1


「ねえ。それ、ひよりのノートでしょう」

肩越しにかけられた声に驚いて慌てて振り返ってしまった。そこには、頭にタオルをかけたままのチョンさんがにこにこと笑顔を浮かべては僕を見ている。
広い襟首から少しだけ見える肩の傷跡に少し視線を逸らして、取り繕うように視線をあげた。

「え、えっと……そう!リハビリ、どうだった!?」
「かなり順調ー!あのねー、ひと街分ぐらいの距離は飛べるようになったんだー!」
「すごい!やったね!」
「やっぱりそのノート、ひよりのなんだー」
「…………」

内心緊張で胸が張り裂けそうになりつつ、僕もなんとか笑顔を貼り付け、チョンさんの手首を掴んで別の場所に移動する。そうして後ろ手で扉を素早く閉め、狭い洗面所で暢気に濡れた髪を拭いている彼をそっと見た。

……ど、どうして今、ひより姉さんの名前が普通に出てきたんだろうか。チョンさんも記憶を凍らされていたはずなのに、どうして。
もしかして、もう僕がどこかでヘマをしてしまって、それで思いださせてしまったのだろうか。い、いやでも……。

「オレ、ひよりのことを覚えているよ。……もうずっと前から、記憶は戻っているんだー」
「え……」

彼が、にこりと笑みを浮かべながら言う。僕はまだ、何か得体の知れないものを見るような目でしか彼を見ることができない。
それでもチョンさんは、相変わらずゆったりとした口調で何でもないように話を続ける。

「だってー、オレが今ここにいるのは、"ポケモンと話せる人間"に興味があったからだもん」
「そ、それならNさんも、」
「だったら、オレは今頃ここにいないでNくんのポケモンになってるはず。でも、オレはここにいた。──……ということは、ここにも"ポケモンと話せる人間"がいるはずなんだよ」
「…………」
「そんな感じでー、いつの間にか思いだしていたってことー」

……僕が最も警戒していたのはロロさんだった。けれど、それは間違いだった。一番の切れ者は、今目の前にいるこの彼だ。

「あ、あの、!」
「大丈夫。みんなには言ってないし、言うつもりもないよー」

笑顔でそういう彼に驚いては瞬きを繰り返す。思ってもみない、言葉だったから、。

「……言わないんですか?どうして?」
「オレが言わないでも、……きっと、みんななら自分自身の力で思い出すはずだから」

そっと。ノートを彼に手渡すと、ゆっくり受け取ってはページをめくりはじめる。見ながら彼は泣きそうな表情で微笑んでいて、まるで記憶とノートに書かれた文字を照らし合わせては答え合わせをしているようにも見えた。

「ねえ陽乃乃。いいこと教えてあげよっかー」
「いいこと?」
「うん。オレと同じように、どうやってもグレちゃんに変えることができないきっかけを持っている子がまだいるんだけどー、気付いてる?」
「え、……」

戸惑う僕の手前、チョンさんがそっと微笑む。

「……君のお姉さんとお兄さん。そうなんじゃないかなあー」
「──……!」

チョンさんの手からノートを受け取り、早速部屋を飛び出す。
……まさか、まさか!!

最初からひより姉さんと一緒にいたグレアさんは、彼女と同じものを見てきていた。だからきっかけもスムーズに彼へ移行でき、また自然な記憶となっていたらしい。
しかし、確かに、心音姉さんと美玖さんは違う。
二人ともグレアさんがいなかったときに、ひより姉さんと出会っていた。……ならば、すぐにでもその違和感に気付いていてもおかしくはない。

「っ心音姉さん!」
「……ど、どうしたの、陽乃乃?」

扉を勢いよく開けると、心音姉さんの驚いたような声が聞こえた。
次に挑むジム戦の作戦を練っていたのか、手元にある紙にペンを添えている。それからずんずんと歩いて近づいてくる僕に、瞬きを繰り返している彼女の手前。

「そんなに慌てて、どう……」
「姉さん、これ、知ってる?」

ノートを目の前に突きだしながら、僕はジッと、心音姉さんを見つめる。
……大きな目が、さらに大きく見開いた。そして、一瞬固まる。
かと思えばすぐに戻って、長い睫毛をゆっくり持ち上げ僕をそっと見つめ返していた。そうして無言のままの僕の手前、細く白い腕がスッと伸びてきてはノートの端をそっと握る。僕は手を離し、ノートが彼女の手へ渡る。

「僕は、前から知ってるよ」
「あら、奇遇ね。わたしも知っているわよ。以前、これと同じノートをコガネ百貨店で見たことがあるの」
「…………」

ノートを見つめ、それから胸元に持っていく。……そうして、両腕で包み込んではそっとノートを抱きしめていた。頬を擦り寄せ、何かに堪えるように唇を少しだけ噛んだあと、静かに熱い息を漏らす。
──……そっか。そう、だったのか。

「……忘れるわけ、ないじゃない。だってこれは、……ひよりが大切に、していたものだもの……っ!」

零れた涙がノートに落ちる。僕にはそれを拭うこともできないし、かける言葉も思い浮かばない。
どうにもできなくて、けれども居たたまれないまま後ろ手で指を絡ませたまま立っていると、扉がゆっくりと開いた。

入ってきたのは美玖さんで、すぐ目の前のテーブルで顔を伏せながら泣いている心音姉さんに驚いては、一歩後ろに下がっていた。それから横にいた僕に気付き、……姉さんの抱きしめているノートを見つけると止まっていたそっと足を動かす。

「……懐かしいね。もう何年前になるのかな」
「やっぱり、美玖さんもそうだったんだ。いつから思い出していたの?」
「……さて、いつからだろうね。黙っていてごめん」

困ったように笑う美玖さんを見ながら、少しだけ頬を膨らませる。

「このノート、ヒノがずっと持っていたの?」
「ううん。僕じゃなくて、キュウムさんだよ」
「そう……」

ゆっくり顔をあげる心音姉さんに頷いてみせると、姉さんはすぐさま目元を乱暴に拭って僕にノートを返す。

「"ひよりが決めたことだからこれでいいんだ"って、自分に言い聞かせては諦めようと思ったわ。……でも、やっぱりダメだった。今もまだ、ひよりにまた会いたいって思ってる」
「……僕、心音姉さんは、……その、」
「あら。知ったら私が狂うとでも思ったのかしら?」

目を赤くしたまま悪戯に笑う姉さんに肩を竦める。僕の言葉に頷いていた美玖さんもまた、そっと姉さんから視線を外しているのが見えた。

「甘くみないでちょうだい、って言いたいところだけど、……確かにおかしくなりそうだったわ。けれどそれ以上に、幸せなはずの日々が蓋を開ければ笑っちゃうぐらいに狂ってたことを知って、"わたしがどうにかしなくちゃ"っていう気持ちの方が大きかったのかも知れない」
「そう思える心音さんは、やっぱり強いですよね」
「あら美玖、褒めても何も出ないわよ」
「はは、思ったことを正直に言っただけですよ」

いつだったか、「精神面では女の方が強いのだ」なんて殿が言っていたのを思い出す。もちろん個人差があるだろうけど、僕はひより姉さんと心音姉さんを見ていてあながち間違ってはいないと思った。
僕が思っているよりも、姉さんたちは強いのだ。

「さあ陽乃乃。そのノート、グレアたちにも見せてきてやりなさいな」
「なぜか折り鶴を持っていたし、もうかなり近づいてきているはず。……あと必要なのは、きっとそのノートだけだよ」
「……うん」

僕の持つ"鍵"をどう使うかは彼ら次第。
少し、……いや、かなり不安はあるけれど、僕はもう決めた。
きっと今こそ、この鍵を手渡す時だ。



- ナノ -