3


急いでポケモンセンターへ戻り、扉の前まで来た時点で分かった。俺と同じ時間帯に外へ出たはずのセイロンの声がしたからだ。それに混ざって聞こえる声から、どこか緊張感を感じる。
そうしてゆっくり、……ゆっくり、扉を開けると全ての視線が俺に向く。

「お帰りー、グレちゃんー」

ひらりと手を振るチョンの片手が置いてあるテーブルの上。……一冊の、ノートが見えた。
それを囲むように座っているおっさんは頭に手を添えて俯いているし、ロロもまた似たり寄ったり。セイロンに至っては椅子から立ち上がり、そのまままま立ち尽くしている。

「グレアさん、はい」
「……これは?」
「中、読んでみて」

俺のところまでやってきた陽乃乃から素直にノートを受け取る。「これは?」なんて。……聞く前から、薄々分かっていたくせに。

一度動きを止めてから、ゆっくりページをめくってゆく。……飛び込んでくる、見覚えのある丸みを帯びた文字。まだ俺が覚えている技を覚えきれずに、難しい顔をしながら紙に書いていたあの頃と同じ文字だ。時折出てくる可愛らしい絵と、ここに書いてあるひとりの過去。
……全部、ひよりのものであり、また俺たちの旅の記録でもある。

「グレア、もしかして……」
「ああ……ついさっき、思い出したばかりだ」

美玖に答えると、なぜか陽乃乃は驚いたような顔をしていた。ふと、視線に気づいて目を動かすと、心音が椅子に座って足と腕を組みながら俺をジッと見ていた。なんだと思いつつそのまま見ていると、視線がゆっくり外れる。

「……どうして、こんなにも大切な人を忘れていたんだろう……」
「仕方ないわ。だって、」
「──……だって、記憶を凍らされていたから」

未だ俯いたままのロロへ静かに言葉をかける心音に重ねて、セイロンが言った。ひどく冷たいその声に慌ててその姿を見ては、仁王立ちのままゆっくりと拳を固めて俯いているその姿に直感で"マズイ"と思った。
近くにいた陽乃乃も勘づいたのか、俺と目配せをしては下手に動けないその場で人形二体とアイツがどこにいるのか考えているように目線を動かしていた。

「……こんなの、どうにもできるはずがない……っ!」
「セイロン、落ち着け」
「……またやられた。……また、アイツにやられた……っ!!」

ギラリ。光る真っ赤な瞳と、肌で感じる殺気。……セイロンにとってのタブーは、ひよりとキュウムだ。その二つが絡んだとなると、もう手が付けられない。
俯いていたおっさんとロロも、今では落ち込んでいるどころではないと言わんばかりにセイロンを見つめて動きをぴたりと止めていた。

「……グレアさん、駄目だ。キュウムさんは多分、」

助けを求めるように俺を見る陽乃乃に視線を向ける。その言葉の途中、……扉が、開いた。
暢気に飛んではチョンの頭の上と陽乃乃の肩に乗る二体の人形に、思わずきつく目を瞑る。こんなのは現実逃避にすらならないが、……ああ、なんていうタイミングだ。ニヤニヤしながら入って来るアイツが、これほどまでに悩ましいなんて。

「よお。何しけた面してんだよ」
「ッキュウムさん!」

陽乃乃が叫ぶ声よりも、それは速かった。
何かが通り過ぎたその一瞬、背後から鈍い音が響いた。パラパラと扉のコンクリートが剥がれ落ちるのが見える。その扉に背を預け、真っ直ぐに向けられている殺気を受け止めながらもすぐ真横に突き刺さっている手と、すぐ喉元に当てられている鋭い爪先を向けている手を掴んでいるキュウムの口元に、いつものふざけた笑みは無い。
互いに小刻みに震えている手元を見ると、容赦という文字はどちらにも無い。

「……記憶を凍らせるのはお前の得意分野だろう。また上手く出来て面白かったか」
「違うよセイロン兄さん!キュウムさんは、」
「黙ってろ」

隻眼が鋭く向いた。それに陽乃乃が一度びくりと肩を飛びあがらせては口を閉ざす。目配せをする美玖と心音とも視線を交わし、唇を噛んだ。
……大丈夫だ、分かっている。キュウムとは、記憶に干渉されるほどの接触をした覚えはない。だから、どう考えてもキュウムだけでできるわけがないのだ。

「…………」

きっと。俺たちの記憶を凍らせたのは、ひよりだ。よく考えれば分かるはずだが、今のセイロンはそれすらできないほど頭に血がのぼっている。

「ひよりを、ひよりを返せ」
「いいかクソチビ。テメエだって知ってんだろ。ひよりは元からこっちの人間じゃねえんだよ。ずっと一緒に居れるわけねえだろが」
「お前がまた奪ったんだろう!返せ、ひよりを返せ……っ!」
「……話になんねえな」

喉元に刺さる切っ先も気にせずに、呆れたようにため息混じりに言葉を吐き出す。その間も叫び続けるセイロンの声に思わず耳を塞ぎたくなる。……あれはキュウムにぶつけているというよりも、見えない何かに乞うような。痛い、叫びだ。
……しかし、確かにキュウムの言うとおりだ。いつかは直面するであろう問題から目を背けていたのは事実であって、それはきっとひよりも同じはずだった。……分かっていた。しかし、。

「あまりにも突然すぎて、セイロンも混乱してんだろぉ……」
「でもさ、……気付いたらいなくなってた、なんて。……あんまりだよ」
「…………、」

何か言いたげに口を開いたチョンと陽乃乃は、結局二人揃って何も言わないまま言葉を飲み込んでいた。
……ひよりの選択が間違っていたわけではないが、けれど、この状況では正しかったとも言い切れない。何が正解で、何が不正解だったのか。誰にもそれは、分からない。

「……ひよりちゃんにとって、俺たちは何だったんだろう」

ぽつり。呟いたロロの言葉にその場が固まる。それにすぐに気付いたロロが、らしくもなく慌てて顔を伏せては「ごめん」と小さく謝った。誰に。何を、謝ったのか。
……何だったか、なんて。今までのひよりの言葉を、行動を、気持ちを。きちんと考えれば分かるはずだろうに。

──ふと。ガタリと何かがぶつかる音がした。

「……ひより、ひより……、」
「…………」

キュウムの足元で膝から床へ崩れ落ちているセイロンを見る。心配そうにゆっくり飛んでくる人形たちはすかさずキュウムが掴んでは再び遠くに放り投げる。
静まりかえる部屋に、ぽたぽたと雫が落ちる音がした。……ロロの言葉がセイロンを我に帰らせ、またそれが引き金になってしまったのだろうと、今になってそう思う。

「……俺は、。ひよりのいない世界なんて……嫌い、嫌い、……大っ嫌いだ」
「──セイ、ロン……?」

ひどく、ゆっくりとした動きだった。いや、そう、見えただけだったのかも知れない。
涙を零しながら目を瞑り、上を仰いでは晒される白い喉元に垂直に当てられる尖った爪先。

「……ひよりがいない世界。──……そんなの、生きている価値なんて、……ない」
「ッセイロン!やめろ!!」

真っ直ぐに後ろに引かれた手が、躊躇うことなく一直線に突き刺さり。
一瞬にして生まれた音が、一瞬にして消えてゆく。

俺が手を伸ばした、その先で。
──……鮮血が、飛ぶのを見た。



- ナノ -