんだー、あー今月の電気代怖いなー。"ぐらいにしか思わず、あまり高くないヒールのついたパンプスを鳴らしながらへらへら階段を上る。
「鍵、鍵はー……」
うわ、眠い。家の前に来た途端、急に眠くなってきた。
半目でバッグに手を突っ込んで鍵を探し、のろのろと取り出しては鍵穴に差し込んで回す。と、ガチャリと鍵が閉まる音がした。……おや。
「あっははー!なんで閉まってんだろー!まあいっか!」
なぜか扉の前で爆笑しながらもう一度鍵を回せば、今度こそ扉が開く。それから片手に抱えたバッグの上にマフラーを乗せ、靴を脱ぐため前のめりになっては足元を見ながら声を出す。
「ただいまーっ!今日もお仕事頑張ったよー!うんそうだね私!おかえ、」
「おかえり」
──……私の声に、重なる声。
馬鹿みたいに高い声に混じる低音に驚いて、靴も脱ぎかけのまま顔を上げた。あまりの驚きでしゃっくりも止まり、……また、目の前の彼に息さえも止まる。
「…………え……え、……?」
思わず、一歩後ろに下がってしまった。
……そうして彼はぴたりと動きを止める私を見ながら、壁に手を添え狭い玄関までゆっくり歩いてきては、黒髪を揺らしながら笑うのだ。
「おかえり、ひより」
「──……、……っ、」
声が、出なかった。それに一緒に力まで抜けてしまって、荷物が真っ逆さまに落ちた。鍵を出すために開けっぱなしにしたままのバッグから書類が雪崩を起こして、白い絨毯が出来る。
……いや、それすらも、今はどうでもいい。
──……、だって、だって……っ!!
「──……っグレちゃんんんっ!」
「待っ、!」
両腕を広げて思いっきり飛びつくと、そのまま二人して床に倒れる。……どしん。部屋が揺れたような気がした。下の部屋の方には大変申し訳ないけれど、今だけはどうか許してほしい。
……だって。
夢だと思いかけていたことが、やっぱり夢なんかではなくて。もう何年も経ってしまった今になってひょっこり現れて。溢れ出るこの気持ちを、抑えられるわけがない。
「ただいまあ……っ!……っく、グレちゃん、……おかえりい……っ」
「……ただいま」
上に乗ったままぼろぼろ泣いて、これでもかというほどきつく抱きしめてはその胸板に顔を埋める。その間にグレちゃんが上半身を起こして角度が変わるものの、それすらも気にせず腕を絡ませていた。……あたたかい。確かに、ここにいる。何度も何度も確認をしては号泣を繰り返す。
「……ひより、お前、酒臭いぞ」
「っだって、今日、飲み会だったからあ……っ、」
「飲めないくせに」
わずかに困ったように笑うその顔を見上げながら、構わず大粒の涙を零す。
……どうして、なぜ今ここにグレちゃんがいるのか。やっと不思議に思う余裕も出てきて、またもや現実なのか夢なのかが分からなくなってしまった。試しに自分の濡れた頬を抓ってから、何となくグレちゃんの頬も伸ばしてみる。……痛い。それに、ちゃんと触れる。
「グレちゃん、……ほんとに、グレちゃん……?」
「ああ、そうだ。……ただ、多分、以前とは違うところもある」
違うところ。触っている髪が短くなったとか、またさらに大人っぽくなったとか。そういうことしか分からなかったけれど、ふと、手を添えているその頬を見て気づく。
「あれ……?あの、頬にあった白い模様……片方、無いよ……?」
「──……やはりな。片方は残っているのか?」
「うん。でも、……ちょっと薄い?」
ゼブライカの模様である白い稲妻形のマークが消えている。それに今ある方も、白色から肌の色にぐっと近づいていた。まるで傷痕のようにも見える。
「……そうか、そういうことなのか……」
グレちゃんが苦笑し、僅かに困惑の色を見せる。それにジッと見つめていれば、一度閉じた口が渋々開く。
「実は、ここへ来るには代償があったんだ。手足やどこかの臓器が無くなるかと思っていたが……」
「え、!?ど、どういうこと……?」
「──多分、俺はもう、ポケモンではない」
「……え……?」
そういう彼は、なんとなく嬉しそうな声色だった。私はといえば、未だ理解が追い付かずに戸惑いながらその顔を見るしかできない。
「"ポケモン"という定義そのものが代償だったんだろうな。もうゼブライカにもなれないし、技も出せそうが無い。どうやら完全に人間になってしまったようだ」
「……そん、な、……、」
……私がこちらの世界に帰る前、グレちゃんにあんなことを言わせてしまったせいだ。それを律儀に守って、彼は大切なものを失ってしまった。そう思うと、少しだけ落ち着いたと思っていた涙が溢れてくる。
──ふと。頬に大きな手が添えられて、親指がゆっくり私の目元をなぞる。
「ポケモンだろうが人間だろうが、俺は俺だ。……そうだろう?」
以前。似たような言葉をどこかで聞いたことがあるような気がして、思い切り目を見開いてから、きゅっと細める。それからその手に手を重ねつつ、無言でゆっくり頷いた。
「それにやっと、ひよりと同じ姿になれたんだ。寧ろ喜ぶべきことだろうな」
黒髪の間からちらりと見える青い瞳が、細くなっては弧を描く。そうして頬を撫でるように降りてゆく手と、引き寄せられる身体に視線を上げた。
真っ直ぐ交わる視線に、手をその胸板に添えて。鼓動の音が手を伝わって聞こえ、その速さに自身の鼓動も重ね。縮まる距離にギリギリまで目を見つめて、直前で目を伏せる。
……ゆっくりと、優しく重なる唇に愛しさを覚える。
「……グレちゃん、私、」
「俺は。……ずっと、ひよりに言いたかったことがあるんだ」
そういうと、グレちゃんがポケットから何かを取り出し、私の手のひらにそっと乗せた。
それはあの、──……青い、折り鶴。
「──ひより、俺は、お前が好きだ。この身も心も、全てひよりに捧げたい」
「……、……っ、」
「"愛している"。いや……ずっと前から、愛していた」
そういって、はにかむ顔に涙が溢れ。
滲む視界を必死に拭いながら、嗚咽と一緒に声を漏らす。
"愛している"、そう、内側に書かていた青い折り鶴を抱きしめながら。
「本当に、……私で、いいの……っ?」
感極まって震える片手を口元に添え、ぼろぼろ泣きながら訊ねると、また微笑んでは涙をそっと拭ってくれる。
「今もこれからも、ひより以外考えられない。──……ずっと、俺にお前のことを守らせてほしい」
嬉しくて、ただ、ひたすらに嬉しくて、思い切り目を瞑っては涙を零す。
そうしてそのまま目線を上げて、手をそっと差し出した。あの日、私の差し出した手をジッと見つめては首を左右に振っていた彼が、今ではゆっくり指を絡ませきつく握りしめる。
「グレちゃん、」
握りしめられた手を、私もまた握りしめ。
「ありがとう、グレちゃん。大好き、……愛してる」
……彼がもう、私の言葉に驚くことはない。ただゆっくり頷いては、二人揃って笑っていた。
初めての世界で、初めて出会った彼と一緒に、もう一度。
初めての世界で、初めて出会った彼女と一緒に、もう一度。
笑顔で迎えたこの日に願う。
……この先ずっと、一緒に居られますように、と。