1


彼女がいなくなっても、この世界は何も変わらない。……けれども僕と、彼女を覚えたままである彼らの世界にはずっと大きな穴が開いたままだ。
彼女は世界を救うほどのことを成したというのに、この世界はどこまでもあっさりとしていて冷淡だった。だって、あんなにも簡単に彼女を手放してしまったんだもの。……僕はそれを何年も経ってしまった今もなお、恨めしく思っている。

「グレちゃん、次はどこだっけ?」
「次は……ソウリュウシティだな」

自分から話を振っておきながら答えを聞く前に、ロロさんは備え付けの冷蔵庫へ向かって扉を開いていた。僕にもやっと彼がああいう人だって分かっては、そんな姿に苦笑してしまう。

「ソウリュウシティはドラゴンタイプのジムでしょう?わたし、戦ってみたいんだけど」
「あ、なら俺が今度トレーナーやろっか」
「何言ってんのよ、ロロになんて任せられないわ。陽乃乃、お願いね」
「ええ……ココちゃんひどいよ……」

心音姉さんのウインクとロロさんの不満の眼差しが同時に向けられる。それを笑いながら見てから、僕は地図を眺めているグレアさんを見た。

──……あの夜、ひより姉さんがいなくなってからしばらくした後。
目が覚めてボールの中から出てきたみんな。ひより姉さんのことは綺麗さっぱり丸ごと忘れてしまっていた。
誰ひとりとして姉さんがいないことを不思議に思ったり不安に思わないのを見ていて、僕は居た堪れない気持ちを抱えていた。……けれど、それでもここまでやってこれたのは、きっと同じ気持ちを共有している彼らがいてくれたからだ。

しかしながら、ここにいるポケモンたちは全員がひより姉さんをきっかけに集まっていた。きっかけが無くなってしまっては、いったい何の集まりか分からなくなってしまうのではないか。なんて心配をしていたものの、……伝説ポケモンの力って、凄いけど恐ろしい。
記憶を凍らせるだけではなく、上手い具合に彼らの中にある記憶を繋ぎ合わせては、全く別物の記憶に作り替えていたのだ。だから噛みあわないはずの話が上手い具合に噛みあい、不自然な点が自然と流れてゆく。
それにより若干仲間同士でも関係が変わってきている今。

「グレちゃん、ココちゃんが冷たいよ……慰めて」
「ああもう、抱きつくな。気持ち悪い」
「とか言って本当は嬉しいんでしょーほらほらー」
「……いい加減怒るぞ」

グレアさんの頬をニヤニヤしながらつついているロロさんの指が思い切り握り潰され、直後"痛い痛い!"なんて叫び声があがる。

……現在、グレアさんがひより姉さんの立場にいる。
だから何をするにも彼を中心に動いており、またきっかけも全部彼へと移行されていた。だからなのか、ロロさんは相変わらず女性好きではあるけれど、なんだかんだでグレアさんが一番みたいだし、セイロン兄さんもひより姉さんの傍にいつも居たように、今では常にグレアさんの傍にいる。

僕から見たらすごく異様な光景なのに、彼らにとってはこれが当たり前だなんて。……静かに狂っている平穏な日々、のように思う。

「あ、ココちゃんー、オレのリハビリ付き合ってー!」
「勿論いいわよ。そろそろ飛距離も伸ばしたいところよね」
「それじゃあ、オレは買いだしに行ってきます」
「おう美玖、俺も一緒に行くぜぇ」
「……今日は一本だけですよ」
「おうともよ!」

そう言って部屋を出てゆく心音姉さんとチョンさんのリハビリ組と、アカメさんと美玖さんの買い出し組。四人を見送ってから椅子に座り、頭に手を添えて俯いている彼の姿を見つける。

『……どうしたの、グレにい?大丈夫……?』
「──……あ、ああ。大丈夫だ」
「…………」

僕は似たような光景を今までに何度も見たことがあり、また今現在も毎日のように見ている。──あれは、ひより姉さんが凍らされた記憶を思いだす前と同じ症状だ。
最近になってその様子を見ることが本当に多くなった。けれども、みんなそれぞれに心配をかけたくなくて、頭痛については話していないように思う。……だけどきっと、すでに誰かしらがその共通点に気付いているに違いない。

『これってこれって、もうそろそろって感じじゃないですか?ねえ?』
『そ、そうかな……僕にはまだちょっと遠いように見えるよ』

みんなが思い出してしまわないかハラハラしているのは僕だけで、僕の肩と頭に乗っている人形たちはいつもどこか嬉しそうに笑うばかり。

『ならワタクシとまた賭けする?』
『や、やだ!ま、また僕の羽を凍らせて笑うんでしょう!やだよ!』
『はあ、つまらないですねえ』
「……僕の周りで暴れないでよ……」

遠慮無く僕の顔をよじ登ったり髪の中に隠れたり。おかげで僕の髪はぼさぼさだ。人形二体を片腕に抱えながら髪を指先でつまんでいると、グレアさんがふと、ゆっくり顔を上げる。

「……その、……ちょっと聞いてもいいか」
「なになにグレちゃん!俺ならいつでも準備はできてるよ!」
「にゃんころ、お前はいったい何の話をしているんだ」

少し離れた場所から、ため息を吐くグレアさんの姿に苦笑いをしてから。彼がポケットから何かを取り出すのを見る。
そうして。
……その手に乗っていたものに、僕は大きく目を見開いた。……だって、あれは、。

「今朝、これが落ちていたんだが」
「……あれ?それって前に美玖くんに教えてもらってみんなで作った"オリヅル"ってやつだよね?でも確か、グレちゃんが回復した後、マシロさんに燃やしてもらったんじゃなかったっけ」
『……うん、そうだったよね。どうして一羽だけ、あるんだろう』

……青い、折り鶴。どうして、なぜあれがここにあるのか。
あの夜、千羽鶴も燃やしたことは覚えている。いや、今はそれどころではない。確かあの折り鶴には、一羽ごとにひより姉さんへ向けた色々なメッセージが書いてあったはず。

「…………、」

見られてしまったら、それこそ姉さんの努力と思いが全て水の泡となってしまう。幸い、まだ崩した後は無いようだけれど……。
ここで僕は、やっと気づいた。……そうだ、こんなことが出来るのは彼しかいない。

『……陽乃乃、どこ行くの?』
「キュウムさんのとこ!用事、思い出したから!」
「いってらっしゃーい」

椅子から立ち上がる僕に少し不機嫌そうな表情を浮かべるセイロン兄さんと、暢気に手を振るロロさんへ小さく手を振り返して部屋を飛び出した。
相変わらず嬉しそうに笑っている人形の声を聞きながら、きっと彼がいるであろう場所を目指して走る。





「ね、それさ、確か中にメッセージを書いていたよね。せっかくだし見てみようよ」
「……そうだな。誰が落としたものなのか分かるかもしれない」
「それにしてもまだあの時の折り鶴持ってるなんて、相当グレちゃんのことが好きなんだろうねえ。俺嫉妬しちゃうよ」
「ああそうだな」
「セイロンー、グレちゃんが冷たいよー」

俺の膝の上で丸くなりながら、セイロンがロロから顔を背ける。同じように隣の馬鹿猫は放っておいて、青い折り鶴を丁寧に解してゆく。
折った順番から逆に折り戻し、一番最初の三角形になった。ロロとセイロンも気になるのか、折り紙に視線を向ける中。
……ゆっくりと、開いた。

「……え、えっと……。言っておくけど、これ書いたの俺じゃないよ?グレちゃんのことは好きだけど、俺そっちの気は無いし……?」

わずかに戸惑うようなロロの声を聞きながら、その文字から視線を外せずにいた。なぜなら、これは、。

『……ねえ、グレにい。この文字……』

分かってる。分かっているが、ありえない。
……この折り鶴は俺がキュウムとの戦いの際、仲間から貰ったものだ。だから俺は作ったこともなければ、こんなことを書いた覚えもない。だがしかし、何度見てもこの文字は。

「俺が、書いた字だ……」

茫然と折り目のある紙に書かれたその文を眺めていれば、ふと、ロロが顔をあげた。めずらしく、やけに真剣な表情をしている。

「……グレちゃん、折り紙をやったことは無いって言ってたよね」
「ああ、そうだが……」
「どうして今、綺麗に元の一枚の紙に戻せたんだろうね?」

細まるオッドアイを見てからハッとして、自身の両手に視線を動かす。
……そうだ。俺は一度も折ったことはないはずなのに、なぜか今、本当に自然と戻していた。まるで、身体だけが覚えているかのように……。


"──……ねえ、グレちゃん。……私、……うまく、やれてたのかなあ……っ?"

小さな肩を震わせて、ぽろぽろと涙を流すその姿は、……?

──声が聞こえ、同時に締め付けられるような頭の痛みに再び手を当て俯く。最近やけに頭痛が起こる回数が多い。そして頭痛と一緒に聞こえてくる声や、ノイズが混ざるあの映像はいったい何なのか。
心配そうに俺を見つめるセイロンを撫で、ゆっくり息を吐き出しながら顔を上げる。

「頭痛、大丈夫?」
「……ああ」

答えながら、真剣な表情のままのロロへ目を向ける。

「グレちゃん、ひとつ聞いてもいい?……俺の目、どう思う?」
「どうって、別に何とも思わないが」

正直に答えるとロロはなぜか驚きを隠せない表情を浮かべ、今度はセイロンを抱えて目の前に持ち上げる。突然のことにセイロンも驚いているのか、ただ忙しく瞬きを繰り返していた。

「セイロン、君の名前の由来は?」
『……グレにいが、"セイロン"っていう紅茶が好きって、……あれ……?』
「そう、違うんだよ。グレちゃんは紅茶よりもコーヒーが好きだよね」

……なんなんだ、この噛みあわない記憶は。
鋭く光るロロの目を見つめてから、もう一度あの折り紙をそっと手に取る。

「…………」

──……何かが、おかしい。
俺たちの間で何かが欠けていて、また何か別の新しいものが作られている。いつからだ?いつからおかしくなっていたんだ……?

「ああ、どうしてもっと早く気付かなかったんだろう……っ!」

ロロがテーブルに肘を突きながら思いきり自身の髪をかき乱す。

『……俺もたまに、頭が痛くなる。そのときに、いつも女の、声が聞こえるんだ。……優しい、声だよ。俺、人間は嫌いなのに……なぜか、その声だけはずっと聞いていたいと思う』

知っている。皆、頭痛に悩まされていることは知っていた。だからポケモンセンターで診てもらったこともあるが、特に何も見当たらなかった。
けれど、俺もセイロンと同じように彼女の声が聞こえる。まさか、全員に同じ声が聞こえているとしたら、……。

「俺が今、ここにいるのはさ。……生まれて初めて、この目を綺麗だと言ってくれた人がいたからだ」

ロロが静かにそう言いながら、ゆっくり顔を上げる。

「今まではそれがグレちゃんだと思っていたけど、今はっきり分かったよ。……俺は、いや、俺たちは、……大切な誰かを、忘れている」

──大切な、誰か。


"──……ありがとう、グレちゃん"


もしも。
もしも、彼女がそうだったのならば。
……彼女はいったい、誰なのか。



- ナノ -