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あれから何度季節を廻ったのか分からない。ただ、とても長い時が経ってしまったのは確かだった。
──事故から回復後。
必死に勉学に励んでいた私も無事に学校を卒業し、胃が痛くなるような就職活動も乗り越え、今では社会人となっていた。今では上司からの理不尽なお叱りや、自分の不甲斐なさに胃が痛い日々を過ごしている。
学生の頃はただひたすらに勉強が嫌だった。勉学に追われることもなく、お金に自由の利く大人に憧れていた。……だがしかし。実際社会人になってみれば、どれほど学生の頃が幸せだったのかを痛感している。働くって、大変だ。お金を稼ぐって、大変だ。
「すみません、今日はお先に失礼します。お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様」
"お疲れ様でした"、飛び交う言葉に軽くお辞儀をしながら会社を出て、マフラーに口元を埋めながら寒さで縮こまる体を必死に動かし帰路をゆく。今年は暖冬だと言っていたけれど、やっぱり冬は寒い。通りすぎるコンビニに並ぶ"おでん"の文字がある旗を見ては、つい想像してしまい涎が出る。
……ああ、お腹空いたなあ。今日は何を作ろうか。でも作るのも面倒臭いし、やっぱりおでんを買って行こう。
「いらっしゃいませー!」
入店と同時に聞きなれた音楽と一緒に明るい声が聞こえた。
──私は今現在、ごく普通の会社で、ごく普通の会社員をしている。
毎日が新しいことばかりだったあの世界とは違く、ここではやっぱり毎日似たような日々ばかりだ。仕方が無い。だって、私の居るべき世界では私もただの一般人に過ぎないのだから。
「鍵、鍵……」
錆びた階段を上がり、いくつもある同じ扉のうちのひとつ。その前に立ちながら鞄の中を漁って鍵を取り出し、扉を開ける。
真っ暗な部屋にすぐさま明かりをつけてから、ストッパーが無く勝手に閉まる扉に再び鍵をしっかりかけた。冬は本当に日が落ちるのが早くて、なぜかいつも物悲しくなってしまう。
「ただいまー」
"おかえりー"。誰も返事をしてくれる人がいない代わりに自分で言いながら靴を脱ぐ。それからすぐに窮屈なストッキングを脱いで、先週やっと設置したコタツへ即座に潜りこんだ。
事故に遭ってからというもの、両親の私に対する過保護っぷりは言葉では表現できないようなものだった。その気持ちが分からないわけではない。けれど私だってもう大人だ。あらゆることに手を出されることを不満に思うことも多々あった。
そういうこともあって、私は一人暮らしを決心する。当たり前のように反対されたものの、職場に近いというただひとつの理由を無理やり押しとおし、今に至る。
憧れのひとり暮らしは楽しいけれど、想像よりも遥かに寂しいものだった。……まあ、そんな寂しさにももう慣れてしまったけれど。
「さてさて……」
身体を動かしうつ伏せになって、テーブルの上に置きっぱなしにしていたゲーム機の電源を付ける。今遊んでいるゲームは、ポケモンXYだ。
今朝も見た最初の映像はボタンで飛ばし、続きからのものを選ぶ。それからすぐに下画面をタッチして、可愛らしい小物に囲まれた中央にいるポケモンをタッチペンでつついた。
「うわー、やっぱり可愛い!」
ポケパルレ。ゲットしたポケモンとスキンシップを取って仲良くなれるという、素晴らしい新機能だ。ストーリーそっちのけで、XYへデータを送った"みんな"と毎日画面越しに遊んでいるという日々。
いい歳した女が現実そっちのけでゲーム画面のポケモンを撫でながら奇声をあげる。たまに話しかけたり、ひとりでそういえば、なんて思いだして笑ったり。
……正直、私も頭がおかしいと思う。けれどももう、これはやめられないのだ。、というか、やめてしまったら何もかもが終わってしまう気がして、怖くてやめられないというのもある。
「夢じゃない……そう、夢じゃないんだよ。本当に、いたんだもの……」
証拠はない。けれど、あれが夢だったとは思いたくない。きちんと触れて、その温かさも感じた。選択肢なんてない会話だって沢山した。……みんな、データなんかじゃなかったし、私もあの世界で生きていた。
……そうでしょう。嘘ではないよ。
「……おでん、冷めちゃったなあ……」
そう毎日、狂ったように自分に言い聞かせては、今日もまたひとりで生ぬるいご飯を食べていた。音の無い部屋は怖いほど静かだから、退屈な番組をぼんやり眺めては画面越しに聞こえてくる人の声に安心する。
……あの日以来、ひとりになると、よく夢と現実の狭間を歩いているような感覚に陥る。そうしていつもそれにハッとしては虚無感に襲われる。あの世界で得たものは、とても大きすぎた。大きすぎて、それを埋めるものはこちらの世界にはどこにも無くて。
「……っ、」
ぽたり。つい、涙が落ちる。……ああ、もう、嫌になっちゃうなあ。
最近特に涙脆くなってきた気がする。社会の荒波に揉まれている影響なのか、ただ単に心が弱くなっているだけなのか。
どうしようもなく乱暴に目を擦ってから鼻水を啜り、コタツから出ては小さな冷蔵庫の扉を開く。先日大量買いした卵たちが無言で私を見つめている。期限はまだ、大丈夫。
「明日こそ自炊せねば……って、あー……明日は飲み会があったんだ……うう……」
現実に戻り、がっくりと肩を落とし。……会社の人とのお付き合い、正直大変です。
明日の憂欝に負けないよう、再びゲームに没頭しては飽きるまでやり続け。
「おやすみなさい……」
そうしてまた、ひとりベッドに潜っては身体を丸めてひっそりと眠るのだった。
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"大丈夫、信じて。"
夢の中で、誰かの声が聞こえた。聞き覚えのない声の先、……誰かが、頷く姿が見えた。気がした。
……それに混ざって聞こえているのは携帯のアラーム。夢の中の私は、ちゃんと自分の携帯を手に持ちアラームを止めていたのに、音はまだ鳴り続けている。
「……ん、──……はっ!?」
爽やかなメロディを慌てて止めて、時刻を見る。よかった、寝過ごす前に起きられた。
毛布を剥いでカーテンを開ける。それからすぐにテレビを付けては、時刻が上に表示されるニュース番組を見ながらパンをかじる。
「洗濯、お弁当、戸締り、全部良し!」
全てを早めに終わらせて、再びゲームをやりはじめる。毎朝10分ほどゲームをやるのも日課となってきていた。やることと言えば、やはりポケパルレ。たまにストーリーを進めたり、ときにはBWをやることもあるけれど……もう何度もやりすぎてつまらなくなってきているのは仕方がない。
あっという間に時間は過ぎ、家を出なければならない時刻。
重たい腰をあげ、レポートボタンを押した時。……ストッキングにある、一直線に伸びている白い線に気づく。
「う、うそー!?伝線してるんだけど!?」
どうしてこんなギリギリの時間になってから気付くんだ!?
慌てて狭い部屋を駆け、替えのストッキングを乱暴に取り出しては履き直す。表示されている時刻をちらっと確認してからテレビを消して、荷物を持っては慌てて家を飛び出した。
鍵をかけて階段を下りた時、そういえばゲーム機の電源を消し忘れたことを思い出した。でもレポートもしたし、そのまま放置しておいても問題ない。
「充電が切れてもどうせ今日は夜できないし、まあいいや」
少しあがった息を吐いて、歩きながらマフラーを巻いた。
職場に行く前だというのに、家を出た瞬間からすでに脳内は仕事のことばかりだ。悲しいけれど、仕方が無い。
そうして今日も、いつもと変わらぬ道を歩く。また、何でもない日が始まった。
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誰もいない部屋の小さなテーブルの上。そこへ置かれたままのゲーム機が、仄明るく光っていた。画面には外国の街並みを背景に、女の子のキャラクターが立ったまま動かない。なぜなら今現在、そのキャラクターを動かすプレイヤーはそこにいないからである。
……が、しかし。
突然その画面が暗くなったと思えば、次に別の画面を映していた。ドットで描かれた絵が勝手に動き、かと思えば下の方に白いふきだしと共に文字が並ぶ。並んでは消えるを繰り返し。
そうしてまた、画面は一度暗くなり。
次の瞬間、部屋いっぱいに光りが溢れた。朝日の差し込む部屋で起こったその現象。それを見た人は誰ひとりいなかったものの。
隣人曰く。どしんと、一度大きな物音が聞こえたらしい。