3


観覧車を降りて噴水の前で立ち止まる。一歩手前を歩いていたグレちゃんが振り返って私を見た。……その青い瞳に映る私は、今、いったいどんな風に映っているんだろう。

「……私、向こうの世界ではそこらへんにいる普通の学生だったんだ。毎日毎日、家と学校を往復して、似たような日々にうんざりしてた。でもさ、みんなそうしてることだし変えられないことぐらい分かってたよ。……ただたまに、"何か変わったことが起きないかなあ"って、思ってた」

そしたらさ。変わったことが、本当に起こっちゃったんだよね。


「この世界に来て、……いつの間にか、トレーナーになってた」
「…………」
「この世界に馴染みすぎて忘れてたけど、私は普通の、……本当に、普通の、ただの人間だったんだよ」
「──……ひより、」
「お願い、聞いて」

きっと、もう気付かれている。核心に触れていないとしても、そのギリギリまでグレちゃんなら分かってしまっているだろう。
でも、それでも今は聞いてほしい。私の言葉を、声を。
見ていてほしい。私の姿を、……心を。

「この世界に来て、グレちゃんと出会って。……大きく、私の世界が変わった」

みんなに出会って、色々なことを知って。初めて見る景色や、初めて触れるもの。初めてだらけな毎日に驚いて、でもそれがすごく新鮮で楽しかった。色鮮やかな世界で一日ごとに違う色を魅せてくれるこの世界が、本当に楽しかった。

「……辛いことも。たくさんあったよ。……死にそうなほど、痛い思いもたくさんした。……これでもかっていうほど、泣いたこともあった」
「…………」
「──……でも。それ以上に楽しいことが、……本っ当に!たくさん、沢山あったんだよ……っ!」

……今思えば、もしかすると辛かったことの方が多かったかもしれない。だって今でも私はこんなにも後悔ばかりしている。……でも、それでも。
蘇ってくるのは、頭を駆け巡るのは。全部全部、楽しかった思い出ばかりで。──……みんなと過ごしたあたたかい日々ばかりで。


唇を思い切り噛みしめながら、戸惑いを隠しきれないグレちゃんを見つめた。その姿は滲んでみえる。
冷え切って小刻みに震える手をゆっくり伸ばして一歩前に歩み出ると、グレちゃんのほうから慌てて駆け寄ってきた。ように見えた。彼の服を思い切り握りしめながらゆっくり見上げると、……ぽたりと、溜まっていた涙がこぼれる。ぽた、ぽた。何個も零れては頬を濡らしてゆく。

「……本当に、楽しくて、幸せで、……あのね、……やっと、みんなで一緒に、また旅ができるってなったとき、……っすごく、すごく嬉しかったの……っ!」
「──……ああ、」
「……私、やっぱりバトルは、嫌だよ……。みんなが怪我、するの、見たくない。……だからね、今度は、コンテストも、いいなあって、思ってたんだあ……」
「……そうだな」
「今、度は、。……ゆっくり、歩いて。色んな美味しいものを、みんなで食べて。……たまには、野宿とかもしてみたり。たっくさん、笑って、たまに、喧嘩したり、して、」

やりたいこと、見たいもの、知りたいこと。まだまだこの世界には沢山ある。それをみんなでのんびりと、たっぷり時間をかけて見つける旅を、……してみたいと、思っていた。
でも、それは叶わない。
例え英雄だと言われても、命の恩人だと感謝されても。……だって、だって。私はやっぱり、ただの人間だったから。

「──……グレちゃん、私、……私!本当はもっと、この世界で生きていたい…っ!本当は、みんなと、ずっと……っ、……ずっと、一緒に居たい……っ!」

言葉を叩きつけるように吐き出しながら、縋るように強く服を握りしめた。それに応えるように伸ばされた腕が私の背中できつく結ばれ、覆いかぶさるように抱きしめられる。
温もりや、心臓の音が、その全てが。……どうして、今になってこんなにも愛おしく思うのか。

胸元に埋めていた顔をゆっくり上げると腕の力が緩められ、二人の間に小さな空間が生まれる。
見上げ、背後の夕日に少しだけ目を細めると涙がまた零れた。奥底から湧いては溢れる涙が止まらず、濡れた瞳にその表情を映す。眉間に皺を寄せては眉を下げ、青い瞳はぐらぐら揺れているような気がした。

「ひより、」
「グレちゃん。……私は、……」

切ないほどの緊張感に、衰退してゆく思考。
──……腕を伸ばしてその頬に手を添え、つま先立ちをすれば再び距離がゼロになる。ゆるりと重なる唇に、息を呑む音がした。
驚きと何かが混ざった瞳が大きく見開かられるのを見ながら、私はゆっくり目を閉じる。熱い唇の感触が麻酔のように全身に回ってから、ちくりと心の奥を刺す。


「……私は、グレちゃんが好き」

「しっかり者で、たまに不器用なグレちゃんが好き。私のことをいつも支えて、守ってくれるグレちゃんが好き。──……怒る顔も、呆れる仕草も、堪えて泣く姿も、……はにかむように、笑う顔も、」

全部、全部、大好きです。


──日が沈みかけ、観覧車にも明かりが灯る。夕日に照らされて真っ赤に染まっていた姿が、今度は色とりどりの光を纏う。
そんな中、締め付けられるような胸を服の上から思いっきり握りしめては、目を見開いたまま私を見つめる彼を見る。

「グレちゃん、……私、っ私、こんなにも、グレちゃんのこと大好きで、……こんなにっ、愛おしく思うのに、……どうして、一緒に居られないんだろう、……?」

苦しくて、辛くてどうしようも無い。胸は今にも張り裂けそうなのに。
どうすることもできず、言葉と涙ばかりが溢れ出る。
どんどん落ちてゆく夕日に心の中で"待って"と叫んでみても、私の声は届かない。

「……ひより」

片手を握られ、引き寄せられた身体は再び懐に収まっては動かなくなってしまう。頭の後ろに添えられた手で肩に押し付けられて、背に回る腕がきつく私を抱きしめる。一瞬息が止まり、驚きでわずかに涙が止まる。

「ひより、覚えているか。俺は以前、お前にこう言った。……"俺はずっと一緒に居る。絶対一人にはしない"と」

グレちゃんの言葉に、無言で首を小刻みに縦に振る。
もちろん、忘れるわけがない。

「ひよりがジョウトへ行ってしまうとき、"過去だろうが未来だろうが、お前がどこに行っても絶対会いに行く"。そう言った」

覚えてる。全部、全部覚えている。
また溢れる涙で服を濡らしていれば、急に身体が離れた。……目の前、沈む夕日とグレちゃんの姿が重なる。

「もう一度、誓おう。──……俺は、ひよりとずっと一緒に居る。例えお前がどこへ行ってしまっても、俺が必ず見つけ出そう。だから、」

──……だから。
一気に溢れる涙で、その笑顔が滲むから。何度拭ってもすぐ見えなくなってしまうから。
きつく抱きしめ、撫でられる頭の心地良さに泣きながら笑う。
……影が伸び、闇に溶け。


「──……ありがとう。グレちゃん」


ぱちん。

合わせた親指と中指が擦れて、乾いた音が鳴った。
崩れ落ちるその身体を思い切り抱きしめながらその場にうずくまり、ひとり静かに涙を零す。

さあ、夢の時間は終わりだよ。
……私のいるべき世界に、帰ろうか。



- ナノ -